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荒野
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"mene,mene,tekel,upharsin."
『WÜSTE』 Einstürzende Neubauten
乾いた踝に砂が爪を立て、掻きむしり、肉の中に侵入してくる様を思い浮かべた。無数の蟻のように。ざらりとした硬い皮膚を食い破らねばならぬほど大地は飢えている。その踵は粗末な小屋の壁のように味気なく見えるが、中に充ちた血と肉は香しくも甘いことを、砂は記憶しているのだ。いつか自分らが飽食する筈のその肉体を。
彼──はまだ歩き続けていた。その踝はおれが想像したのとさほど変わらぬ状態になっているだろう。吹きつける乾いた風に亜麻の衣は裂け、皮膚は塗り固めたような砂岩色と化していた。
青白い唇はもう動きそうにもない。幼子の頃自分がどれほど愛くるしかったか彼は憶えていまい。もじゃもじゃと伸びた髪もまばらな髭も泥の色だ。
貴様は愚かだ。
上空から降りてくるおれを彼は茫とした、しかしまだ知性の残る目で待ち受けた。薄く開いた唇の端に泡の跡と砂がこびりついている。乾ききった風がその着衣に吹きつけ、老人のように骨の浮いた躯の線を嘲笑った。
嘗て高みに座していた彼をおれは憶えている。──の、右側に。
──の滑稽で深刻な矛盾の一つ。全能かつ唯一の至高である筈の者に何故、このような息子がいるのか。
そう。この男はいつしか出現した時既に矛盾を体現していた。そしてその大いなる愚行を成そうとしている。
《全能》の名誉や自尊心や片意地や偉大なる愛とやら、その他数多の美しげな名目の為に。
「馬鹿としか言いようがあるまい、貴様は」
おれ流儀の唐突な挨拶に、彼はにこりと笑った。
不意に彼がこの地に降りた夜が思い出された。まろやかな光に満ちた小屋と、女の柔らかな胸に抱かれて眠る赤子。
あの娘の微笑に酷似した笑みには一片の翳りもない。面白いではないか、──よ。この男は貴様の子でありながら貴様とは血の一滴たりとも関係はないのだ。人間の母親そっくりに笑うのだ。
「そろそろ現れる頃だと思っていた。《明けの明星》」
嗄れた声で彼は言った。
「その名は止せ」
「何故だ? 貴方は長くそう呼ばれていた」
「それは天の欺瞞に従っていた頃の名だ。おれは飽いた。今のおれは地を這う蛇、蝗、そして獣だ」
軋むような風がおれと彼の間をすり抜け、彼はよろめいた。この人の子の身体から生命が失われるのはほんのすぐ先だ、乾いた地と風がそれを欲している。
いや、誰よりもそれを待ち望み、舌なめずりをしているのは貴様だ、──よ。
「名は名でしかない。貴方は嘗て天上で光り輝いていた時と少しも変わらない」
呟くように彼が言った。
「その頃からおれは闇の色に染まっていたか」
おれは翼をざわざわとばたつかせた。地の底、九つの地獄に堕ちた時におれは闇よりも暗くなった。おれに従ってきた者達も。暗黒には暗黒の、沈黙と美とがある。それに背を向けて醜きものとした──の何と狭量であることか。あれが闇と光を隔てなければ、人は永遠に善悪など知らなかったものを。
だからこそ貴様は人にあの木の実を与えたのだったな? 《全能》よ。
「いや。貴方はいつもまっすぐで、輝かしい」
彼の言葉におれは目をむき、そして笑った。
「四十日間荒野を彷徨ってもまだ軽口をたたく気力が残っていたか、御子。数多の天使がそれを聞いてさぞ嘆いていることだろう」
「軽口などではない。わたしはずっと貴方が羨ましかった」
「は。それでこの愚行か」
父の無言の命令のままに地に下り、微笑みかけ、唾するものを愛し、裏切られ、そして磔にされるのか。人の子らの為に、貴様自身が見たこともない数多の酷薄な人間どもの為に。
「おれを羨むのであれば父に背け。貴様が成そうとしているのはただの茶番だ。人間は祭で無惨に殺される犠牲を喜ぶだろうが、それは祭が終われば忘れ去られる。貴様の血と肉などそれだけの意味しかない」
彼はやわらかく微笑んだ。その無垢さにおれは歯がみした。
「貴様が磔刑に処されるのを待ち構える人間どもを貴様の父が本当に愛しいと思うのであれば、その全能でもって無原罪の生き物に変えてしまえば良い。何が新しき契約だ、自分の息子を殺させるとは全く良い余興だ」
吠えるように吐き捨てると、上空で睨んでいた天使が竦み上がってどこかに飛んでいった。言いつけに行くつもりか、知性のかけらもない羊め。無用だ、──の目はこの空虚な荒野にも届いている。
おれがどのように振る舞おうと、何を唆そうと、奴はそれを面白がっているにすぎぬ。己の息子が小さな苦しみに張り裂けんばかりの胸を抱いてさすらっていることも、──にとってはただの暇つぶしなのだ。
嘗て貴様はおれにも命じたではないか、あの木の実を女に差し出せと。
「ありがとう」
低く彼は言った。
ふと彼は顔を歪めた。
おれはこの男をよく知っている。──が如何に自分の良いように彼を造り上げたかを。人の子らよりも人らしき、けれど一かけらの罪もない。奴にとっては己がこの無垢なる者を疎ましく感ずることすら退屈しのぎの楽しみなのだ。そしてこの男が味わう恐怖や苦しみは何よりの美酒なのだ。
「《明けの明星》。わたしは……だが、成さなければならないのだ。契約を、そして人の子らに赦しを与えるのがわたしのつとめなのだ」
「貴様が苦しみぬいて死ぬ。それだけだ。この荒野の乾いた土くれよりも無益なことだ」
「無益だろうか? わたしは」
「ああ。誰よりも」
彼は笑った。土がこびりついた頬がまだらに染まり、そしてまた乾いていった。
「わたしはだが喜んでこの杯を飲み干すのだ。多くの人々が父に赦されたことに気づく時、わたしは既に天にいることだろう」
「それだけか?」
「わたしは無益ではないよ。貴方とは違うやり方で、わたしは人の子らを愛するのだ」
「それだけか?」
彼は小さく呻いた。笑ったのかもしれない。
「ああ、そうすれば父はわたしを愛してくださるだろうか?」
彼が去った後の荒野は亡者が啜り泣くような風が吹きすさんでいた。
翼の先が触れたいばらが燃え上がり、一瞬にして黒い塵と化した。
END.
無信仰の分際で黒い聖書ネタ。駄文
『髑髏の丘』とはまた違うイエス像であります。
冒頭はノイバウテンのアルバム『TABLA RASA』収録の曲。(「メネ・メネ・テケル・ウパルシン」は旧約聖書参照)。『WÜSTE』とはドイツ語で荒野/砂漠?のことです。
02/12/25
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