窓の縁に並ぶ作り物のグリーンに埃が溜まっている。
この喫茶店に入ったのは二度目。学校前、ピアノ科の演習棟から最短距離に位置するというのに、僕は入学式の後に友達と待ち合わせをしたきり、二年間ここに入ったことがなかった。学内のカフェでもベンチでも花壇の縁でも、腰掛ける場所はいくらでもあると知ったからだ。
内装はたぶん、十数年は変わっていない。このグリーンの埃も十数年分のものかもしれない。僕らが見る星の光が気の遠くなるほど昔のものであるのと同じく。
どこそこの何が美味しい。イマイチだった。どこそこはすっごく美味しい。聞いたことない。燕のさえずりよりも難解な会話がひとしきり続いて、ふと聴き取れる言葉になった。
「先輩、去年文化史の単位取りました?」
はす向かいの、学内音楽会にチェロで出るのだと言った子が、テーブルの上で祈るように手を組んでいる。
「うん。レポート好きだよね、あの先生」
そうなんです! と三人の女の子が一斉に悲鳴のような声を上げた。店内が騒がしいからか、声が大きい。さんざん迷って注文したケーキが運ばれてきて、また歓声。
女の子達は全員ロイヤルミルクティーを頼んでいた。ロイヤルと普通のミルクティーはどこが違うのか、これも謎。
ダージリンを頼んだ筈が、どうしてかベルガモットの香りがついていた。
コーヒーの善し悪しは判らない。けれど酸っぱいのは好きじゃないし、飲んだ後に舌にざらっと何かが残るのは嫌だ。──デンジャーゾーンな時は紅茶にすんねん、色のついた水の方がましやん? そう従兄に知恵をつけられて以来、僕は紅茶党だということになった。注文する前から危険かどうかなんて、どうしたら察知できるのかは今も判らないけど。
アールグレイでも、紅茶が出てきただけましかな。
「内容は見てないってホントですか?」
「レポートの判断基準は判らないけど、出席率重視だって」
「やばー、あたしもう2回サボった」
「厳しー」
文化史の先生は欠席6回で出席名簿のその学生の欄に赤い線を引く。欠席の理由が病気だろうと海外でのコンクールだろうと絶対に。けれど、レポートを毎回提出していれば、期末試験を受けられなくても見逃してくれる。僕は去年そうして単位を落としかけ、単位を貰った。
少し前、どの先生の授業を選ぼうかと迷っていた後輩に訊かれてそう答えると、何故か不満そうな顔をしていた。
──ばーか。お前のこと訊いてたんだよ、あれは。
友人の萩原に後でそう言われた。今回も真面目に答えない方がいいような気がする。
「雨、止みませんね」
隣の子が言った。
「嫌い?」
「え?」
問いが不協和音のように聞こえたのか、その子は曖昧な笑みを浮かべた。
「《雨だれ》は好きですよぉ」
この雨、ショパンに聞こえる?
何だか、また彼女の音から遠ざかった気がする。
雨のにおいとか、さっと色づいたいつもの景色とか、小さい子が懸命に履くレインシューズの艶とか。
僕は、そういうことに気づいた時、雨が少し好きになった。
湿気でピアノの響きは変わるけれど。
僕がドイツで出会ったベーゼンドルファーは雨の日には低音が曇るけれど、深みを増す。
リストのエレジー教えて下さい! と唐突に頭を下げられて、向かった練習室は予約を入れておいた筈なのに順番待ちだった。
ヴィルヘルム先生──カイゼル髭だからついた渾名。御本人お気に入り──に頼めばどこかの部屋の鍵を貸してくれるだろう。でも見かけよりもずっと冗談が好きな彼のことだから、僕が彼女たちに教える様を見学させろと言い出しかねない。
ヴィルヘルム先生のそんな一面を知ったのは、実は最近のことだ。
「一時間待ちだって、最悪。並木先輩、ホントすいません。お詫びに何でも奢りますから!」
「それはいいけど……エレジーの1番? さっきも言ったけど、僕は独奏でしかやったことないから──」
「はい! 並木先輩のリスト、すっごい好きです! 去年の《鬼火》聴きました!」
「どうしたらあんなに速く弾けるんですか」
「リスト弾く為に生まれてきたって感じ」
よく似た言葉を僕は何度も言われた。日本でもドイツでもオーストリアでも。
それは決して賞賛ではなく。
校内音楽会用にヴィルヘルム先生がくれた課題は、ベートーヴェンのソナタだ。
「あ、すいません。追加お願いします」
隣の女の子が唐突に声を上げる。チェロの子が、バカ、と呟いた。
「先輩ケーキ! ケーキ食べましょ、ここのチーズケーキ美味しいんです」
隣の女の子がメニューを差し出す。
多分、僕はちょっと嫌な顔をしたんだろう。
いい子だな、と初めて思った。
そんなことも見ていなかった。
「──だからちょお不幸。もう、どん底!」
はす向かいの子とその隣の子の声は
──君が楽譜を読めることは判った。次は君のピアノが聴きたい。
最初の個人指導の時間に僕がラヴェルを弾き終えた後、ヴィルヘルム先生はそう言った。
「バイトもやめちゃったし、ビンボーって悲惨」
日本の女の子は友達同士で服装も喋り方も語彙も似ている。最初からそうだから気があって友達になったのか、それともいつの間にかそうなるのか。この前先生にお昼を御馳走になった時、周囲のテーブルの女の子が皆似ているような気がしてそう呟いたら、先生はカイゼル髭を震わせて笑っていた。
「別れて正解だよ、あんなヤツ」
「そうだよ、リサ可愛いもんもったいない」
──不思議なことに、雨だれや鳥のさえずりは理解しているのに、君はどうも人間の言葉は苦手なようだね?
「先輩今カノジョいますか?」
「ルートヴィヒが女性ならね」
「……先輩、ドイツ行ってきたんですよね? そういえば」
「うん。勉強になったよ、色々と」
──3曲通してと言いたいところだが、まあ、32番だけで勘弁してあげよう。
ベートーヴェンの最後のソナタ。
極限までシンプルに、歌うように。
絶望と救い。
痛みと雑音の世界で音楽を創り続ける。
天から駆け下りてくる
軒先に滴る水音。ファ、シ、ソ。すらりと自転車の前を横切る燕。
街路樹の新緑。
レ、といきなり鳴ったのは花屋の庇の骨組。思わず笑うと同時に背中を叩かれてつんのめった。
「あれ?」
「なあに一人で笑ってんだ」萩原が薄気味悪そうに言う。「見てたぞお前、2年の女の子たちにナンパされてただろ」
「教えて欲しいって言われたんだよ。時間切れになっちゃったけど」
「それを世間ではナンパという」
じゃあ僕もこれからヴィルヘルム先生をナンパしに行くのか。
「で?」
「あの突き出たところに雨が当たって面白い音が出たから──」
「あ、ほ、か!」
ルートヴィヒの絶望は僕にはない。けれど、陽気な女の子達も幾つもの苦しみを抱く。冗談めかしながらも真剣に。だからこそ、美しいものが見える。
彼は誰よりもそれを知っていただろう。
「何故ウィーンから帰ってきた男がここまで鈍いんだ」
「うーん、そうかもしれないとは思ったけど、話続かないし、ぼーっとしてたし、きっと呆れられたと思うよ」
「ところで……学校こっちだけど、お前どっか行くの?」
「いや……音とか燕とか辿っていたら、つい」
──呑気だね。仕方ないからその分、ピアノで語りなさい。ホダカ。
END.