この世に色のない部分はないのだ。1
下塗りはニッケルチタニウムイエローライトとチタニウムホワイト。このうらなりの瓜のような大きなチューブを口の中に絞り込んだら確実にあの世に行けそうな名前。いつも下塗りに使っていたやつが発売停止になったとかで、画材屋がこれを勧めた。フレークホワイトは毒性が強いから何とかと。
今更何だ。指の先まで毒に冒されていなくて絵描きといえるのか。
いや、指先までじゃなくて、指の先からだ。肘へ肩へそして脳の中心と心臓へ、色に染められていく。きっちりと、隅から隅まで、丁寧に。
筆を動かしていると、筆先が邪魔になる瞬間がある。
ナイフは無論のこと。
バーニッシュ(ニス)のとろりとした表面に指先で触れれば、次元の向こうの「それ」に触れられるような気がする。それを掴んで、引き出せば、この忌々しい画筆になど用はなくなる。
──魔が差すってホントなんだね。
数少ない親しい人々の中の一人が、俺の戯言を聞いてそう言ったことがある。そんな大層なことではない、馬鹿馬鹿しいと笑えばいいのに、俺の愚かしい真摯さを確実に聞き取る。
解っている。指で触れれば、乾ききらないキャンバスには醜い跡が残るだけだ。俺の画風では殆ど取り返しのつかない染みに。
それを承知していながら尚、俺は時折そうしたくなる。
繊細なセーブル毛を以てしても見えてこないそれを、不器用な指先でほじくり出せる筈もないというのに。
トランスペアレントオキサイドブラウン。
ローアンバー、バーントカーマイン。絵具の名前は斯くも仰々しい。
こうしてイーゼルに向かっている間は一瞥もしない、チューブに書かれた文字の羅列が、呪文のように全身の血管を巡り続けるのだろう。息苦しく甘美に、隙間なく、染め尽くせ。
「おう、幸弥。邪魔?」
大丈夫みてぇだわ、と、その声は背後に近づいてくる。深く黒に近い焦茶、ツヤ消しのその響き。
「う、ここに一時間いたら確実に中毒になりそう」
「いいの? 萩原。制作中に勝手に入って」
その控えめな声はひどくソフトだった。真っ白に塗りつぶされたキャンバスの上にふわりと置いた──何色だろう。
「大丈夫。こいつは筆を持った瞬間外部と隔絶する」
「それじゃデッサンとか出来ないんじゃない……これ、なに?」
「チューショー画? 俺もよくわからんけど」
それは、本当は違う。俺は目に見えているものしか描けない。けれど、それはこの頭部に二つついている目ではないのだと言われた。
人間が視たと知覚するのは眼球ではなく脳だ。だから俺の目がどこにあろうと、見ていることにかわりはない。もしかすると、俺の眼球は身体の内側を向いているのかもしれないが。
「うーん、何だろなこれ。タマゴ? ピータン?」
「水の波紋?」
「皆既月食。いや、もっと似たのを見たぞ俺。メディアプレイヤーのアニメーションで」
「人の目の奥ってこんな感じかな」
「あ」
その声が言ったことが、ぼんやりと考えていたそれにあまりにもぴったりだったから、ふと声を上げた。がっしりとした方、萩原が驚いて一歩退いている。萩原のイメージは昔住んでいた家の居間の空気に似ているな、そう脳裏の片隅で考えつつ小柄な方を振り向いて、その真っ黒な双眸を覗き込んだ。
ああ、深淵だ。やはり。
「おい幸弥、いきなりどうした? つーか初対面の人間に、あー穂高こいつこーいうヤツだから」
「……お邪魔しています」
深淵の主はそう呟いた。
──黒以外にありえないじゃないか。
屈んでいた背を伸ばして、頭をがりがりと掻いた。そちら側の手にべたべたの画筆を持っていたことを思い出したが、別にたいしたことではない。落ちなければ髪なんか切ればいい。
「こいつ並木。ヨーロッパ行ってたんだけどな、暫くぶりに日本に帰ってきたら見事にモノを忘れてるんで、ニオイをつけ直して回ってるとこ」
「犬じゃないよ」
「犬の方が憶えがいいわい」
この黒は駄目だ。薬物中毒な絵描きとは最高に合わない。染め尽くされて終わる。俺が描き出そうとしているこれは、この黒だけは使えないのだ。
「……ピアノ?」
「おお、幸弥がまさか憶えているとは! っておかしくはないか、麻里佳があれだけ騒いでたもんな」
それで思い出した。ピアニストだ。
多分この真っ黒な目をした男は、その圧倒的に強い色で以て聴く者を引きずり込むのだ。……本当の音楽家というものがどういうのかは知らないが、この黒は。
「……こわ」
呟くと、並木は小さな子供のように目を瞠って首を傾げた。
「幸弥ー、どっちかっていうとお前の方が怖いぜ、挙動不審で。いいか穂高、こういうお兄さんが公園でお菓子をくれてもついて行くなよ」
「何で公園なの?」
「お前ら二人とも少しはサービス精神を持てよ、ボケボケめ」
彼らに背を向けて、キャンバスを見つめた。
今日はもう、終わりだろう。俺がさっきまで見ていたものがまた戻ってくるといいんだが。
「んでそれ何、ユキちゃん」
「……わからない」
呆れたように萩原が何か言った。
だって仕方がないだろう。俺の語彙はあまりにも貧しい。だから描くのだ。
「ごめんね、中断させて」
並木が詫びた。謝ったところを見ると、自分の色を理解しているのだろうか。それとも今のは一般的な社交辞令だろうか。
中断したのは本当のことだったから、それには何も答えずに筆を洗い器の中で緩く濯いだ。まだ下塗りからそう進んだわけではないから、それだけで大体落ちる。
「それ、本当に目だったわけ?」
萩原が訊ねたので少し考えてから首を振った。
「そういうものなの、絵って」
画題が決まっていないのではない。少しずつ、ヤスリで石を磨き続けていると中の琥珀が現れてくるようなものなのだ。琥珀が石の中に入っているのかどうかは知らないが──最初からそれを見ているのは俺だけだし、それが見えているかどうかも疑わしい。考えながらそう言うと、並木はふうんとまた目を瞠った。
麻里佳がいきなりこのピアニストに熱中したのも解るような気がする。誰もがその強さを知覚しないほどの黒さというのは、厄介だ。これでは明日も描けるかどうか解らないなと考えたが、萩原と一緒に外に追い出す気にはならなかった。
「表現するにもピアノの方が簡単だろうね。楽譜があるし」
「穂高。お前たった今無数の敵を作ったぞ」
「だって僕、画家の目は持ってないから」
俺だってピアニストの指と耳は持っていない。
ピアノがただの完璧な技巧だけなら、そして絵が完璧な写実性だけなら、俺達は──この天才と謳われる男と一介の美大生である俺を一括りにそう称するのはおこがましいが──どちらも無意味なのだ。シンセサイザーとカメラで充分だ。しかし、シンセサイザーに造り出せない音曲が、カメラで映し出せない映像がある。
風。波長。温もり。希望。生涯。本当に無数に。
そしてそれらの中から言葉全てを取り去った純粋な「それ」。
「あ、また描き始めちまった。ちぇ、タダ酒なのに」
「また今度にしよう。この絵が完成したらその御祝い」
「そん時もお前の奢り?」
「いいけどお歳暮に貰ったやつでいい? うち飲む人いないんだ、ウイスキー」
「そりゃー願っても……」
「うるさい。さっさと出ていけ。黒が混じる」
ぴたりと声が止んで、代わりに清浄な風が入ってきた。扉を少し開けていったらしい。
後に残ったのは不思議な余韻。
音のない空間とは真っ白く塗りつぶしたキャンバスと同じかもしれない。本当は、音のない場所なんてないのだ、多分。
次に並木に会った時にそう訊ねてみよう。憶えていたら。
END.