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ペリドット・ライト
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昔からそうなのだが、門橋啓一という男は同時に二つのことをしていた方が上手くやれるという、特技ともその逆とも言えるものを持っていた。
こう聞けば、彼を良く知らない人はそれがどうしてマイナスに働くのかと不思議がるかもしれない。友人や、嘗てつき合っていた女性達ならすぐに解るだろう。つまり彼は、まっすぐ相手と向き合ってじっくりと語ったり、恋人と身体をよせあってただぼうっと過ごしたりするのが苦手な性格なのだ。本人曰く「時間がもったいないわ」、それで僕の知る限り少なくとも二度は平手打ちつきの失恋を味わっている。
「それは違うで。一度は拳やった」
こうしてペン入れ(鉛筆の下書きの上からインクで描き上げることだ)しながらも、門橋はいつものように訂正する。見かけはいかにも今時の若者なのに、彼の仕事は門外漢の僕の目から見ても丁寧できちんとしている。
「何や、お前らいつの間に別れてもうたんか。こないだ相馬んとこで瑞枝ちゃんの話出てな、それでるりの奴妙な顔しとったんか。はよ言わんか」
ずけずけとものを言うくせにずきりと響かないのは、門橋の手が執拗なまでに緻密な都市の風景を描き続けているからだろうか。傍らには大きく引き延ばした写真を置いているが、彼の視線は原稿から離れない。多分門橋の脳裏にはこの写真が既に焼きつけられているのだろう。
「中華街?」
「そや。今度この電信柱、全部とっ払って表参道とか広尾とか、あんな感じにしてしまうんやて。あかんやろ、中華街はこの派手派手しいのがやっぱええのに」
「うん」
「あー重慶飯店のメシ食いとうなってきた、何やっけあの酸っぱ辛い、カシワと卵のやつ。本間、お前川崎やろ、せっかくの地の利活かさんと。次来る時はマンゴープリン買うて来て」
「うん」
「さっきからお前、俺が喋ってばっかりや。電話でえぐえぐ泣くからほんなら来い言うたやろ、うんうん頷いとらんと」
「泣いていないよ」
「このペン先賭けてもええわ、お前べそかいとった」
「安い賭けだな……」
「あ、お前はそう言うけどな、こう一箱買うてもそん中にあるアタリは数本なんやで? 結局単価高い消耗品や。で?」
だから、泣いてはいないんだ。
「瑞枝とはもう、完全に終わったから。それ自体はけじめがついたというか、もういいんだ」
瑞枝はもう新しい恋人を見つけたのだと、彼女の親友であるるりさんの口振りで判った。多分今度の男は映画が好きで、お好み焼きが上手くひっくり返せて、競馬場でももたつかずに上手くやれるのだろう。瑞枝もちょっとひどいわよね、とるりさんは電話口で言った。それは、貴方とは最初から無理だったのよ、と聞こえた。
確かに僕のように鈍くて平凡でとりたてて趣味もない男は、瑞枝には相応しくなかった。それはもういいだろう、今考えなくても。僕の中では瑞枝とのことは終わったのだ、門橋が今引いた強い線のように。
「じゃあ何しゃぼくれとんの」
喋れ、次のネタにするから。そう門橋はいつも言う。そして時には本当に僕の体験談を漫画の題材に使う。彼が言うには、こう宣言されつつもネタを提供してくれるのは僕と彼の従弟くらいなのだそうだ。
「門橋は……別れた恋人の趣味とか好みにいつまでも引きずられるということ、ないか?」
そう。問題は。
淡い色の貴石、生成りのタオル、スタバ・ラテは砂糖抜きでぬるめ、アルデンテのパスタは嫌い──それらを見る度に気になることなんだ。
「ないなぁ、大体俺ハナから憶えんわ」
門橋はペンを注意深く置いて、ほつれてきた髪を束ね直した。
「髪切りたいわー」
「願掛け?」
「アホ。結んどいた方が落ちないからええの。一度ばさっと落ちてインクをびーっとやってもうてな。漫画家殺すのに凶器は要らん、インクで充分や」
今はパソコンでちょいちょいの奴が多いけどな、と門橋はぶつぶつ言っている。要するに昔気質というか、職人根性なんだろうか。
「坊主にしよかなあ。それでお前、何か瑞枝ちゃん好みのもの見る度にああ瑞枝ちゃんとか思い出しとんの?」
「そうじゃないんだ」
門橋の口調に思わず笑った。
「瑞枝を全然思い出しもしないのに、目はショーウインドーの中のペリドットを見つけるんだ」
柔らかい絹の上で輝く、カットされていない丸いペリドット、淡い碧色の石。
「お前よっぽど擦り込まれたんやな」
瑞枝の為に弁明しておくならば、彼女は別にあれこれとねだるタイプではなかった。それどころか、何らかの理由もなくちょっとしたものをプレゼントしようとすれば、あまりいい顔をしなかっただろう。自分の金でささやかなものを自分の為に買う、そういう女だった。
「そういう風に……何と言えばいいのか、瑞枝の好みを覚え込んだだけなのかなと、ふと思いついて」
「はん? どういう意味」
「指輪なんかはともかく、気がつくとうちのタオル、ほとんどが生成りになっているんだよな」
コーヒーちょうだい、と手真似で命じながら門橋はふきだした。
「そらお前……それはアリやろ、好きな奴との同一化願望。お前紅茶派からコーヒー派に変わったの、瑞枝ちゃんとつき合いだしてからやもんな」
「インスタントなら紅茶の方が好きだけどね」
「あ、それで思い出したわ、こないだ美希が寄越した紅茶のセットそこ、一番下」
「同一化願望かどうか知らないけど。とにかく、今でもそういうものを見つけると心が弾むんだよ。変な話」
瑞枝の好みにぴったりの。
贈る相手はいない。そう承知している。心が痛むわけでもないのに。
「それ未練か?」
「あえて言えば瑞枝その人というより、ペリドットを贈る相手を損失した事への未練。……ティーサーバーは?」
「急須でガマンせぇ」
上の空で呟きながら門橋は考え込んでいるようだった。
「そらぁ何とも……お気の毒様?」
「何だかな、それ」
「失礼なこと訊くけど、お前瑞枝ちゃんのこと本気やったよな」
うん。と頷いた。
茶葉が沈むのを待ってから二つのマグカップにゆっくりと注ぐ。湯気が鼻先をくすぐった。
この湯気に色があれば、多分それも瑞枝の好きな色の一つだろう。
そして僕も。最初から好みは幾らか似ていたけれど。
「僕の主体性がないだけの話かな?」
「違うと思うなー、お前時々えらいガンコやで? 気づいてないみたいやけど」
まだ乾いていない原稿を空いているスペースに次々と放りながら、門橋は手を止めずに答える。
「しばらく味わうてのは駄目か?」
「味わう?」
「俺はコーヒーも紅茶もインスタントで全然オッケーやけどな、日本茶はうるさいで。いい茶は後味がええんや。こないだ穂高が一袋丸ごと急須に……いや、そやから余韻をな」
そのマグカップのダージリンは少し香りがとんでいたけれど。
「瑞枝の余韻?」
「何かやらしいわそれ。違うで、いい恋愛しましたって余韻や。うう、お前相手やなけりゃこんな臭いことよう言わん」
「何で僕だといいんだよ」
「本間、後味どうや?」
うん、とマグカップを両手で包み込んだ。
掌から腕へと、エネルギーめいたものが流れ込んでくるような気がした。マグカップで紅茶もいいかもしれない。この部屋では。
「本気だったからね」
そやろ、と門橋は何だか得意げに頷いた。
まろやかに輝く碧の石。柔らかな照明の下、台座の金と融けあって、
それはこの湯気の色と似ているかもしれない。
END.
また野郎側の失恋話。ネタとしては失恋した女の子でも良かったんですが、そうするとすぱっと終わらないような気がして……ハイただ女の子書くのが苦手なだけです。代わりにちょっとロマンチストでおとなしげな本間君、20代後半くらい、職業普通のサラリーマン。10代で上京してきた漫画家とどうやって知り合ったのかは謎。ちなみにワタシはマグカップで緑茶もオッケーです。
関西弁については
NOVELS WORLDの掲示板上で大丘 忍様にアドバイスを頂き、直させて頂きました。ありがとうございました。
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