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096 白い海辺 

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流されるくらいなら、溺れてしまえ。
 
 
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 冬の太陽はいくら白く照りつけても熱はない。
 今は緩やかな波が、白い泡をすいと岸の方に押しつけては去っていく。
 セブンスターに火をつけた。
 乾いた空を背景に、煙はふらりと立ち上る。ゆっくりと数口味わって、サングラスを外していないことに気がついた。数年来着続けているトレンチコートにドライバー用の黒革の手袋。傍目にはさぞ気障な男に映るだろう。幸い、周囲に人気はなかった。
 空に向かって最後の煙を吐き出し、手元のコーヒーの空き缶に煙草を落とした。相棒はこの癖をひどく嫌う。飲み残したコーヒーに煙草の吸い殻が浮かぶ様は確かに汚らしいが、ふと気がつくと吸い殻をチャプリと落とした後だ。海岸を汚すよりはましだろう。
 相棒がこの缶を見つけた時どんな反応をするのかが如実に想像出来て、思わず喉の奥で笑った。セフィーロのフロントにコトリとそれを置いて、また吹き出す。
 コートの背中越しに、冬の陽射しはじんわりと暖かくなってきた。
 
 
 ──ごく平凡で真面目なサラリーマンを想像すればいい。学生時代はバスケにスキーとスポーツ三昧、40度の傾斜を平然と滑るくせにスノーボードは全然駄目。いいヤツ信頼出来るヤツとして友情は長続きするが、口下手なせいで女の子とは長続きしたためしがない。まあまあ名の知られた会社で事務畑の人となり、似たような性格の女と数年間つき合った後に結婚。子供は二人欲しい、犬を飼いたいが妻の欲しがっているチワワは好きになれない……ささやかな幸福、それに気づかない幸福な男。
 それが、どんな変遷を遂げて現在のような甚だしい変貌を遂げたのか? ごく簡単なことだ。専務が一人入れ替わり、新しい専務の腰巾着が課長としてやってくる。彼は憶えていないが向こうはしっかりと記憶している、学生時代にとあるバスケの試合で──3点だったか──5点だったか? 僅差で負けたその試合の後、その男はとある女の子に振られたとしよう。「アタシの為に勝つって言ったのに、その程度の愛なのね」、カノジョの理屈も変わっている。が、釣り逃がした魚は可愛らしく美しいものだ。その後娶った専務の愛娘が見てくれ不美人の性格不美人とくれば逆恨みはますます募る。
 かくて残業に休日出勤、書類不備に担当交代と、理不尽であからさまな苛めを受けたすえに不幸な男はリストラに遭う。再就職した先は小さな運送会社、いきなり下がった知名度と給料に妻の不満は募るが、それに気づく間もなく働き続けた男がふとある朝気づけば、妻はパート先のバイト君とお熱いメールを交わす仲となっていた。
 そこまで来れば後は速い、60度以上の傾斜を直滑降。人生に早くも失敗し妻を顧みなかった不実な夫として妻とその親に責められることに嫌気が差し、ある5月のうららかな日にふと思い立って運送会社の名前入りトラックを見知らぬアパートに横付けし、缶コーヒーを片手に今までの全てとオサラバ。見違えるほど明るい表情で鼻歌なぞ歌いつつ歩けば、自分がまだ26歳の健康で自由な青年であり世の中は全て美しいことを発見。高いところから景色を眺めてみたくなり、足の向くままに暫く歩いてひょっこり出たのは何故か夕暮れの首都高速。先刻買い直した缶コーヒーを片手に夕暮れの方角へとフラフラ歩き続けて──何故そんな時に限って白バイもパトカーもうろついていないのだ──そうして、とある不幸で後ろ暗い男がハンドルを握るセフィーロの前にふらりと現れたのだ。
 
 
 相棒が語るその経歴は、彼が語るとひどく生き生きとしていて興味深いのだが、脳裏で反芻してみれば今時どんな三流ドラマでも使わない程度のありふれた物語だった。──いや、三流ドラマにはなるかもしれない。そういったドラマのファンはお気に入りの俳優が出ていればそれで満足なのだから。
 むしろ、それ以降の相棒の経歴の方がよほど馬鹿馬鹿しく聞こえるだろう。正しくは「相棒の」経歴ではなく、どういうわけか彼を相棒にしてしまった自分の素性のせいなのだが。──ああ、『ジャッカル』? あれでしょ観たことあるよブルース・ウィリス……え、その前? 知〜らない。……馬鹿者。
 映画はともかく小説を読め。『ジャッカルの日』だ。回りくどい言い方だろうか? ならば平たく言おう、狙撃のプロだ。無論、国家権力とは縁もゆかりもない側だ。別に狙撃に限ったわけではないが、一番依頼が多いのはライフル仕事。何しろこの国は分解してさえいればライフルでも赤外線スコープでも楽に持ち歩ける。
 いつかふとそんなことを口にした時、元平凡なサラリーマンはふうんと呟いただけで、バラエティー番組の司会者の言葉に笑い転げた。以来、あまり心楽しくない話題や深刻すぎる話は相棒がくだらないテレビ番組を観ている時に話すことにしている。
 ──それでもちゃんと聴いているのだ、あの男は。
 
 
「おーい、買ってきたぞー、朝メシ」
 元サラリーマンがガードレールの向こうからコンビニ袋を掲げてみせた。視線を向けなくても中身は判る。相棒お気に入りの明太子と梅とツナマヨネーズ、牛乳プリン、それに甘い缶コーヒー。自分用にはサンドイッチとやはり缶コーヒー、いつものブラック。
「なぁ、ボスの『休憩中』と『仕事中』試してみねー?」
 ガードレールをひょいと跨ぎ、プロスキーヤーも感心するだろう機敏さでひょいひょいと駆け下りてきた相棒は、わくわくと尻尾を振る犬のように覗き込んできた。そんな風にキャップを被るとまるで学生のように見える。
「ブラック」
「つまらん。せっかく色々買ってきたのに」
「連絡はついたか」
「うん。予定通り決行。うー寒い、くぅぅコーヒーあったかーい」
 多分、サラリーマン時代のこの男は、ずっと老け込んで物静かだっただろう。
 スーツ姿を想像しながらコーヒーを一口飲む。相棒は海苔を相手に苦戦していた。単純計算で年に1000個は食べる計算なのに、この男はいつまで経っても海苔を破いてしまう。
 それが何故、こんな闇稼業にあえて手を染めるのか。
 ──守護天使が俺に言ったんだよ、この仏頂面ののっぽ野郎が良かれ悪しかれ今後の俺のキーパーソンだって。やだなあ、これって愛の告白みたいだな。
 確か、しれっとしてそんな科白を吐いた筈だ。
 間違いだ馬鹿者。それは守護天使ではなく悪魔だ。
「3:24の特急でこっちに着く筈。ね、ね、この盗聴器って凄ぇな? アキバで堂々と売ってたのにこんなに高性能」
「それに飯粒つけるなよ」
「あ、やべ」
 何故この男は、仕事の話をしながらこうも無邪気に笑えるのだろう。
 それをキレたと世間ではごく簡単に言うが、後先を見ない中学生が担任を包丁で刺したりオタク野郎が車内で暴れたりするのと同じ言葉でこの男を定義出来るものだろうか。
「影沼ー。暗いぜお前」
 飯粒をコーヒーで飲み下すという胸の悪くなるような行為を続けながら相棒が言った。
「名前通り。なあ、日向とかに改姓してみない? 明るくなるかも」
「ならん」
「人生もっと楽しく溺れよーぜ?」
 聞き違いかと耳を疑うような科白を言って、元サラリーマンは俺のサングラスをひょいと外した。
 間近で笑ってみせる大馬鹿者。
「俺は悟ったの。不幸は流されるよりも溺れちまった方が楽しいもんなの」
「……意味がわからん」
「いいよ、別に。おお、あの車そうかもな?」
 サングラスを奪い取って顔を顰めた。
「人のサングラスに明太子をつけるな!」
「ああ、こいつらもしっかり溺れていれば今頃海を泳ぎ回っていたかもしれないのに」
「乗れ。その前に手を拭け。俺の愛車に海苔を貼るな」
「運転手に向かって偉そうに……」
「なら貴様が撃ってみろ」
「はいはい、いっちょ稼ぎに行こうか。あ、ああーっ! お前また缶に煙草!」
 
 
 不器用に、濁流の中で溺れてしまえばいい。
 
 
END.

(096 溺れる魚)
 3000hit、黒井ソレ様のリクエストは「楊志」。なのに……缶コーヒー? コンビニおにぎり? つーか相棒に費やしている行数の方が多いんじゃ……? すいませんすいません、最初の一行書いたら何故かこんなことに……そして相棒、誰これ? いや不幸者同士といえば「もしかして……××?」と半信半疑のまま判って頂けるとは思うんですが。(秦明じゃありません。といえばもうお判りですね)。蛇矛の人です。変に明るいのはやはりブッ飛んじゃったんでしょう。永遠に溺れていたまへキミタチ。
 ところでこれをアップしたらなんと黒井様が相棒を描いて下さいました!→

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