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軒轅少子譚-1

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軒轅少子譚

一. 二. 三. 四. 五(終).

第一章
 
 
 上天に通じる西の山々の峰からゆるゆると下りてくる白霧は下地を満たし続ける。乳を流したようなその霧は、神・蓐収じょくしゅうの住まう洞穴から流れ来るのだという。
 霧の晴れる処に住まうのは、言語を解する数多のともがら。後には人や妖などと小うるさく分けられるけれども、かの白霧が満ちる混迷の時代には、さしたる区別はない。
 慈悲深き白霧はか弱き者どもを庇い、その身を隠すけれども、時には黒く染まり、また朱に焼き焦がされる。そうして霧の晴れた地には蓐収の庇護も及ばぬ……そこは干戈の音響く戦の場、諸侯らが血を流し互いを喰らう処。弱き輩は身をすくめてその音と声を聞き、死の気配が通り過ぎるのをじっと待つ。
 天の五刑けいばつを司る蓐収は、しかしその剣を鞘に収めたまま。
 下地には上天の秩序は及ばぬ。ただ白霧があるばかり。
 
 
 
 
 河は黄褐色の巨大な生物のように身をくねらせ、激しく咆吼していた。その水面は鱗のよう、岸に激しく打ちつける波はこわいたてがみのよう。河は悠久の昔、最初の軒轅けんえん氏がその威霊いれい《雲を駆る竜》にその身を捧げて契約を取り交わして以来、竜の一族を見守ってきた。
 或いは最初の軒轅その人が竜であったともいう。上天の帝から封土を受け、下地を安んずるよう降りてきたのだとも、いや猛々しきあまり追放されたのだとも、真実は定かではない。諸侯らの多くが戦に明け暮れるのもまた事実である。
 下地に住まいながら天帝に仕える……逆に言えば天帝以外の余人には仕えぬという意味で己を諸侯と称する者らは、威霊と呼ばれるものを持つ。血によって契約し、その氏族を守護する強大無比なもののことだ。威霊を持たぬ氏族はただの氏族、諸侯とは称せぬ。威霊を失えば弱小なるただの氏族に零落するも必定、それを恐れつつも諸侯らは戦に明け暮れていた。
 怒号と悲鳴が土埃の中に絶え間なく生じる。
 《玉亀》玫瑁ばいぼう氏の威霊は力尽きたのか、鬨の声にも既に敗色が濃い。敵兵が浮き足立っているのを見、軒轅の軍は盛んに叫び声を上げて突進し、逃げる敵兵を倒していく。
 青銅の甲冑に身を包んだ軒轅氏坤鳴こんめいは曇天をちらりと見上げた。艶やかな黒髪をざわりとした風が撫でていく。圧倒的な勝利を目の前にしているというのに、彼の胸騒ぎは消えていなかった。空もまた、坤鳴の心を逆撫でるように暗雲を広げていく。
赭牛しゃぎゅうは何をしているのだ……」
 彼は不安を嫡子への非難に代えて口に出した。坤鳴の長子・赭牛は手勢を率いて玫瑁軍を後背から討つ手筈であったが、視界の晴れぬ戦場では、彼らがそれを成し遂げたのかもまだ定かでない。伝令が霧と土埃に迷っているのか、赭牛らが不覚を取ったのか。玫瑁氏を殲滅させても、肝心の嫡男がその様では勝利の酒も旨くない。
 坤鳴は赭牛に殊勲を立てさせるつもりであった。赭牛は既に何度も武勲を立てているが、いずれも勇敢な戦士としての功績であり、一隊を与えられて采配を揮うのは初めてだ。老練な部将常先じょうせんを副将とし、部下も選りすぐってやったのだが……大方、霧の中で迷っているのだろう。仮に玫瑁氏があの大軍を既に敗走させているのだとすれば、こちらに何も報告がなされない筈がない。
 嫡子の能力に疑いを抱いたことは今までなかったが、これでは諸侯の後継としての適性を考え直さなければならない。坤鳴の端正な唇は微かに歪んだ。
 これ以上は引き延ばせぬ。坤鳴は青銅で竜を象った胸飾りの朱玉を掴んだ。不覚を取った嫡子のことは後回しだ、先に玫瑁の首級を挙げておかなければ。坤鳴のその判断は嫡子の遅参に焦れたというよりも、先程から感じている得体の知れない不安に向けられたものであった。
 彼は苛立たしげに命令を下し、胸飾りの竜の小さな爪で手首を突いた。磨き抜かれた青銅はほぼ金色だ。滴る血を掬い、威霊を呼ぼうと口を開く。背後の河が大きく轟くのと、霧の中から現れた血みどろの男が叫ぶのとは同時だった。
「軒轅! 赭牛様が……!」
 見えぬ竜に向けられていた坤鳴の視線が動いた。彼が伝令の困憊した様を見たその瞬間、血みどろのその兵は族長の背後を凝視して凍りついた。
「……坤鳴様!」
 誰かが絶叫するのを坤鳴は聞いた。族長たる自分を名前で呼んだ者は、彼に武芸を叩き込んだ老部将大鴻たいこうだろう。あの男は時々うっかりとそう呼んでは気の毒なほど青くなって陳謝する。自分はさほど気にしていないのに……何故かそんなことを考えたのが坤鳴の最期だった。背後を振り向く間すらなかった。
 河の中から出現した巨大な亀。
 異様な五色に包まれたその口が坤鳴の左肩に喰らいつき、いともたやすくその上半身を引き剥がした。飛び散った鮮血とこぼれた内臓が亀の爪や喉を染めた。
 稲妻がその凄惨な光景を照らし出し、遂に雨が降り始めた。土埃を吹き飛ばし、立ち尽くす大鴻や数多の死者らに叩きつける豪雨であった。
 
 
×    ×    ×
 
 
 黄駻こうかんは倉庫の敷居に腰を下ろしていた。城門が閉ざされ、角楼ものみやぐらが武装した男達に固められる様を見物しているその姿は、傍目からはいっそ呑気に見えることだろう。だが彼を咎める余裕のある者はいなかった。
 予想だにしなかった惨敗に軒轅氏の人々は愕然とし、族長坤鳴の死に動揺している。彼らが理性を取り戻せば、また幾つもの問題に気づいて恐慌状態に陥るだろう。だが今の処、軒轅の民は迫ってくる敵軍の影に怯えて忙しく立ち働くばかりだ。
 赭牛の軍は玫瑁氏の威霊、巨大な玉亀によって早い段階に壊滅していたのだという。威霊を使うのは普通、戦の大詰めである。威霊に血を捧げる族長が多大な力を消耗し、その後の采配が鈍る為である。威霊で確実に敵軍を蹴散らせるという保証もない。
 玫瑁氏はしかし当初に玉亀を呼び出して赭牛軍を襲わせた。軒轅氏本軍の攻撃に対してはじりじりと粘った末に、坤鳴その人だけを狙って再び玉亀に攻撃させた。
 それを長老らが罵るように卑怯だとは黄駻は思わない。最初に敵軍を徹底的に叩くのは後が楽だ。いつかそう言った時、長老らは黄駻のとんでもない発言に目をむいたものだ。武人にあるまじき考えだと、長々しい説教を食らった上に武器庫の戈の手入れを命じられた。既にぴかぴかの戈を磨くなんて無意味だ、そういうお仕置きを黄駻が一番嫌っていると知っているのだ。
 けれど玫瑁氏はどうして二度も呼び出すことが出来たのだろう……。
 父・坤鳴の遺体が戻らず、兄・赭牛が重傷を負ったことが悲しくないわけではない。だが女達のようにき叫んでいても何も良いことはないし、かといって城門や壕や柵の辺りをうろついていれば邪魔扱いされる。すると十三歳の黄駻に出来るのは、考えることくらいだ。
 彼は戦の身支度をとっくに整えている。脇に立てかけた棒杖の石突きは磨かれ、額には銅片を縫いつけた革帯を締めている。青銅の肩当ては黄駻にはまだ少し大きいので、黄狗の革を当てている。兄の赭牛は、十三歳の頃既に成人と見間違えられるほど逞しく大柄だったそうだが、黄駻は別に気にしていない。黄駻は父に似たのだといつか赭牛が言ったことがある。坤鳴は顔かたちが優しく若者のようにほっそりとしていたが、その驍勇は中原に知られ渡っていた。
 滅多に話す機会のない兄であったが、その一言はいつまでも憶えている。彼は助かるのだろうかと黄駻は考えた。肋の骨を何本も折り、右肩の肉をごっそりと失ったという。それでも赭牛は散り散りになった兵をまとめ、ここまで辿り着いてから倒れたのだ。長老らはその強靱さに感嘆したが、黄駻には声を掛けさせてもくれなかった。
 ──豎子こぞうは引っ込んでおれ。
 そう誰かが苛々と吐き捨てるのを黄駻は聞いた。次子とはそういうものだ。
 だが赭牛は当分諸侯になれないな、と黄駻は棒杖の石突きをいじりながら考えた。父の後を継いで諸侯になる為には《雲を駆る竜》と契約を交わさなければならない。赭牛がどのような容態なのか定かでないが、負傷している身で過酷な契約の儀式に臨むのは自殺行為だ。竜を制御出来なければ喰らい尽くされてしまう。
 黄駻は族長になりたいわけではない。長老や厳めしい顔の部将らに対等な口を利ける、誉れ高い戦士になりたいと思う。そして戦場を思いきり駆けめぐるのだ、戦車でも馬でも、徒歩だっていい。敵の屍で小山を築き、血で川を拵える。そして《雲を駆る竜》が頭上に出現し、易々と敵軍を追い散らす様を眺めて愉快に笑ってやるのだ。
 ……竜は今自分らを守ってはくれないのだ。そう思い出して黄駻は溜息をついた。威霊のいない氏族など禽獣と同じだ、兢々と震えて逃げまどう無様な輩。
 父が竜を見事に操る様は、大鴻から何度も聞いたことがある。
 ──竜は様々に色を変えるのだと申します。軒轅と、つまり黄駻様の父上と契約してからは、しろがねの如く輝くようになり申した。黄駻様もじきに御覧になれましょうぞ。
 そう語ってくれた大鴻も、今は玫瑁氏を迎え撃つ為に忙しく男達を指示している。彼も腕に負傷しているらしく袖に血が滲んでいたが、手当する間も惜しいのだ。
 だったら自分を使ってくれればいいのに、と黄駻は思う。弓ならおとなにひけを取らないし、戈や槍でも一人前に戦える。それとも自分は今や誰よりも無事でいなければならない身なのか?
 ふとそう気づいて黄駻は驚いた。もしかすると赭牛はひどく危険な容態なのかもしれない。帰還した時のその顔は蒼白だった。
 それは困る、と少年は何故か狼狽した。兄の死を希う気は更々ないし、いつも煩い長老に取り囲まれている諸侯になどなりたくない。それなのに、そう考えついたことが後ろめたかった。
 けれど、何故誰も何も言ってくれないのだ。兄は助かると一言言ってくれれば、自分は安心してその後のことを考えられるのに。……万が一赭牛の容態が思わしくなくても、自分には心構えが出来る。
 黄駻は伸び上がって城門の方を眺めた。玫瑁氏はまだ姿を見せてもいない。戦になる前に、赭牛のへやに忍び込んで様子を窺ってこよう。
 
 
 
 
 赭牛は板壁の隙間から覗いている気配にふと気づいた。くりくりとした黒い目である。彼は弟が衝立の影にそっと隠れる様を見守っていた。
 黄駻は父の少年時代に生き写しだと大鴻が言ったことがある。短気で傲慢で乱暴な、とんでもない悪童であったと。彼とは違い父は唯一の嫡子であったから、その気概が頼もしいと誉められたそうだが。
 長老らが黄駻を邪険にする様を見ると赭牛は不憫でならない。自分に万が一のことがあれば父の後を継ぐのは黄駻ではないか、と窘めたことがあるが、彼らは一向に態度を改めなかった。今はまだ、父や祖父の世代である彼らの方が赭牛よりも格上なのだ。自分が黄駻と離れていれば弟に迷惑がかからぬことは幼少の頃に気づいていた。
 彼らが弟を遠ざけるのは、黄駻があまりにも父親に似ている為だ。その放胆ぶりが今に赭牛の地位を脅かすのではないかと、そう危惧しているのだろう。ならば兄から遠ざけることは兄弟の溝を一層深くするだけでろうが、長老らは黄駻の闊達ぶりを恐れ、ただ厳しく戒めることだけが最善の策だと考えているらしい。時にそれは度を超しているに思えるが。
「兄上、何だ。割と元気そうだな」
 黄駻はこっそりとそう言った。慌ただしく出入りしては物見兵の報告を聞いている人々には聞こえない程度の小さな声で。涼しい目元がやはり父に酷似していた。顔立ちで赭牛と似ている処は濃い眉だけだ。
 赭牛の浅黒く日焼けした顔に一瞬笑みが走り、そして消えた。二人は同時に父の死を思い出した。死に様を見ておらず、遺体もない現状ではあまりにも実感のないことだった。
「呼べるのか?」
 黄駻は凝と兄を見つめる。赭牛は首を振り、何か胸元に触れる仕草をしてみせた。契約を為す為のあの胸飾り、軒轅氏の青銅の竜がないのだ。……それは父の首に掛かっていた。多分、今は玫瑁氏の手に渡っている筈だ。
「あれがあれば大丈夫か?」
 黄駻は重ねて問う。赭牛がまだ何も答えぬうちに、誰かが黄駻を見つけて声を上げた。
「馬鹿者! 誰が赭牛様に近づいても良いと申した、悪童め! 何をしに来た!」
 さすがに黄駻は黙っていられなかった。弟が負傷した兄の枕元に来て何が悪い! 彼は衝立を蹴り倒して怒鳴った。
「寝てるそばでぎゃあぎゃあ騒ぐしか出来ないくせに! 皆の不安を静めるとか命令するとかすりゃあいいだろう! 何だい爺ぃばっか、皺首並べやがって。さっとおっ死んで竜に食われちまえ!」
「軍議の最中だ、お前のような豎子が……」
「なぁにが軍議だ。攻めて来るって判ってんだろ、籠城するほど切羽詰まってないし、何もいいことないから迎え撃つ! 今更何を相談するんだ、狒狒ひひ爺ぃ」
「お前に諭されるほど落ちぶれてはおらぬ! 下がっておれ!」
 怒鳴りあいを聞きつけ、飛んできた大鴻が黄駻の襟首を掴んだ。
「おれは悪いことなんてしてないぞ!」
「赭牛様のお側で騒ぎ立てるのは悪くないと申されますかな?」
 醜態を演じていたその長老をじろりと見て、大鴻は皆に頷いてから黄駻を片手にぶら下げんばかりに房から出た。漸く手を離し、彼の襟を直してから頭を下げる。
「無礼な振る舞いをお許し下され。黄駻様が赭牛様を思うのは当然のこと、儂は迂闊にも何も申し上げませなんだ」
「あの爺ぃ、おれの髪を掴みやがった。自分は禿げてるからって」
「竜は長きに渡り軒轅と結ばれてきたもの。きっと我らに味方してくれると……」
「気休めってやつだ、大鴻」
 少年は乱れた髪を解き、手早く結い直しながら鋭く老人を見やった。
「威霊なんて言っても、あいつらは族長の血を欲しがってるただの獣だ。おれらは皆、死んだら竜に食われるんじゃないか。だったらおれらが全滅するまで眺めてるさ、今は誰も竜を縛りつけてないんだから」
「黄駻様」
「おれの言ったことは間違いか?」
 老部将は首を垂れた。
「いいや。儂は気休めを申しました」
「玫瑁氏はどうやって二度も玉亀を呼びだしたんだろう? もしかして、血をやるのは族長じゃなくても大丈夫なんじゃないのか?」
 不意を突かれて大鴻は顔を上げ、少年を見下ろした。それは長老らが頭を寄せ集めても答えが出なかった謎である。
「さ……そんなことはあり得ぬと、坤鳴様は仰っておられたが」
 族長さえ知らなかったことを今軍議にかけても判ろう筈がない。黄駻は鼻を鳴らした。
「でもどうにかしないとならないんだ。兄上は喋れないのか?」
「折れた骨をやっと元通りの処に直したばかりです。動けば刺さります。幸い頑丈な御身体ですが、まだ暫くは」
「どうせ怪我すんなら手とかにすりゃ良かったのに……」
「これ」
 少年は唇を突き出した。
「ま、喋ってたって無駄か」
 黄駻は忍び込む前に廊下に立てかけておいた棒杖を取り上げた。手すりを越えてとんぼを切り、ひょいと地面の上に降り立つ。軽妙な動作で駆けていくその姿を老部将は見送り、再び房の中へと戻っていった。
 この時大鴻がもう少し頭を働かせていれば、少年がしでかしそうなことを察知し得たかもしれない。
 
 
 
 

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