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軒轅少子譚-4

軒轅少子譚
まもとな角力にはならんな。そう磊遨が言った通り、蚩尤氏の角力というのはとんでもなかった。
城の周囲一帯は霧が晴れていた。無数の古い切り株が突き出た平原である。範囲を決めないと平原中で追いかけっこが始まりそうなので(もう始めている者が何人かいたのだ)、黄駻は丸く線を引かせることにした。誰かが鼻歌を歌いながら巨大な鎚で円を描き始めると、忽ち何人かの兄弟がその後ろに続いて地面を掘り始めた。合戦さえ出来そうな巨大な円だ。眺めていた磊遨が兄達に叫んだ。
「もっと小さく。それじゃなかなか勝敗が着かないぞ」
「いやいや、これくらい」
「じゃあこんなもん」
「それじゃお前一人だってはみ出るじゃないか」
口々に議論している。苛々とそれを眺めていた黄駻は、腰掛けていた木の股から飛び降りて駆けていった。喧々囂々の議論が続く間に、棒杖の石突きであっという間に円を描く。一番大きな男の丈の倍ほどの直径だ。
「これでいいんだ! 後の線は埋める」
手近の一人に命じると、馬面のその男は真面目くさって頷き、先程掘り始めた溝を元通りに埋めていく。兄弟の一人が言いつけられたのを見て、残りの者達もわらわらとそれに続いた。中には溝にうまく土を詰めることが出来ず、溝を踏みつぶしている者もいる。
「ちっこいの。お前は角力はやらないのか?」
先程の犀のような巨漢が尋ねた。
「おれが勝ったらおれは蚩尤も兼ねなくちゃならないじゃないか」
彼らの拳一つで地面にめり込んでしまうだろうと思ったが、黄駻はそう答えた。
「ああ、お前は軒轅氏の者だったか。別に俺達は誰が勝ってもいいが」
不意に黄駻は兄の顔を思い出した。赭牛は威霊を持たぬ大諸侯なのだ。いつまで民を偽れるのだろうか? 竜がいないと知った時、民は赭牛をどうするのだろうか。
なのに、逃げろと彼は言った。
「さあ、始めるぞ! まず籤だ、誰と最初に当たるか決めるぞ」
磊遨が皆を呼び集めている。
誰かが投げ飛ばされる度に地響きが生じる。《玉亀》が混じっていても気づかれないかもしれないな、と黄駻は二つの旗を握りしめながら考えた。投げ飛ばされた方の下敷きになりかねないので、一瞬も目を離せない。
勝敗の判定はお前の独断でいい、と言われたが、確かにそうせざるを得なかった。首を締め上げてもけろりとしている者もいれば、触手を伸ばして相手を絡め取る者もいる。当初は地面に叩きつけられても喜んでいた男達が、やがて飽きたのか不平を言いだした。
「戈を使っていいだろ、あいつは俺より腕が二本多いんだから」
「そうしたら俺も空を飛んでいいよな?」
「はらがへった」
犀面の男が逞しい腕を組んで黄駻を見下ろした。
「角力に強いだけでいいのか? 二番目は腕っぷしじゃ一番強いだろうが、蚩尤になっても威霊を扱えるかね」
今頃言われても困る。黄駻は磊遨をちらりと見たが、彼は先の試合について兄達と何やら語っている。黄駻は憮然とした。独断でいいというのならそうしてやる。
「分かった。全部やり直しだ、武器でも何でも使っていい! 円から出るか、降参した方が負け。その他でもおれが駄目と言ったらそいつが負け。それでいいだろう?」
再び歓声が上がる。黄駻は磊遨がこちらを見てちらりと笑ったのを見た。
最後の取組までに三日かかった。それぞれが愛用の剣や鎚を持ち出してきた為に、円を描いた溝を掘り直さなければならないほど血や粘液にまみれた。
翼のある男が飛んで躱そうとした大刀が翻り、翼の片方がつけ根から叩き斬られた。羽と血をまき散らしながらその男が落下すると、周囲の兄弟が大声で歓声と失望の声を上げた。抜き身の大刀を握って円の中央に立ち、彼らににやにやと笑ってみせたのは、蚩尤の末子であった。
「狡いや、刀使ったら百番目がいっとう強いのは知ってたのに」
片方の翼を失い、片腕を上げてその状態を調べていた兄が不平を言ったが、鯰男が髯をそよがせて笑った。
「お前の羽、食ったことねぇな。美味いか?」
「おれもないな」
片翼の男がきょとんと答える。二人は落ちた翼を目で探し、何人かが興味深そうにつついているそれを発見した。
「毟ったらきっと美味いぞ!」
「はね、ふわふわだ」
「待った、俺も食ってみたい」
珍騒動を横目に、黄駻は最後の取組を仕切る為に円へと戻った。磊遨は息も切らしていないが、最後まで勝ち残ったからには疲弊している筈だ。青年を見上げると、彼は脱ぎ捨てた上衣で大刀の血糊を拭っていた。
「素手で勝てないから仕向けたのか?」
黄駻の問いに彼はばつの悪そうな顔で肩をすくめ、上衣を円の外に放り出した。
「大刀だろうが戈だろうが、一番器用なのは俺なのでな。俺が言い出しても誰も賛成しないさ。悪かったな、無駄な取組やらせて」
黄駻は少し考えてから頭を振った。不公平だと言い出したのは彼ではないし、あれでは埒があかない。審判を引き受けた自分がよく考えてみるべきだった。
「俺達は鉄を鍛える。兵が扱えないんじゃ話にならんさ」
「まあ、そうだな」
「それにしても血まみれだ。ちょうどいいだろう」
意味が解らず黄駻は眉を顰めたが、しびれを切らした最後の取組相手が轟音と共に足を踏みならしたので脇に下がった。
犀面の男が言った、二番目の兄弟であった。巨漢の中でも最も大きく、魁偉な顔つきは人間と猪が混じったように見える。後頭部にももう一つ顔があり、四本の腕にそれぞれ血まみれの鉄杖や鎚を握っている。黄駻はこの男が対戦相手をめちゃくちゃに踏みつぶし、或いは地面に叩きつけるのを何度も見た。蚩尤氏が度を超して頑丈だからといえ、止めなければ死んでいただろう。幸い、彼らはいっそ不思議なほど審判の判定に忠実であった。
「二番目、足元に気をつけろ。滑って転んだらそれで負けだぞ」
磊遨が不敵に笑うと、兄もまた洞穴を通り抜ける突風のような声で笑った。
黄駻の合図と同時に双面の男は鎚を振るった。唸りを上げて空を切ったそれを磊遨は屈んで躱し、そのまま突進する。相手の武器は間合いがなければ使いにくいものばかりだと見極めていたのだ。脚に斬りつけ、鉄杖を躱す。股の間を潜り抜けざまに股間に斬りつけると、双面の巨人は痛みに吠えた。
だがこの男は背後にも目があり、腕の二本は後ろ向きに生えている。黄駻が息を詰めて見つめていると、磊遨は踏み込んだ脚の反動で跳びずさった。背後に出てくるものと思い込んでいた巨人の鉄杖が振り下ろされ、そのまま地面に突き立つ。
「こっちだ、鈍いぞ」
磊遨が笑う。巨人は鉄杖を引き抜く間もなく彼に向かって突進した。巨躯に似合わぬ素早さだが、磊遨の方が更に敏捷だ。兄の腕の下を潜り抜けて背後に回り、腰に巻いていた革帯らしきものを投げる。帯が蛇のように巨人の脚に巻きついた。
腕が一本しか空いていない巨人がそれを解こうとするが、黄駻がやきもきするほど不器用だ。向かい側の円の縁に立っておどけた仕草をしてみせた磊遨に苛立ち、巨人はそれを引きちぎろうとしたが何故かびくともしない。
「それ!」
革帯の一端を兄が突き立てた鉄杖に引っかけ、磊遨は更に駆け回る。帯が巻きついていることを忘れた巨人がそれを追おうとした途端、観衆一同は耳を塞いだ。予想通り、巨体が転んだのだ。間近にいた黄駻など振動で宙に浮いたほどの地響きであった。
磊遨の明るい笑い声が響いた。
巨人が起きあがり、再び猛然と突進してくる。ぐらついていた鉄杖はその身振り一つで地面から抜け、唸りを上げて宙を飛んだ。磊遨が腕を伸ばし、間一髪のところで黄駻を掴まえてそれを躱す。鉄杖の石突きは巨人の背に衝突し、さすがの双面男も息を詰まらせた。
磊遨がその尻を蹴り飛ばすと、巨人は再び倒れた。円の外だ。
「……勝負あった!」
黄駻の叫びに一同が歓声を上げた。倒れた兄をわざわざ覗き込みに来る者もいる。磊遨は少年を地面に下ろし、にやりと笑った。
「俺が勝った。文句ある奴はいるか!」
「ないぞぅ!」
「ころんだころんだ」
「二番目の、大丈夫か?」
双面の男は漸く起きあがった。泥と血にまみれ、鼻が潰れている。彼は猛然と鼻から息を吐き、大きく口を上げた。轟音のような笑い声が洩れた。
黄駻はその脚に絡みついた革帯を解いてやろうとして、しげしげと眺める。びくともしないほど重い。革ではなかった。
「こいつは俺が鍛えた鉄鎖さ」
磊遨が大刀を収めて言った。まるで蛇を象ったように精緻な鉄鎖だ。彼はそれを解いて再び腰に巻きつけた。二番目の兄は鼻に詰まった泥を吹き飛ばそうと息を吐いている。磊遨がその曲がった鼻面を拳で殴りつけると元の位置に納まったらしく、大きな音を立てて泥が飛んだ。
「百番目がやるぞ!」
「ころばすのか?」
「蚩尤だ!」
尚も兄達は騒然としている。足の裏の血糊に辟易していた黄駻は顔を上げて怪訝そうに磊遨を見やった。
青年は大刀を担いで城の頂上、鉱山の一角を見据えていた。胸一杯に空気を吸い込み、そして哄笑する。大刀の鞘を再び払い、振り回す。
「蚩尤! 俺がやるぞ、親父殿!」
青年の身体が跳躍した。愉しげに叫びながらその身体が疾走し、山を駆け上る。
黄駻は息を呑んだ。山の峰の一つだと思い込んでいた鉄色のそれが動いたのだ。雄牛に似た頭が動き、血走った双眸が末子を見据える。縛りつけられているのだ、そう黄駻は気づいた。
その両眼を大刀が一閃した。
地を揺るがすそれが苦悶の声だと知り、黄駻は瞠目した。上半身を血に染めた青年が蚩尤の眉間に大刀を突き立て、引き抜き、今度は首に突き立てたまま半身を捻るように回転する。
ゆっくりと。
雄牛の首が血の滝を引いて落ちる。
磊遨はその血を片手に受けて啜り、その手を翳して何か叫んだ。
鉱山の向こうに《戈を握る巨牛》が出現する。その巨大さは《玉亀》の比ではない。威霊が咆吼し、その牙の間から炎が吹き上がった。
地を走った熱風に黄駻は身をすくめた。蚩尤の屍と磊遨が炎に包まれる。青年の哄笑がその中に聞こえた。
やがて威霊が消えた時、真っ黒に焦げた山の上に立っていたのは磊遨一人であった。あの巨大な首も、その胴体も忽然と消えていた。
「……蚩尤」
黄駻は呟いた。
「先代を……殺すのか、ここでは」
隣に座り込んでいる双面の巨人が鼻を鳴らす。彼らは血の儀式に陶然とし、口々に何か叫びながら鉱山から下りてくる新しき蚩尤を迎えた。
磊遨は掌に握っていた何かを皆に示した。鉄の珠のように見える。彼はそれを口に放り込み、呑み込んだ。
「親父殿は無事に喰われたぞ。さあ、祝いだ!」
「いわいだ」
「戦だ!」
一同が足を踏みならし、歓声を上げる。互いの戈や剣を打ちつけあう中、黄駻は一人茫然としていた。その小柄な体躯が目についたらしく、磊遨はにやりと笑った。
「黄駻、裁定御苦労だったな」
「……磊遨もいつか殺されるのか?」
「力が衰えればな。俺が一番強いうちは俺が蚩尤だ」
そう答えて、青年は皆の浮かれた顔を眺めて笑った。
「そうだな、でかい戦をやろうか。共工(とかどうだ? うんと北西だが」
「きょうこう、ちべたい!」
「なら大皞(は? すぐ北だぞ」
「大皞はつまらねぇよ、数が少ないしすぐ水に潜っちまう」
「おれみずきらい」
「俺は大皞でいいぞ!」
「三十二番目は泳ぎが得意だからそんなこと言う」
「気持ちいいじゃないか」
「じゃあ」
磊遨と再び視線があう。黄駻はぎくりとした。
「西の軒轅だ。黄駻、お前の故郷は強いだろう? ついこの前《玉亀》を喰っちまったと聞くぞ。俺はまだ《雲を駆る竜》を見たことがない!」
「軒轅だ!」
「玉亀喰いたい」
「戦だぞ!」
皆が大喜びで足を踏みならす。その振動と熱気の中で黄駻は一人、瞠目して磊遨を見つめていた。
「何だ、駄目か?」
磊遨は怪訝そうに彼を覗き込んだ。小さな声であったが、それを聞いた周囲の何人かが不満の声を上げる。
「だってお前、出てきたんだろう?」
「……そうだ……」
その返事ににこりとして、磊遨は再び兄達の方に向き直る。誰かが調子はずれの歌を歌い出し、何人かが唱和した。節も知らずにただ怒鳴っている者もいる。
黄駻は沈黙の中に一人取り残された。

