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Tar Dark-1

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重なる影


 
 
 《重なり合う影ター・ダルク》  大望叶う。随うべき人物を見つけよ。
──数理占卜より
 
 
序章
 
 
 海は常に彼の行為を見ていた。
 
 刃や針を磨ぎ上げる夜も、標的の足取りを追う最中にも、吝嗇な仲介役の住処へと向かう時にも。物取りに見せかけて肩口から斜めに斬り下ろした瞬間、或いは鼓膜から突き出した針の先端が震えているのを見守りつつ、彼は海鳴りを聞いた。
 四方を海に囲まれたこの島国であれば不思議ではない。たとえ喧噪に包まれる昼の街中であっても、彼の磨ぎ澄まされた聴覚は波音を聞き分けることが出来るだろう。夜半であれば尚更のこと……けれど彼が海鳴りを意識するのは決まって血の匂いのする夜であった。このゾルスに生まれ育ってきた者の大半がそうであるように、彼もまた波音や潮の匂いには無感覚となっていたのに。
 それを意識し始めたのがいつの頃からであったかを思い出そうとする度、彼は不明瞭な記憶の靄に絡め取られる。まだ幼い自分の手に握らされた短刀、伝わってくる肉の痙攣……鼓動と海鳴りの類似に気づいた瞬間に彼の回想は消えてしまう。
 あれは最初に刺し殺した男の鼓動であったのか、それとも自分のそれであったのだろうか?
 
 
 力強い音の反復。逞しく滑らかに。どれほど脆弱に見える老人も子供も、その異様な力を備えている。鮮血を吹き上げる瞬間、呼吸しようともがく腕。驚くべき痙攣を人は最期の瞬間の為に飼っている。
 己の死の瞬間に気づかずにこときれた者の身体には、費やされぬままのそれが残っているのだろうか。
 この自分の中にも?
 あの海鳴りは死を見守るのだ。
 
 
「あんたいつのまに怪我なんてしてたの」
 女のちいさな指先がラッツの二の腕にそっと触れた。一条の短い稲妻のような、まだ赤味を残した傷跡がそこにあった。
「ちゃんと動くの、肩」
「不自由しているように見えるか?」
「暗いとこですることには、まあ、そうではなさそうね」
 月光に浮かび上がる女の白い顔を両手で挟み、落ちかけた口紅を丁寧に舐め取ると、女はくすぐったそうに笑った。少し嗄れているが技巧のない、可愛らしい声だった。
「後でまた髪編んで」
「他の客は不器用?」
 呟いた途端に、痛ぇ、と声が上がる。
「あたしの綺麗な髪をあんながさつな連中に触らせるもんですか」
「へいへい」
「あいつらは、あたしの髪が短かろうが長かろうが、金髪だろうが黒髪だろうがどうでもいいのよ。そんなこと、どうせこの妓館を出る前に忘れちまうんだから」
 拗ねたように彼女は半身を起こしてラッツの上に覆い被さった。暖かく柔らかな肉体の重みが胸の上で蕩ける。彼は黙ってそれを抱いていた。二人の白い裸身に女の豊かな黒髪が妖しい文様を描いた。
 不意に女の声が優しくなった。
「ラッツ、よその国に行ったことある?」
「いや?」
「そっか……見てみたいな」
「ローダス? ヴァイアヌ? もっと西?」
「どこもかしこも。変かしら」
「変」
 女は微笑み、彼の傷のない方の腕を枕にした。
「あたしに流れる血なのね、きっと」
 自分は西方のワートから遙々来た商人とのあいのこなのだと以前彼女は言った。白っぽい金髪と淡い色の双眸を持つゾルス人の中で、その艶やかな黒髪は人目を引いた。おそらく、母親も純粋なゾルス人ではなかったのだろう。あまり他国との交流が少ない島国とはいえ、海峡を隔てたフォークス王国との交流は長い。大陸から渡って来る人々がこの地で子供を儲けることは、ゾルス人が他国に渡ることよりは多い。
「……海の向こうも、結局同じだろ?」
 女の腕が伸びて彼の鼻をつまむ。
「そういうことは、行って帰ってきてから言ったら?」
 手を離し、彼女は僅かに身を起こしてかぶりを振った。
「その時はあたしも連れてって」
 彼は吐息のような笑いを洩らした。空約束をしない男だった。同じように苦く、だが優しく微笑んで、女は再び横になった。
 
 


 
 
第一章
 
 
 ラッツとは数字の七を示す語の一つであるが、創造神の第七翼から創られた勝利と幸運の神、かの凄艶な《片翼神》の二つ名でもある。
 七人育てた中で何とかものになったのはお前だけさ、と名付け親は言った。
「七とは幸運の数字じゃあねぇぜ、ラッツ。もしかしたらお前の一生分の運を名前に費やしちまったかもしれねぇからな。図に乗んなよ」
 自分を拾い、影人(ロファー)として育て上げたその男に出会う以前のことをラッツは憶えていない。ほんの小さな子供であったことは確かだ。何故ならその最初の師が路地裏で仲間に殺された時、彼はまだやっと十二、三歳になったばかりの子供であったから。
 彼が子供に教え込んだのは暗殺とそれに関連する様々な技であったが、二番目の師となったサラスが実践してみせてくれたのは更に下卑た、影人の間ですら蔑まれる技であった。
「一度仕事を頼んじまった旦那衆は、その何とも素敵に事が運んじまったことを忘れられねぇのさ。最初でぶの女房を殺っちまえば、次に引っ張り込んだ娼妓上がりのあまっちょにも飽きる。金持ちの従兄を片づけて当主に納まれば、次はもっと裕福なご領主様だ。そういう奴らはな、俺達みてえな貧乏人を何人か養ったって痛くも痒くもないのさ」
 つまりこの老いた影人は、かつて暗殺を請け負った相手から金を強請り取ることを副業としていたのだ。否、それが本業であるとも言えた。数人の影人を飼い、金貸しや女衒にも手を広げ、高額の仲介料を取っている彼は十分に裕福な筈であったが、サラスは今も貧しげな裏通りの小屋から離れようともせず、独り身のままであった。
 サラスはラッツの名前をひどく気に入り、新しい名前をつけようとはしなかった。彼の生活が楽になり始めたのもラッツを連れ帰った頃からであった。実の処、死んだ影人が育てた弟子の中で最も優秀であったその子供を酷使すれば、真面目な商人の一家が慎ましく一年間暮らせるだけの金銭を、一ヶ月と経たないうちに稼ぐことが出来たのだ。
 サラスはそれに気づかなかった。或いは気づいた素振りを見せなかった。彼はただその名前を優しく、楽しい夢であるかのように呼ぶのだった。
「うまい話だったな、あんなに簡単だったのによ。俺の若い頃ならほんの何日かで済ませられただろうよ」
 その奇妙な裏声を耳にしながら、ラッツは用心深く椅子に腰掛けた。サラスの裕福さを示すものはその小屋には何もない。隙間にはぼろ布を詰め込んでおり、埃と砂でざらざらとした椅子はラッツがここに住んでいた頃よりも垢じみていた。
 彼は目の前の男を見つめた。サラスは生まれたばかりの雛鳥に似ていた。まだ初老にも届かぬ筈なのに、既に老人の顔と皮膚を備えている。小狡そうなその顔と重なって脳裏に浮かんだのは、ラッツと同年輩に見えた若い影人の死に顔であった。
 依頼主が念を入れたのだろうが、斡旋役であるサラスが請負の重複に気づかなかったのであれば問題だ。複数の影人が同じ仕事を請け負えば激烈な競争が生じ、肝心の仕事の妨げとなりかねない。報酬の額が多ければ尚更だ……サラスの競争相手であるディーロ親方は二人の手練を使っていた。
 標的を仕留めての帰りを襲われた。
「俺なら痕跡だって残さないがな。貴族って奴らはうるさい……」
「外傷を残すなとは言わなかったよな、あんた」
 低い声にサラスは首を縮めかけ、そんな素振りをする必要がないことを思い出した。
「そうさ、ただ殺るだけでいい、後はこっちで何とかする。そういう話だった。何しろ向こうさん、急いでたんでな」
 サラスの舌舐めずりするような表情に青年は無言で応える。少しの間ラッツを睨んでから、サラスは渋々と布袋を差し出した。
「お前は少し派手に金をばらまきすぎるんじゃないのか? そういうのはラッツ、お前の取り分から出すのが筋ってもんだ。俺ならそういうのは……」
「少なすぎれば密告するかもしれないし、多すぎれば欲を出す。俺はあんたのいい弟子じゃなかったっけな?」
「いっそ口を封じちまえば良かったのさ」
「ああ、ディーロのとこの奴らみたいに?」
 サラスはじろりと彼を見た。痩せた顔の中で眼球ばかりが大きかった。
「ふん……」
 何か言いかけて、彼はやめた。ラッツの双眸が氷のように静かであることを見て取ったのである。
 こいつも生意気な若造になっちまった、とサラスは内心で呪った。派手に金をばらまき、荒っぽい殺しをちょいとやって、目上の者に対等であるかのような口をきく。ああ、俺は何だってこいつにもっとましなことを教えなかったんだろう?
 ラッツは立ち上がった。幾分小柄で痩せぎすなその身体の強靱さは、外見からでは推し測ることは難しい。粗末な黒木綿の衣服を着、柔らかい革の短靴を履いたところは、港の商人に雇われた若い人夫の一人のように見えた。
「で、だ」
 早口にサラスが言った。
「もう一つ、いい話があるんだ。お前の手が空いてなかったから断りかけてたんだが、もう済ましちまったんだから、やってくれるよな?」
「腕のいいしみったれにやらせたらどうだ」
「何言ってんだ、うちじゃお前が一番さ。わかってるくせに言いやがって、嫌味な奴だ」
 仲介役は勢い込んだ。
「一五〇だぜ、前金に七〇、終わってから八〇。いいだろう? このサラス親父が見つけてきた仕事に外れがあった例はねぇや」
 ラッツの唇が何か言いたげに動いたが、彼はサラスの醜い手が忙しく組み合わさるのを眺めただけだった。
「この山を片づけたら当分休んでいい。お前の惚れてるあの女のところにしけこんでさ、何なら俺が妓館の女将に話つけてやってもいいぜ?」
 まくしたてるサラスにラッツは顔を顰め、手を振る。承知したという意味だ。途端にサラスは機嫌良く頷き始めた。
「お前はいい子だ。あのくたばった野郎の側に突っ立ってたお前を見た時からそう思ってたさ。親父のことをよーく気にかけてくれる、俺の自慢の倅さ」
 手の中に押し込まれた前金を懐にしまい込みながらラッツは無言で頭を振った。
「アルフォはどうした? そういえば見かけないな」
 満足げに脚を伸ばして寛いだサラスの声がその背に答えた。
「馬鹿な奴さ」
 ラッツは古びた扉を後ろ手に閉め、洋袴の膝の皺を伸ばしてから表戸を出て歩き出した。
 
 
 マグリヴィスツァの容姿には、その名前である石南花(しゃくなげ)に似たところは殆どなかった。名付け親は南国の華やかな花に空想を膨らませたのだろう。小さな丸い顔、ほっそりと長い首、引き締まった肢体。南国の踊り子のようだ、と誰かが評したことがある……南国の女など見たこともない男だったが。
 ゾルス人のきめ細かな白い肌と、異国的な漆黒の巻毛を持つ女だ。衣装を変えれば、生まれてこの方妓館の外に出たことのない女には見えないだろう。客に媚びず、歯切れの良い下町風の喋り方と快活な性格の持ち主で、売れっ妓ではなかったが何人かの常連がいた。
「あら、もう治ったのね。じゃあそんなにたいした怪我じゃなかったんだわ」
 赤子のように五指を開き、人差指で傷の跡を辿る彼女をラッツは眺めた。女は若かった。多分、彼と同じか、少しだけ年上だろう。最初に会った頃は痩せっぽちの少女だった。今でもまだ娘らしさが残っているくせに、緩く髪をまとめた襟足の辺りは、時折ひどく艶いて見えた。
 夜中よりも昼間の方が見映えのする女だ。こんな冬よりも初夏や真夏の方が。彼女の名付け親には先見の明が備わっていたのかもしれない。
「昼間っから来てくれるのはあんたくらいよ」
 女は嬉しそうに笑った。金払いの良い馴染み客でなければ女将も通してくれなかっただろう。今は掃除や休養の時間だ。
「悪かったか?」
 かぶりを振って女はまたラッツの肩に頬を寄せた。この女は、最初の夜からこうしてじっとしているのが好きだった。
 娼妓の中には客の素性をしつこく尋ねる女が少なくない。自らの境遇を涙ながらに語る女もいる。互いが嘘で塗り固めた話を披露していると知りながらも、それを喜ぶものだ。
 この女一人は些か風変わりだ。何かをねだることもなく、部屋は職人の女房のように小綺麗に整頓してある。他の房に見られるような、けばけばしい薄汚れた置物など見当たらない。
 ちょっとはめかしてみろよ、と誰かが毒突いたことがある。お前みてえな愛想のない女なんて、盛りを過ぎたら誰も見向きもしなくなるぜ。
「あたしがこってり紅白粉さしたの見たい?」
 彼女はそう言ってラッツを苦笑させた。うんと鮮度の良い魚に濃いたれをかけるようなもんだな、と答えたような気がする。
 港の方から漂ってくる静かな喧噪を彼はぼんやりと聞いていた。どこか他の房で女達がお喋りしている。
 恐ろしいほど真っ青な海が見えるような気がした。ゾルスを取り巻く海は冬は殊更に荒れるが、正午過ぎの陽射を反射する海原の煌めきは、真夏のそれよりも美しい。
 ふと、胸の中がしんと冷えた。仕事の最中に感じるあの鼓動を聞いたような気がした。
「当分雪は降りそうにもないな」
 自分の錯覚を紛らわせるような彼の言葉に、女は目を閉じたまま呟いた。
「あたし雪は嫌い。いっそこの街がすっぽり埋まってしまうくらいの雪なら別だけど」
 ラッツは女を見た。化粧を落としたその顔は、どこか疲れていた。
「フォークスには雪が降らないってさ」
 女は鼻を彼の胸にこすりつけ、眠そうな声を出した。
 幻が彼の脳裏を過った。陽気で奇麗好きな女房と小さな家。銀貨で二〇〇もあれば……今までの稼ぎがだいぶ貯まっている。女が彼の生業を薄々と感づいていることを彼は知っていた。娼妓というのはそんなことに敏感なのだ。彼女達の口が不思議なほど固いのも、また事実だが。
 自分が足を洗うと言い出せばサラスは諦めるだろう。多分、うんとごねて多額の金をせしめようとするだろうが。それが通用しなくなってきていることはサラス自身が一番良く知っている。他の影人であれば脅し宥めすかすことも出来ようが、自分の大事な《七番目》が道端の花を手折るよりもたやすく人を殺めることをサラスは知っている。そう育てたのだから。
 そうじゃないな、と彼は思った。俺に何もかも仕込んだのはあいつだ。春先の夜、ずたずたになって路上に転がっていたあの男……厳しい鷹のような目をした、あの男。名前は確か……そう、ヴェイルだ。子供の小さな手に短剣を握らせ、内臓の一つ一つの位置を教え、音を立てずに跳躍したり疾走したりする術を教えた、あの影人だ。
「ラッツ」
 寝惚けたような声で女が呼びかけ、白いほっそりとした腕を彼の首に絡めた。どうしたの、とは彼女は尋ねなかった。
 
 


 
 
第二章
 
 
 老シグニオンの葬儀は遺志によってごくひっそりと行なわれた。親族の他にはごく親しい友人や昔の部下が訪れただけだったが、宮廷内の多くの者が素色(しろ)の喪章をつけた使者を寄こした。それに対するシグニオン家の当主の行き届いた対応ぶりも、あの老人の後継に相応しいものであった。
 一時は侍従長にまで上り詰めた老シグニオンは、現国王ラインとその父王ウェスラン四世の傅相(ほさやく)であった。厳めしくも偽りなき忠誠心の持ち主であり、剛直なその性格で知られていた。
 彼が宮廷を退いたのは二年前、ラインが即位し、隣国フォークスの姫エルディアとの婚約が整った頃だった。両国王と幾度もの密議をこらし、ゾルス・フォークス連合国家に向けての準備の万端を終えてから、彼は身体の不調を理由にその地位を辞した。実際、その奔走の為か、彼は数年のうちに見る影もなく痩せ衰えていた。
「陛下、即位なされた日に申し上げたことを覚えておいでになりましょうか。国王というのは独りなのです。ただ独りきりなのです……」
 ラインはその枯木のような手を握った。青年王の温かな掌の中で、老人の手は激情を堪えるように震えていた。
 老シグニオンの目だけは衰えていなかった。ウェスラン四世が《冠鷲の眼》と評した、厳しく鋭い目であった。
「この西からの冬風が吹く時期にこの老体をお役立てることがならないことは無念ですが、陛下の御英明とフォークスとの強き絆とがあれば、つまらぬ老人の一人や二人は不要のことでございましょう。どうぞ、末長く良き国王であらせられますよう」
 老人の言葉の暗示するものをラインは知っていた。西方の大国ローダスの国王が代替わりし、その若い国王を侮った周辺小王国の幾つかが不穏な情勢にあるという。だが、それは荒海と《魔の森》と呼ばれる広大な森林地帯を越えた、遙か西方のことだ。ゾルスやフォークスにまで深刻な波紋が及ぶ筈もない。
 だがラインは微笑みもせずに深く頷いた。シグニオンは細心な男であったが、無用に事を荒立てる男でもなかった。重要なのは情勢を見極め、ローダスと小王国群のいずれにも好意的な中立を保つことだ。直接火の粉がかからなくても、貿易や外交には障りがあるだろう。それはかつてまだ少年であった頃にこの老人から教えられたことの一つだった。
 こうしてシグニオンは骸骨を乞い、家督を嫡男に譲り、街から離れた小さな別邸で静かに余生を過ごした。老人が眠りのうちに死去した時、寝台の傍らの小机の上には何通かの手紙がしたためられ、室内は何一つ乱れたところはなかった。手紙のうち一通は息子に宛てられたものであり、自分の死後についての指示がなされていた……葬儀は不要、記念碑も不要、知人への通達も不要、と。
 あの方らしい、と国王ラインは吐息した。 老人の宮廷からの退陣があまりに急であった為、彼と国王との間に何か反目があったのではないかと憶測する者も少なくなかった。
 だが国王には十分すぎるほどわかっていた。ゾルスとフォークスの連合の立役者であるシグニオンが、事実上の冢宰(ゾルスにはそれに当たる地位が常設されていなかった)として特殊な地位を築くことを恐れたのだと。老人は己の名誉以上に、自分の後釜を狙う者が出現することを危惧していたのである。
 臣下の葬儀に国王が参列することはならなかった。彼は代わりに弟リオ・ザークを出向かせ、自身は執務室の窓からそれを見送った。
 
 
 リオ・ザーク・ファレンシュトは白い喪服をまとったギルフィ・シグニオンを眺めた。染色されていない衣服に身を包んだ壮年の近衛隊長は、ひどく不吉な暗示を彼に与えた。
 王弟はごくひっそりと人々の群れから離れていたのだが、誰もが彼の存在に気づいた。老シグニオンの友人達の多くは老境に入っており、ギルフィの末娘でさえ二十歳を越えていたのである。十三歳のリオ・ザークが目立ったのは当然だろう。
 少年は華やかな宮廷内でさえ人目を引く存在だった。その年齢にしては大柄な方で、ギルフィ・シグニオンの良き剣の弟子として将来を属望されていた。とはいえ一見は、可愛らしくも快活な若い貴公子に過ぎず、まだあどけない緑色の双眸や優しい顔立ちは兄王に良く似ていた。
 彼は神官が低く緩い旋律に乗って歌うのを息をひそめて聞いていた。吹き抜けの大広間の中央に安置された、花々に囲まれた遺体からは、すぐに目をそらしてしまった。
 
 
『……されど運び手よ
 この四方のいずれにも運び給うな
 長き安らぎは麗しの銀の国にあり
 黒き炎もちて眠りを与え給え
 死者の安らかなることを』
 
 
 葬儀歌の最後の一句が呟かれた瞬間に花々が散り、床に散る前にその一片をも残さずして消えた。白く装われていた、あの老人の肉体も。
 長い精神集中と儀式を終えた神官は、まだ青ざめた顔のまま人々に会釈し、広間から去っていった。神官達の数々の魔法のうち、葬儀は最も緊張と集中を要するのだという。
 リオ・ザークは四年前の父王の葬儀を思い出した。空気の泡のようにその肉体が消えてしまった時、自分は恐怖にも似た衝撃に身動きできなかった。側に兄がいなければ倒れていたかもしれない。
 墓碑に刻まれた名前だけだ、その存在したことを示すものは。彼はそう思った。誰もがいつか死ぬ。死ねば何も残らない。記憶していた人々も死んでゆく。シグニオン、あの人はいつまで人々の中に留まっているだろうか。
「殿下」
 低い囁きに彼は我に返った。ゾルス人には珍しくがっしりとした身体に角張った顔立ちの、ギルフィ・シグニオンが気遣わしげに見下ろしていた。
「お疲れになりましたか」
 少年は急いでかぶりを振った。
「いいえ」
 人々の群れの最後の数人が広間から出てゆくところだった。慌てて歩き出して、リオ・ザークはためらいながら言った。
「何もかもなくなってしまうというのは、怖いですね」
 剣の師は幼い弟子に目を向けた。逞しい外見に反して、ごく静かで思慮深い男だった。
「そうお思いになりますか、殿下」
「魂は……どこかにいるのかもしれない」
 少年は生真面目そうに考えつつ呟いた。
「でも誰にも見えなかったら、それはいないのと同じです。ただ死ぬことよりも、その方がもっと怖いかもしれない」
 歌に葬られた死者の魂は《導き》によって《死》の元へと運ばれ、黒い炎によって浄化される。鍛え直された鋼のように、真っ新な魂は再び生命の中に戻っていくのだと神官は教える。
「生きたこと全てが無駄であったと、そう思われますか」
「そうじゃない……違いますけど……」
 不意に少年は自分のいる場所を思い出して愕然とし、ギルフィに詫びた。彼は微笑んで王弟を宥め、少し乱れた淡い色の金髪をなでつけてやった。
「父は自分が在ったということ以上に、為したことに重きをおくでしょう」
「為した?」
「時間の流れを止めることは叶わなくても、その時そうあったという事実は変わらないのです。殿下。父は満足したと私は思います」
 ごく慎ましく、だが誇らかに老シグニオンの息子は言った。
「僕は残念ながらよく存じ上げませんが」
 目を伏せてリオ・ザークは言った。
「あなたに良く似た目をしていらした……お声を覚えています。厳めしいけれど暖かで、何となく父上を思い出します」
「それは……」
 ほころびかけたギルフィの顔がはっと変じた。低く重い衝撃音が足元を伝わったのだ。
 リオ・ザークは腰の剣の柄に手をかけ、柱廊の外に飛び出した。小さな中庭の遙か向こう、森の上空に黒い煙が幾筋も上がっているのが見えた。
 街の方角だ。
「あれは……?」
 少年は顔を強ばらせたままそれを見つめた。煙は見る間に広がっていく。再び爆音が、先程よりも弱くはあったが何度か続けて聞こえた。
「殿下、こちらに」
 冷静なギルフィ・シグニオンの声が耳を打った。見上げたその顔は常のように静かだったが、双眸に強い緊張の色が漲っていた。
 
 

 
 
 狂ったような群衆の叫びと怒号の中を彼は流されていた。たち込めた黒煙と炎との間を縫う稲妻のような光が、草人形を薙ぎ倒すかのように次々と不運な人々を貫いた。
「混沌神の竈の中みたいだな……」
 口の中で呟き、ラッツは隣の男の肩に軽く手を置いた。その男がそれに気づく前に青年の身体は宙に舞い、群衆の波から抜けて半壊した建物に飛び移り、続け様に路地の塀の上に立った。途端に背後を炎の壁が遮断し、何十人かの絶叫が聞こえた。
 何が起こっているのかを把握している者は一人としていないだろう。ラッツは一秒たりとも留まろうとはせずに走り出した。彼を見咎めた者はいなかった。皆一様に怯え、喚き、炎と煙から逃れようとしていたのだ。
「暴動だ、暴動だ!」
 怒ったように一人の男が血みどろの腕を振り回しているのがちらりと見えた。
 暴動だって? ラッツは眉を寄せた。この無差別な虐殺が魔法による攻撃であることが彼にはわかっていた。それも統制され、訓練された軍隊だ。これほどの数の魔法兵を擁する軍隊は、国王直下の常備軍にはない。
 他国の軍隊だ。だが、どうやって海を越えた?
 目の前の家屋が爆発し、ラッツの身体が吹き飛ばされた。咄嗟に受け身を取ったが、半壊した建物の壁に打ち付けられ、一瞬呼吸が止まった。彼はそのまま身を伏せ、前方の様子を伺った。視界は白く煙っていた。
 港はもう駄目だ。彼はそう直感した。だとすれば、このまま前進するのは無謀に尽きるというものだ。
 だが彼は静かに身を起こし、無惨に崩れた白壁の残骸の中をじりじりと進んだ。直撃を受けたらしいちぎれた人間のかけらが瓦礫を点々と彩っていた。
 炎が次々と上がっていた。
 見覚えのある色つきの飾り柱にラッツは足を止めた。位置の見当が狂っていたらしい。彼は敵の姿が見えないことを確かめてから、瓦礫の中をそろそろと歩いた。不思議なほどたやすく、探していたものが見つかった。
 柔らかな巻毛が広がっていた。仕立て下ろしたばかりの朱色の衣装は粉塵にまみれていた。壊れた白壁や家具の中で彼女は驚くほど鮮やかに横たわっていた。
 死体のように静かだったその右手が、ふと上がった。
「ラッツ」
 女はいつものように両手の指を一杯に開いて彼を迎えた。小さな顔には血の気がなかったが、あの快活な双眸は変わらなかった。
「こんな時まであたしのところに来るのは、あんたくらいよ」
「そうらしいな」
 彼は頭髪にこびりついた粉塵を払い、女の傍らに座るとその小さな顔を拭ってやった。彼女は怪我をしているようには見えなかった。隣の部屋にいた赤毛の女の凄惨な姿を目にしてきたばかりだけに、それは奇跡のようだった。
「ここにいるつもり?」
 小さな声で彼女は尋ねた。その両脚が衣装の裾ごと瓦礫の中に挟まれていることに彼は気づいていた。巨大な妓館の梁が、彼女の脚を粉々に打ち砕いたのだ。
 ああ、と彼は呟いた。無意識な答えだったが、その瞬間に彼は自分がそれを望んでいたことに気づいた。
 女は微笑み、白い腕を差し上げて彼の頬に触れた。
「嬉しいけど、駄目」
「逃げる場所なんかねえよ」
「どこか、ある筈だわ。誰だか知らないけど、これは津波や竜巻じゃなくて、人のしたことだもの」
 小さいが不思議なほど落ち着き払った声で女は言った。
「だからラッツ、行って」
「マギ」
 女は微笑んだ。その身体の下の窪みからようやくあふれ出したものにラッツは気づいた。彼女の衣装よりも鮮やかな色彩だった。触れようとすると、女はかぶりを振った。
「背中、刺さってるの。あたしの血、もう全部流れ出ちゃった」
 小さくそう言ってから、女は少女のような声で笑った。
「変なの。あんたがあたしを呼んでくれたの、初めてだわ」
 女が両手を差し出した。ラッツの首に腕をからめて、彼女は頬ずりした。
 小声で彼女は何か呟いた。或いは彼女自身にも聞こえなかったかもしれない。
 
 ゆっくりと、女の頭を抱えた腕を静かにほどき、ラッツは彼女を元のように寝かせた。柔らかな女の腕が瓦礫の上に落ちかけるのを受けとめる。
 女はまだ微笑んでいた。自分がこときれた瞬間すら知らなかっただろう。
 ラッツは自分の右手に視線を移した。女の後頚部を貫いた細い刃が鮮血に染まっていた。膝のあたりでそれを拭い、袖の中にしまい込んで、彼は女の額の髪をなでつけた。近くに落ちていた寝台の天蓋掛けらしい布をふわりと女に被せた。
 家々を舐める炎が近づいてきた。彼はもう一度布ごしに女を眺めてから、とぼとぼと歩き出した。
 
 


 
 
第三章
 
 
 風が絶えた。
 常であればこの断崖の上の小庭園にまで漂う潮の香も消えた。ゾルスの冬は厳しくないとはいえ、庭園の中に花の姿はない。
 ただ一輪、今朝方咲き始めた《真紅の娘》、赤子の頭ほどもある大輪の花が、冷たく張りつめた大気の中、か細い茎の上で危なげに均衡を保っているが、既に花弁は一枚二枚と散り始めていた。
 枯れ葉一枚すら落ちていない水盤の中に描き出された波紋が、微かな振動によって乱れ、水盤の縁を細かに彩った。
 遠くで爆音が響いていた。
 
 
 彼は長い石段を登っていた。蹂躙される街と叫び声と無差別な爆炎をくぐり抜け、王宮の濠と壁とを越えるのはさほど難しくはなかった。
 王城の周囲にいる侵略者共は、殺戮ではなく警備の為にそこにいたのだ。即ち、この長い伝統を持つ白い城に彼らを待つ財宝の夢を見た下級兵士共に対して。暴虐の手から逃れんとするゾルスの女子供が、どうして海岸とは逆の方向にある王宮を目指すだろう?
 彼は遙か下となった街を見下ろした。小路までもが白い石で舗装された、詩人の歌う古い都。その典雅な姿は黒煙と光と炎によって失われようとしている。緩やかに下る大路を逃げ惑う群れは既に見えない。
 ローダス軍がどのようにして忽然と現れることが出来たか、ラッツには思い当たらなかった。また考えようともしなかった。彼らは今ゾルス全土をうめ尽くすばかりにいるのだ。
 太古の魔法帝国の末裔たるゾルス人、最下層の市民ですら貴族の優雅さと自尊心を持つといわれた民の終淵は、北の大国の残虐なる兵士らによってもたらされた。幾つかの島からなる小国を滅ぼすにしては、些か多すぎる数だろう。ローダスの国王は、こと戦にかけては物惜しみをしないらしい、と彼は立ち昇ってくる煙に顔を顰めて呟いた。
 幼い頃に幾度か牢に叩き込まれた経験によって、彼は人生に於ける幾つかの重要な智慧を学んでいた。絶壁によって三方を囲まれた王城の外壁を伝い下り、岩礁に砕け散る最も荒い波を泳ぎきることは、危険ではあるが不可能ではない。少なくとも、逆側の港から小船を盗み出すよりは。
 黄色っぽい煙が目にしみる。生肉が焼ける臭い。だが石段を登り続けるその足取りが休むことはなかった。
 
 

homenext