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D.B.B.-intermisson-


 「──つまり、エーテリオンと呼ばれるあの非熱量が、タオ論者らのいう《気》であるとするには、君は反対なわけだね」
 窓際の初老の紳士は僅かに顔を背けてみせ、遙か海上にあるその都市を示した。50年前ならさほどの距離を見通すことは出来なかっただろうが、大気汚染がかなり改善された現在、NAXAS-10……通称を《シェル》というその都市は漆黒の空を背景に燦然と煌めいていた。
「不思議な光景だな、全く。光源であるのにエネルギーとしての質量を持たないとは、古典的物理学を根底から覆してしまう」
「俺達が知らなかっただけだろ、その存在を。そんなもんはこの世界にはまだ幾らでもあるんじゃないか?」
 紳士が苦笑した。
「科学者の科白かね」
「俺はそんなもんになった憶えはないよ」
「ほう、では君はパーティで女性に自己紹介する時何と名乗るのだ?」
「何も。喋りすぎる男はもてないぜ。男も女も、ミステリアスなほど魅力的なもんだ。──あのエーテリオンのようにな」
 ごつごつとした節の目立つ指が窓の向こうを指してくるりと回る。紳士は口元に微かな笑みを浮かべた。
「なあネイサン。人間の肉眼では識別できない色や匂いがどれだけあると思う? 人間が知覚できない現象が知覚しているそれの数百倍あったとしても俺は驚かないね。今まで人間が発見した物理原則は真理の何パーセントに達しているんだろう?」
「君は哲学者になるべきだったかもしれんな」
「だったら死んだばあさまは大哲学者だったさ。よく言ってたよ──『人が鉄の乗り物で空を飛ぶんだ、何があったってあたしゃ驚かないね』。突きつめりゃ、それだけだろ?」
「鉄とはまた贅沢だね」
 呟いてみせてから、紳士は《シェル》の一番高い光源を指し示した。管理局……《シェル》を事実上の独立小国家として機能させているそれ。
「哲学者や科学者がエーテリオンをそれぞれ定義するように、我々もまた別の言葉であの街を定義する。《閉鎖空間シェル》とはよく名付けたものだ」
「あんたらも別のエーテリオンを見つけ出して楽園を築けばいいのさ。さて、そろそろおいとまするよ。荷物を詰めにゃならん」
「旅行かな」
 紳士の言葉ににやりと笑った。
「ああ」


 ネイサンとそんな会話を交わしたのは、いつのことだったか──
 プログラムの一部が崩れかけた廃屋の屋根に腰掛けてコントンの家並みを眺めながら、煙草をくゆらせた。この悪習ばかりはやめられそうにもないが、さて、この街のどこに行けば手に入るだろうか。鞄まるまる一つに詰めてきた分はそろそろ尽きる。
「──お」
 思わず洩れかけた声を呑み込んだ。
 「それ」が歩いてくる。弱々しくも健気に瞬いている街灯にまるで挨拶するように長い尾を揺らして。黒い天鵞絨ビロードのような体躯、銀色の光と化して揺れる鬚。
 不思議な色合いの双眸が、彼を射抜く。
 もう威嚇の色はなさそうだ。だが気を許した瞬間に手首を噛みちぎられそうな、それとも頭を擦りつけられそうな──考えの読めない獣の目。
「よお、兄弟」
 時代がかった挨拶をすると、黒い巨大な獣は脚を止めた。細く優美な四肢と尾、素晴らしい流線型の身体。完璧に均衡の取れた、力の塊だ。どこにも負荷を掛けずに水の上でも歩けそうだ。
「人喰ってるって噂は聞かないし、そんなでかい身体を満たすだけの餌がこのスラム街コントンにころがってるとは思えないし……なあ、お前腹減ってないか? といっても酒と煙草しかないけどな」
 言葉が解ったかのように、獣は鼻を鳴らした。慌てて煙草をもみ消す。この臭いを好む野生動物は滅多にいるものではない。嫌煙主義の生物学者が煙害について調べる為にサルに喫煙の習慣をつけさせたところ、自分も重度のスモーカーになってしまった、という話を聞いたことがあるが。
「ところでお前雄? 雌? 女だったら凄い美人だな。あ、おい」
 音もなく身を翻して、黒い獣が跳躍した。
 やや離れた建物の屋上に、全ての物理法則を無視した黒い体躯がひらりと飛び乗り、ふっと消える。
 ほれぼれとそれを見送って、ふと苦笑混じりの吐息を洩らした。
 このほんの短い邂逅の為に、この危険な地域で毎晩待っている自分。ネイサンが知れば皮肉げに笑うだろう。
 ──大したロマンチストだね、君という男は。クレイ?

×    ×    ×

「えーこの度はウェンさんがめでたく職務復帰なさいまして、まずはバンザイ三唱からいきたいところなんだけど御本人はまだ自宅勤務なのよ」
 アジト(遂の部屋のことだ。管理局内にも俺達「遂チーム」の部屋はあるけど、あそこ何となく居づらいからついこっちに集まってる)で三人揃うなり、いつもの通り脳天気な笑顔で遂はそう切り出した。
「俺ウェンさんって人会ったこともねーけど」
「オレのアコガレのおねーさんです。三つ編みがキュート」
「説明になっとらんわい」
 つーか説明されなくてもウェンさんって人のことは聞いてる。管理局にデバッガーの組織を作って俺達が自由に動けるよう上に働きかけた人だろ? で、子供産むから暫く仕事から離れてた人だ。そう言われた時まで女の人でそして人妻、なんて知らなかった。
「で?」
 木の踏み台の一番上に腰掛けていた楝さんがやっと口を開いた。俺ならその下の下の段に座ってもまだ床に足届かないな。くそーやっぱりでかいと脚長い。この踏み台は遂が『(楝さんの)止まり木』って呼んでる。俺なんかは床に座ったり窓枠に座ったり色々だけど、楝さんの好きな場所って幾つか決まっているんだよな。今度黒いクッション見つけたら置いといてみよう。
「オレ達と交替でBB事件に待機できるチームが一つ出来たってことです。つまりですね」
「休みだ!」
「ブブー。別のことしましょう」
 何だよそれはー。休みの日があったっていいじゃねーか!
 デバッガーチームのうち、殆どBBバグベアー事件専門なのは俺達だけ。いや他のことだってするけどさ、BB事件はどんどん増えてるから。そして気がついたら「俺達がBB事件専門」じゃなくて「BB事件が俺達専門」みたいになってた。それだけ勝率高いってことですげー自慢かもしれないけど! でもでもこの頃仕事しすぎ。俺だって買い物行きたいしどっか遊びに行きたいし友達とだらだらダベりたいし、うわーん最後に布団干したのいつだっけ。
「やーね布団干す時間くらいあげるよー」
「取り込む時間はっ!? 冬なんだぞ、昼は貴重なんだっ」
 楝さんがくくっと笑った。そんなに可笑しかったのか? 今の会話。だってやっぱり太陽に干した布団は全然違うだろ。
「まー君ってそういうところ日本人っぽいよね」
「人種なんて関係ないじゃん」
「じゃあ取り込む時間にはちょっと抜けていいということで、それもムリだったらオレが代わりに取り込んできてあげるから。えーとね、最近出回っている幾つかのウイルスプログラムのことなんですけどね」
 ネットウイルスっていうのは俺達にとっても厄介。バグベアーっていうのは普通、死んだ生物(オバケ?)と空間プログラムとエーテリオンが結びついて出来ちゃうらしいんだけど、つまりオバケがタマシイでプログラムが骨と肉でエーテリオンが動力? そのうちのプログラムがウイルスだったりすると、退治しにくいことがある。すっげー重い消去域消しゴムだったりバグを撒き散らしたりさ。
「俺いつも不思議なんだけど何でウイルスなんて作って撒くわけ? バイトとかで作ってるならまだ解るけど」
「まー君は絶対やりそうもないね……まあ愉快犯なんでしょう。分析するとサインが入ってる時もあるよ。こっそり有名になってみたいヒト?」
「わかんねー、そんなの作ってる時間の無駄!」
「ゲームも結果として何も残らないが、あれは時間の浪費にはならんのか?」
「う……えーっと、ストレス発散とか」
「そういうウイルスを作って楽しんでいるヒト達のグループがどうもコントンかラビッシュにあるみたいでねぇ」
 うわ、遂の口からゴミ溜めラビッシュなんて聞くとは思わなかった。しかもコントン? デンジャラス。
 コントンは《シェル》の一番外側のヤバい地域で、《シェル》にこっそり密入国(っていうのも変だけどここ居住規制あるし)したりヤバい仕事したり逃げ込んだり世捨て人になったりしている奴らが住んでいる。警察とかも入れない。というか、無視している。楝さんによると、「つつくと当局にとってもヤバいものが出てくるから」らしいんだけどよくわかんない。そのコントンの一番大きいエリアの隣がラビッシュって呼ばれていて、コントンよりはマシだけどちょーっと入りづらいかなっていう地域。前にウサギのバグベアーを追っていつの間にか入ってた時があったんだけど、楝さんが来なかったら俺えーとつまりははは。
 俺でさえそうだぞ? 遂みたいのがふらふらしてたら5分で売り飛ばされるか路地裏に連れ込まれるか、いやもっと危険?
「お前それどこから聞いたわけ?」
「うん? 元ハッカーのヒトとその友達の民間プログラマーなヒト。ラビッシュって一口に言っても広いよねえ、どこから手をつけたらいいかなあ」
 あーそうだ、忘れてたけどこいつだってハッカー体質なんだ。ちなみに《シェル》は街そのものが空間プログラムなんだから、管理局に属さないで立体プログラム関係の仕事をしているプログラマーっていうのは皆違法。ま、いいけどさ。
「手をつけるも何もお前、何をどうすんだ」
「とりあえずクラッカーさん達を見つけたくない?」
「俺はその前に自分の命が惜しいわい。や、ないけど」
「──俺達の職務の範疇外だと思うが」
 そうだそうだ。多分。ハンチューって何?
「だって惜しいじゃない、コントンって隠れた人材の宝庫かもしれない。オレ最近あんまり行ってないけどそもそもジンだってあそこの出身だし、コントンのあの就学率の低さであの」
「何っ? あいつコントン出身? それであんなにヤバそうなのか」
 ジンはこいつの友達、というか義理の弟らしい。楝さんと知り合う前にここで一度会ったきりだけど何というか、痛みつきのスタンガンスティングみたいな雰囲気で、頭のいい乱暴者っぽかった。まあ遂とは仲いいみたいだし、心底ヤな奴ってわけじゃないと思うけど……実はジンが最近の凶悪ウイルス作ってるとしても俺は驚かないけど?
「だからそれだけ色々頑張ったのよ」
 遂はちょっと首をかしげてみせた。お前の考え方って基本的にイイコだよな、いい意味で。……でもイイコはコントンとかラビッシュに出入りしないぞ。
「まあそいつら見つけ出すのはいいけど、あんなとこもぐり込むのは俺はまだしもお前は絶対ムリ。ヤバすぎ」
「そうかなあ、変装すればいいだけじゃない? まー君の方が色々と危なそう」
「お前が変装ってどうやんの? 女装か?」
「あ、それやったことない」
「絶対や・め・ろ、似合うから」
「……つまり俺に潜入捜査をしろと言っているわけだなお前は」
 とうとう楝さんが言った。あああ、解ってるなら言わなきゃいいのに。人が良すぎるよ楝さんって。短気だし。
「喧嘩売られそうだね。返り討ちにしてる間にコントンの顔役になっちゃったりしてねー」
 それ真実味ありすぎて笑えねぇ。しかもハマりすぎ。
「でもいいの? ホント」
「危険手当はお前が出せ」
「はーい♪ はずむからね」
 楝さぁぁぁんいいのかっ! でもちょっと面白そう。スリルはあっても危機感ないんだよな俺達って、やっぱりもう死んでるから怖いものないし。いや楝さんは生身だけどこの人は更に怖いものがなさそう。
「まー君とオレはラビッシュ側を調べましょう。オフの日だけだから一日おき、まー君は布団干しタイムつき」
「……楝さんコントンに日帰りで通うわけ?」
「散歩の延長」
 やっばり危機感ない。

×    ×    ×

「あんたもわかんない男だね、クレイ」
 チュエは胸を抱くように腕を組んだ。まだ20歳前後、或いは更に下かもしれないこの痩せっぽちの売春婦がこの地域の顔役だ。
 《混沌》──そう呼ばれるこの無法地帯にもそれなりのルールがある。ルールを決めるのは自然と集団のリーダー格になる人物、それが顔役だ。
 面倒見の良いチュエの元には幼い子供が多く集まっている。それらは一見足手まといになりそうだが、その兄姉も自然についてくる。チュエが打算でそれを狙ったのかどうかは不明だが……つまりは若く逞しい「兵隊」がチュエのグループには多いということになる。コントンの力関係において重要なのは若さなのだ。
 この殺伐とした世界に於いて20台後半は既に中年、40歳を過ぎれば老人と見なされる。無論、その年代に壮健で力強い者がいないわけではない。むしろ経験と智恵がある分有利なのだが、コントンの子供達はそんなおとな達を排斥したがる。ローティーン、或いは更に弱年のうちに親元を離れるのが当たり前の世界なのだ。親側も大半は子供を疎んじるらしい。両者が健全な家族関係を作れなくなったのは卵が先か、それとも鶏が先か。
 そんなコントンに於いて、彼らから見れば中年かそれ以上の年輩のクレイが受け入れられたのは珍しいことだった。彼らの気にくわない新参者はまず身ぐるみ剥がれ、暴行を受ける。ひどい時にはそれが死に至るまで続くが、チュエは殺人だけは禁じていた。──目を異様に輝かせた凶悪な子供達もこの強く逞しい「シスター」の言葉にだけは忠実だ。──だがクレイがふらりと現れて空き家に住みついた時も、子供達は何も言わずに遠巻きに彼を観察し、それが暫く続いた後にチュエが現れてクレイから煙草を一本貰った。それだけで、この変わった男は彼らに受け入れられたのである。
「そのケモノが何なわけ? 獣フェチ? あたしも見たことあるよ、それ。もう何年も前のことだけど」
「いつ?」
「エイジがまだ生きてた頃だから、3年は前だね」
 チュエの子供好きはその弟エイジに端を発するという。虚弱だが賢い自慢の弟は、風邪をひいてあっという間に死んだ。──その世話にかまけているうちに、一人でも二人でも三人でももっと大勢でも構わなくなっちまったのよ、とチュエはいつか笑ってクレイに言った。寂しい年増女のような、哀しいくせに強靱でドライな笑顔だった。
「最初はわかんなくてさ。だってケモノなんて初めて見たもの、どこのチームの奴がこそこそうろついてんのかと思って石投げたんだ」
「それはそれは」
「そしたらヒゲがふわふわしててね。ヒゲといえばあんた剃ったら? 少しは若くなるんじゃないの」
 クレイは頬を撫でた。元々は無精髭じみた顎髭だけだったのだが、いつの間にか顔の下半分が鉄色の鬚で覆われてしまった。これで兜を被ればヴァイキングの首領だと、水面に映った自分を見て苦笑したものだ。煙草があるうちはこんなものは生やせなかったが、焦げる心配もない今は放っている。自分には似合うかもしれない。
「多少若くなったところでお前らとは縮まらないよ」
「ばーか。シラミわきそうで見てるのが嫌なんだってば」チュエは彼の下顎を中指の腹で撫でた。「まあ、過去を捨てたくなった男には似合うけどね」
 クレイはきょとんとした。(チュエがその表情に気づく筈もないが)。どうやら彼は世捨て人だと見なされているらしい。そのようなタイプの者はどのグループにも入らず、一人でぽつりと住んでいることが多い。つまり無害なのでクレイも放っておかれたのだろう。
 確かにあの獣に逢う為だけに住みついた自分はとても生産的とは言えないな、と彼は顎を撫でながら考えた。当初の計画を忘れたわけではないが……この立体ネットワーク都市、『虚』の中であのようなエネルギッシュな『実』に遭遇するとは、不思議なものだ。
 あの獣は何の為にここに住みついたのだろうか。三年も前から?
「チュエ。客」
 銃を片手に、暗いサンバイザーをつけた子供が彼女を呼んだ。
「誰」
 チュエはその子供の向こうに立っている背の高い男を睨むように見やった。最近、隣り合った地域にいるグループの顔役リュウがチュエに挑発的な態度を取っている。そのうち「戦争」になるかもしれないとクレイも子供の一人から聞いていた。だがリュウも馬鹿ではない、兵隊の数ではチュエのグループが断然に多いのだ。そう簡単に仕掛けてくるとも思いがたい。
「ランの知り合いだって」
 子供とチュエのやり取りがまだ続いている。ランというのはチュエの知人か、それとも他のグループの顔役らしい。
 クレイはしかしそれには耳を貸さず、飄然とそこに立っている男を見つめた。
 静かな黒い双眸が彼を見返していた。


「あのさ……何でお前、コントンに知り合いなんているわけ?」
 散歩気分でコントンに旅立っちゃう人もどうかしてるけど、やたらコントンに詳しい一般市民っていうのも変じゃないか? 俺がすげー常識人みたいだぞ?
「ランはもうコントンのヒトじゃなくてね、一時期グレていたけど今はラビッシュに住んでいてきちんと税金も払っている立派な社会人」
「グレたくらいでンなとこまで極めねーよ普通」
「元々はジンの友達?」
 俺に訊くなそんなこと。っつーか……お前友達は選べ。マジ。
「いいヒトなんだよ音感良くてパワフルで。えーと当時は密輸とかやってました」
「どこがいい人だ。そんな人のツテで楝さん送り込んで大丈夫なわけ?」
「まあまあまあ。大丈夫、ホラこの子魔法使いだからネ」
 俺達の前で幸せそうに新作ドッグを頬張っていた人がそう言った。魔法使い……言えてるけどどっちかというとアホーだこいつは。いやちょっと待て、それ言ったらアホー使い? こいつに使われてる俺達がアホってこと?
「ええと紹介します。こちらリジ、いろんなとこで幅広く活躍している謎の商人。こちらまー君、オレの友達」
「数馬! こいつんとこでバイトやってます。以上!」
 うーんいいコンビだねぇ、とリジさんは丸い黒めがねの下で笑った。短いドレッドとこんがりサン・タンな肌色のいかにも怪しい人。見るからに遂と気が合いそう。……つーか、その紹介何。
「例のウイルスメーカーのこと、キミノリが久々にキレてたヨ。あの中の一つがキミの作ったヤツのパクリなんだって」
「ちょっと待って、王則きみのりってこいつの兄貴でしょ? ウイルス作ったことあんの?」
「ボクの知る限りはないヨ、使われたのはウイルスじゃなくてセキュリティ。悪用しようと思えば色々改造出来るヨ」
「あーそりゃそうだ」
「キミは非合法っていうだけのプログラマー、腕いいヨ。非合法なんて言ってもちゃんとしてるし。そりゃアヤやマーみたいに合法な人には言いにくいけどネ」
「や、俺も実はモグリだから平気」
 だってホンモノの身分証明IDないし。大体管理局が何もかもコントロールしようっていうのがおかしいんだよ。サービス悪いしさ、俺だって頼むなら民間に頼む。
「アハハ、さすがアヤの友達、話解る」
「でしょ? それでリジ、王則何かやっちゃった?」
「いや、キミのとこに送られてきたウイルスの出元を追跡して叩き潰したらしいけど、そこもそのウイルスどこかから貰ってきてちょっと改造しただけだったみたい」
「オリジナリティは大切だよねぇ」
 ……確か俺が前に会った王則さんって人は見た目異様に目立つけどとってもまともでまともで真面目っぽい人だったけど。そういう奴らに手出しして平気なわけ? やばいだろ?
「にしても、王則のそのプログラムを手に入れられる環境にいたってことだね」
「コピーは出回ってるんじゃない? ザラでしょそういうの」
「うーん、その王則のプログラムと両方を分析してみないとわかんないけど、王則セキュリティ方面はあんまり書いたことないと思う。自分用くらいしか。ホラあの人結構攻撃的でしょ、守りに徹するという考えがそもそもなさそう」
「アハ、確かに喧嘩っ早いネ。あ、ちょっと失礼」
 妙に明るい着信音が流れて、リジさんは誰かと会話し始めた。それにしてもこの店、リジさん一人分だけでこんなに長居しちゃって大丈夫なほどヒマなんだ? さっきのグリーンカレードッグって名前の通りとんでもない色してたけど……匂いの想像も出来ねー。
「王則さんってどういう人なわけ?」
「ホラ今回の話の発端の元ハッカー」
 ……そもそも王則さんが情報源だったのかよ! つーかダメだろ王則さん、こーいう何にでもアタマ突っ込みたがる子犬(動物園で見た! コケてた。すげー危なっかしい)みたいな弟にそんな話しちゃ。どうなるか解りきってるじゃん。それとも何、こいつにウイルスメーカー達を全員退治させたいわけ? それとも全員一生遂の下働き? 何てひどいお仕置きだ。
「楝さーん俺を一人でこんな危険な奴らの中においとかないでー」
「楝さんはもっと過激なとこにいるよ?」
「うわーん楝さーん」
「今連絡入ったヨ。アヤにチョクにデータ送るって。核心に近づいたみたいネ。大丈夫、簡単」
 端末を元に戻しながらリジさんがにこやかに言った。


 傾きかけた机の上でちまちまと動いているものをクレイは見つめた。いつの間にか太陽が沈み夜になっていたことも、音もなくこの廃屋に滑り込んできた 長身の男が自分を眺めていることも気づかずに。
 それは指の先ほどもの大きさのアメーバに似ていた。銀色に光る鱗状の斑文をつけ、突起が伸びては縮み、また伸びて移動している。それが這った跡は机の形状プログラムが変質するらしく変色しており、まるで本物の軟体生物が這った跡のように見える。
「エーテリオン含有率0.3パーセント以下のバクテリア・バグベアーだ」
 その低い声に打たれたようにクレイは顔を上げた。昼間チュエの元に何かを伝えに来た背の高い男が窓際に立っていた。
 クレイは彼を穴の空くほど眺め、ふと微笑んだ。
「よう、兄弟。バグベアーオバケというのは何だ?」
「あんたが観察していたやつだ。それともあんたが造ったのか?」
「まさか、俺は神じゃない。ふうん、これがね」
 クレイは指先でそれに触れる仕草をしたが、太い指先は何にも触れなかった。
「確かに非熱量だ。少なくとも俺には存在が感じ取れないし暖かくも冷たくもない」彼は顔を上げた。「この街の立体プログラムというやつは凄いな、俺はここのプログラマーになるべきだった。いや、どうもコンピューターは苦手なんだが。ところでまだ君の名前を訊いていなかった。俺はクレイ・サード」
「楝」
 クレイが軽く目を細める。楝の怪訝な表情に気づいたらしく、彼は手を振った。
「いや、君に名前があるとは実は予想していなかった。どうもこの街では奇跡が日常的に起きているような気がする」
「同感だが、それと俺の名前の有無とは別だ。──あんたはここに何をしに来た?」
「俺はまた、俺がそう訊くべきかどうか考えていたんだがな、レン」
 彼はごわついた顎を掌で撫でた。
「君は利口そうだ。あのリュウとかいう物騒な奴らのグループに本気で荷担しているとは思えない。チュエが言ってたが、君が持ちかけてきた話ってのは随分と無礼な内容だったみたいじゃないか? 普通なら君はリンチを受けてどっかに転がされている。チュエがボスじゃなけりゃな。そんな話をわざわざ君に伝えに行かせたってことは、君はリュウにとって捨て駒なのか、それとも目の上のコブというヤツか」
「第三者だからだ」
「どこにも属していない? ふうん、そんな感じだな」
 クレイは無意識に机の上を指で辿り、はっと気づいたように机上を見回した。あのアメーバのような小さなバグベアーは机の端でどす黒く変色し、今にも消えようとしているところだった。
「どうしたんだ、こいつは」
「構造が単純すぎて分解したんだ」
「……可哀相に」
 その染みめいた姿が溶けて消滅するまでクレイはじっと見つめていた。
「俺にはますます解らない。一体エーテリオンとは何なんだ? こいつは生物そのものに見えたぞ」
「そう見える時もある」
「なのに触れることは出来ない。しかしエーテリオン・プログラムに対してはある種の化学反応的な作用をもたらす。──俺達とは僅かにずれた次元にある生命体だとしたら、今のはまさしく死だ」
「次元の向こうなんぞ知らないが、一つの死であることは確かだな」
 クレイは顔を上げた。
 漆黒の背景と衣服の間で、青年の顔は白く浮かび上がっていた。その双眸が無知な人間を観察する何者かのそれのように、クレイには見えた。
「何故この街に来た? クレイ・サード」
「……人間が解明していないものを、この目で見る為に」
 楝がふと笑う。
「バグベアーや──或いは、それ以外の何かを? オカルティストだとは知らなかった」
「……はは、そんな風に言われるのは初めてだ」
「じきに騒がしくなる。余計な詮索は当分やめておけ。黒い獣も暫くはここに近寄らない」
 がたりと音を立ててクレイが立ち上がった時、既に楝の姿はなかった。机の上には細く伸びた黒い染み。それだけがこの小一時間の経過を証明していた。
 クレイはぼりぼりと顎を掻いた。
「……雌だったらもっと嬉しかったな」
 そんなことを呟いて、彼はふと笑った。

×    ×    ×

「何ぃ、終わったあ?」
 遂からの連絡を受けた時、俺はラビッシュとジャンク・ストリートの間あたりでウイルス・プログラム探しをやってた。犬や猫を口笛吹いて探すんじゃあるまいし、もちろん遂ツールを使ってだけど、挙動不審なのは自分でも知ってる。BB事件用に遂を待機させておいて(だってあいつと一緒だと目立って仕事になんない)、その代わりリジさんの友達か何からしいマッチョいウーさんって人と二人で探してたんだけど、ちょっとでもウーさんが離れるともう。一昨日は通りすがりのガキんちょ達に金たかられそうになったし、その前はおねーさん達にナンパされそうになったし……あの人達ショタ?(って自分で言うのもな)。今日なんてなあ、「ボウヤ迷子?」って言われたんだぞ? 親切な年寄りに!
『それがですね、実は王則がついにウイルスのまき散らし元を見つけちゃって』
「生身の人間の方が何で割り出し速いんだよ!」
『いやーまー君はアタマにきている時の王則を知らないから』何だかしみじみと遂は言った。『というか多分、どうかすると王則の端末に直結するようになってたんだと思うのよ最初から。王則のプログラムを手直しする時それに気づかなかったんじゃないかな。とにかく楝さんが大体の目星をつけて知らせてくれて、行ってみたらもう、あららご愁傷様』
 ゴシューショーって誰だ? いや人じゃないのかもしんないけど、何があったのか訊くの嫌だな。
「……王則さんリベンジに遭ったらどうすんだよ」
『大丈夫、リジが後始末してくれるから。というわけでまー君、ごめんね御苦労様』
 通話を切って、はあっと溜息をついていると、トイレに行ってたウーさんがクラッシック・コーラの大瓶を二本、それぞれ一本の指だけでぶら下げて戻ってきた。
「おう坊主、どうした?」
「何か俺、この一週間で世の中の黒いとこばっかり見ちゃったような気がする」
「ふーん。まあ黒いモンでも飲んで腹ン中も黒くしろ」
「……や、ありがと。でもコーラ駄目」
「そりゃあ不幸なこった」
 ウーさんは残念そうに肩をすくめて、前歯で王冠をスパッと抜いた。



「クレイ、あんたまたそんなとこいんの? 風邪ひいたら誰が看病すんの」
「馬鹿は風邪ひかないんだよ」
 クレイは苦笑する。
 黒い獣がこの夜に戻ってくるのは、まだ先のことだろう。

 

END

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