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彤弓

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彤弓とうきゅう


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 十日天ニ現レ、民此レニ困窮セリ。
 帝此レヲあわレミ、羿げいヲシテ彤弓素矢ヲ以テ射サシム。則チ九日ヲ射テ止ム。

 
 
 判決が読み上げられるのを待つ間も罪人は静かに端座していた。
 蓬髪跡の残る手足。粗末な麻のは帝の御前に引き出されるからと、獄吏が先程着せた。髯も剃ってやったのは親切心だけからではなく、刃物を貸すわけにはいかなかったからである。
 鼻梁高く眉は力強き、如何にも武人らしい風采の男であった。罪人らしく跪礼するにも臆するところがない。あれが彤弓の人だと人々は囁きあった。
 罪人には髪を留めるこうがい一つ許されぬ。地位から言えばこのような扱いを受けずとも良かったのであるが、彼は罪を認めて自ら獄舎に入った。吏卒やくにん神・蓐収じょくしゅうの裁決を仰ぎに下地に降り、戻ってくるまでの間を彼はそこで過ごした。
 下地五厲上天五残を司る神・蓐収は下地の西方にひっそりと住まう。ならばこの男の罪の経緯をつぶさに知っていたことであろう、下地の為に罪を犯したのだから……ともすれば蓐収神も手心を加え、罪に値せぬと断じるのではないか? 獄吏らはそう話しあった。そうであればいいがという願いを込めて。並ぶ者なき弓の名人、剛毅で飾らぬ為人ひととなり。この罪人は吏卒にまで畏敬されていた。
 逆に、この男と近しかった貴人らの反応は興味本位の噂話にとどまっていた。吏卒らから仰ぎ見れば武勇で名高い重臣であったかもしれぬが、所詮は数多いる近従の一人に過ぎぬ。帝の恩寵を良いことに、思い上がって少々やりすぎたのではないか? まあ、帝の恩赦が下っても良さそうなもの。傅相しゅん殿もあれほど取りなしていたのだし……舜だと、と誰かが蔑みの笑いを込めて吐き捨てた。帝は近頃成り上がり者ばかり重用される、尊貴な御方は幾らでもいように。これで彼奴らが少しは懲りれば良いが、軽い罪で赦されればますますつけ上がるだろうよ。
 ……しかし蓐収の裁決は人々の思惑よりもずっと過酷であった。
 下地への追放。
 罪人は眉一つ動かさずにその宣告を聞いた。跪いて叩頭したその先には三段のきざはしがあり、本来ならばぎょうがそこにおわす筈であった。しかし帝は最後まで姿を現さず、罪人が上天人の力の源たる霓翼はねを斬られて下地に送られるのを見届けたのは舜であった。
 下地に通じる不周山ふしゅうざんを下ろうとして、罪人は最後に舜に軽く頷いてみせた。両人ふたり共訣別の言葉は述べず、互いの胸の裡は明らかであった故。
 
 かくして彼は下地に降りた。


第一章
 
 
 羿げいは急流の中で腕を洗っていた。蛮蛮ばんばんの血と臓物がこびりついてなかなか落ちない。雌が赤、雄が青い色の、一目一翼ずつしかないのでつがいになって初めて飛べる奇妙な鳥だ。串に刺して焚火で炙っている肝が香ばしい匂いを上げ始めている。焦げやすいのだと思い出して、羿は慌てて小川から上がり、塩を振って囓りついた。咀嚼しつつ、羽を毟ってこちらも火に翳しておいた鳥をひっくり返す。脂がしみ出てぱちぱちと小さく音を立てている。
「まあ、何て行儀の悪い」
 蛮蛮の羽を丁寧に揃えていた姮娥こうがが呆れた声を上げて羿を見やった。
「せめて前くらい隠しなさい、全くもう」
「気にするのはお前だけだ」
「わたくしの前ではどんな不作法でもいいの? 貴方ときたら、よくもまあそれで天帝にお仕え出来たものね」
「上天の礼儀なんて忘れた忘れた」
 羿は舌で口の回りをちらりと舐め、串を放り出して再び小川の中に戻っていく。その肩の付け根から広がっていた巨大な霓翼は痕跡すら残っていない。痛みなどあるわけではないが、霓翼を失った後の何だかふにゃりとした脱力感を姮娥は知っている。
 霓翼とは上天人の証だ。鳥や蝙蝠のような翼が生えているのではなく一種の気であり、それがきらきらと五色に輝く透明な翼の形を成しているのである。これを断たれれば飛ぶことが出来ず、また技や知識の幾らかも失ってしまう。
 羿は伸び放題の頭髪を乱暴に洗っている。彼の髪は元々赤味を帯びた鉄色であったが、下地に降りた頃からますます赤くなった。今では朱髪の大男と言えばこの辺りの里ではどこでも通用する。
「わたくしが結ってあげるというのに」
「俺がどこかの枝にひっかけて笄をなくしちまった時、散々喚いたのはどいつだ?」
「だって、あれはその玉帯と対になっていたのに! あれほど見事なものは下地では手に入らないのよ、貴方のその髪にとっても良く似合っていたのに。そういえばここの留め金から下がっていた真珠がないようだけれど」
 姮娥は美しい眉を寄せて夫の玉帯を手に取った。孔雀、象、豹、獅子、様々な動物を精緻に透かし彫りにしてある。上天の品々は毀(こぼ)たれることがないが、歳月を経てうっすらと飴色がかってきた。
「狩人に笄なんて要らんさ」
 羿はぶるんと頭を上げて髪を絞り、ふくらはぎにこびりついていた泥を脚で落とした。見事な体躯は上天にいた頃よりも引き締まり、幾らか痩せたように見える。
 ももひきを穿き、衫を着て帯を締めると、蛮人にも似た身なりの巨漢がそこにいた。かといって、姮娥が留め金をかけてやった玉帯や見事な短剣がそぐわないわけではない。元々の精悍で厳しい顔立ちに気さくな笑みが不思議と馴染んでいるように。口元の古傷が引きつれて、彼は常に笑みを浮かべているように見えるのだ。尤も姮娥が知る限り、彼は機嫌が良くない時の方が少ない。上天にいた頃はずっと沈着で寡黙な男だったように思えたが。
 羿に言わせれば、下地に降りて豹変したのは姮娥の方だ。以前はこれほど元気の良い女だとは思いも寄らなかった。従順で淑やか、蜻蛉かげろうのように儚げな姫君だと……娶ってから暫くは、牡丹の花弁のように風が触れただけではらはらと散ってしまうのではないかと危ぶんだほどである。
 絶世の美貌で知られた后羿こうげいの奥方が初めて自分の意志を明らかにしたのは、罪を得て下地に流刑となることが決まった羿が妻に別離を言い渡した時であった。
「我が君、姮娥は后羿の行く処であれば、どこへなりとも参ります。どうかお連れ下さいませ」
 きっぱりとそう言って、彼女は夫の命令を拒んだものだ。そればかりか羿が躊躇している間に自分の霓翼まで落とさせてしまった。これには見送りに来た舜もいっそ感嘆したものである。
「いやはや、この潔さ。夫婦とは似るものなんだな。それとも似た者だから夫婦になったのかな? これは月下老に訊いてみないと」
「月下老?」
「今のところ神籍には載っていないが、そう呼ばれている縁結びの御老体がいるそうだ。何でも赤い縄で男女の足を手当たり次第に括って回っているとか……僕なら丁重にお断り申し上げるね、どうも眼がお悪いのではないかと時々思うよ。まあ君達は似合いだけど」
 そう軽口を叩いたせいか、その後彼はどうしたものか二人の妻を同時に迎える羽目に陥ったらしい。その噂話を羿に伝えた姮娥は、両足を別々の赤縄で括られたんでしょうよ、とすました顔で締めくくった。その時の彼女の口振りを思い出す度に、舜が二人の美女の間で狼狽している様をつい想像して、羿は笑ってしまう。
 
 
 さっぱりとした頃には鳥が美味そうに焼けていた。脂が滴るのも構わず食らいつくその横で、姮娥は蛮蛮の尾羽をきちんと布に包んでいる。里に行けば珍重されるだろう。
「逆光に目が眩んで射ちまったんだ」
 蛮蛮の肉は味が濃い。独特のくせがあるが、火傷しかねないほど熱いうちに食べればそれが逆に旨い。
「獲ってはいけないの?」
「だってこんなに仲睦まじいのに。可哀相じゃないか」
 たちまち一羽を平らげた羿を姮娥は横目で見て笑う。
「お馬鹿さん。比翼鳥に限らず、鼠だってだって犀だってつがうではないの。一緒に貴方のおなかに収まれば満足でしょう。さあ、焼けすぎないうちにこちらも召し上がれ」
 羿は申し訳なさそうな顔をした。
「お前、本当に食わないか?」
「身体が重くなって飛べなくなってしまうもの……わたくしはもう下地の食物は口に出来ないと知っているくせに」
 ちらっと睨むが口元は微笑んでいる。目元に険が生じるとひどく艶めかしい。
「貴方は生焼けの鳥でも兎でも食べていらっしゃい。月宮で美味珍味をいただきながらわたくしが後ろめたい思いをしなくていいように、出来るだけ美味しそうにね」
「この皮のぱりぱり焦げたところが旨いんだ、塩をちょっと振って」
「もう、意地悪!」
 笑いながら姮娥はその柔らかな拳で羿の背を叩いた。彼女の肩には一対の霓翼がひらりと広がり、如何なる綾や珥璫よりも艶やかに姮娥を飾っている。夜になれば月光の下で夢幻に煌めくだろう。
 それを姮娥が取り戻した経緯を考える度に、羿は複雑な思いに囚われるのである。
 
    ×    ×    ×
 
 
 ──心苦しきことですが、もうこれだけしかないのです。二人で分けても効き目はありません。どうかよくお考えになって……。
 姮娥の境遇を哀れんで薬を授けてくれた女はそう言ったという。下地に住まう女神の一人だろう、時には上天に数多集う者達よりもよほど力や智恵に優れた者がいるという。
 下地の為に罪を犯した羿を心慕う者は多い筈だと姮娥は思っていた。姮娥自身が夫を誇らしく思っていた為に。だから、女の厚意を疑いもしなかったのである。
 妾の名を申し上げるのはおこがましいこと、それでは陰徳になりませぬ……そう言って固辞した女から姮娥は漸く名前を聞いた。羿には隠しておくようにというのが条件で。女は盛りを過ぎていたが美しく、初めは羿の嘗ての愛人かと疑っていた姮娥であったが、女は微笑んでかぶりを振った。以前妾の息子の一人が后羿に生命を救われたのです、と。成程、それは羿らしい。
 混迷の下地に姮娥を伴わせるのは忍びない。妻に累が及ぶ罪ではなし、一人きり謫降されよう。そう独り決めしていた夫に自分の同行を認めさせる為に霓翼を落とさせた姮娥であるが、喪失感はいつまでも続いた。上天人であれば当然のことだ。下地の女で喩えるならば、美しい見事な黒髪を失ったようなもの。頭髪ならまた生えてくる。けれど霓翼は刑吏のおので断てば二度と生じない。
 それを再び蘇らせる薬だという。
 狩から戻った羿は経緯を聞くなりにこりと笑った。お前の美しい霓翼をおれも再び見たかった、と。
 だが薬は一服しかない。
 羿とて妻の逡巡を全く解さないわけではなかった。己一人が再び上天人の力を取り戻したのでは後ろめたすぎる。だが羿には霓翼への未練が全くなかった。彼は強靱な肉体があり、ことに弓の技は如何なる者にも負けぬ。だがなよやかな姮娥は野獣や戦乱の多い下地にただ住まうだけでも戦々兢々としており、これでは羿もおちおち狩に出かけられぬ。
「お前が俺を信じ、下地についてきてくれたことだけで充分すぎるほどだ。それ以上思い煩うならば薬を焼くぞ?」
 いっそそうしようかと姮娥も一時は考えたが、思い直した。夫が彼女の境遇を気に懸けていることを知っていたからだ。常は剛毅な男であるだけに、彼がそんなことでくよくよとしている姿を見たくなかった。失ったものばかり回想している自分にも嫌気がさした。
 霓翼を取り戻しても夫の側にいればいい。上天が恋しくなればたまに里帰りすればいい、道が開けていることだけで気分も晴れよう。そう決めて彼女は薬を飲み、
 ……そして後悔したのである。
 
 
    ×    ×    ×
 
 
鑿歯さくし?」
 聞き慣れない名前だ。羿は首を振って猟師とその連れの娘を見やった。
 羿を訪ねてくる者は少ない。よほど山に慣れた猟師でもなければこのような森深くまでやって来ないものだ。人の少ない山村のこと、狩を専業としている者も稀なのだが、この猟師は数少ないそのうちの一人であった。幼い頃に怪我を負ったせいで腕の力が弱く、畑仕事が出来ないので小鳥や珍しい薬草を採って暮らしているのだ。
「こう、のみみたいな歯が口から突き出てるんだと。だから鑿歯。足跡は見たが、でっけぇ虎みたいだった」
 《蛙》と呼ばれているどこか愉快な顔立ちのこの猟師は顔馴染みだが、娘は初めて見る顔だった。こんな山奥にしては珍しいほど色が白く、鼻筋も細く通っている。身なりを整えればさぞ美しかろう容色だ。悋気の強い姮娥など一目見て差し掛け小屋の中に籠もり、呼んでも出てこようとしない。仕方なく羿と二人は小屋の前の焚火を囲んで座った。
「何人喰われた」
「あたしが知っているだけでも七人……きっと今はもっと」
 娘は阿南あなんと名乗った。ここから三つ目の里の者であり、弓の達人の噂を聞いて遙々出向いてきたのだ。里同士の交流はあまりないものだが、猟を専業にする者は必ずといっていいほど羿の噂を聞き及んでいるし、たまに訪れる塩売りらは塩だけでなく様々な噂も商売品にしている。しかし羿は自分の有名ぶりよりも、この内気そうな娘が山道を歩いてきたということに驚いた。たまたまその里の近くまで珍しい茸を採りに入っていた《蛙》と会わなければ無理だっただろう。木々が鬱蒼と茂り、雨が降れば道は泥水で埋まる。夜は鼻をつままれても判らぬ闇の中。こんな娘にとっては、獣ばかりではなくよその里の人間も怖い筈だ。並の覚悟では来られまい。
「父が喰われたんです」
 阿南は両手を握りあわせた。荒れた手だ。
「お願いです。父や他の皆の為に、鑿歯を倒して下さい」
「それは無論だが……」
 羿は娘の疲れた憂い顔を眺めた。大変な決意を抱いてここまで辿り着いたというのに、阿南の声や表情は静かであった。それでいて異様な気迫がある。白い皮膚の下には、まるで針で突けば破裂せんばかりに激情が満ちている。
 不思議な娘だ。
 
 
    ×    ×    ×
 
 
「あの娘は嘘つきよ」
 《蛙》と阿南が里に帰った後、まだつんとしたまま姮娥は言った。上天でも比類なき美貌を謳われていたこの女が、何故下地の百姓娘にまで嫉妬するのか羿には解らない。
「嘘つきって」
「あんな下手な嘘にひっかかるのは、鼻の下を伸ばしている殿方くらいでしょう。里の者ですって……人間なものですか」
 やはりそうか。
「樹精か何かかと思ったんだが」
 がさがさと荒れた手をしていたが、と羿は訝しく思う。あれは労働した手だ。あやかしであればずっと美しい手をしているのではないだろうか。
「お気をつけなさい。貴方を狙う妖はいくらでもいるのだから」
「俺じゃなくてお前の方が危ないじゃないか」
 上天人の肉を喰らい血を啜れば、その絶大な能力を己のものとすることが出来る。それが真実か否か羿は知らぬが、そう信じる者が多い。現に、うっかり下地に降りて捕らえられ、人贄いけにえとして殺された者がいるらしい。
 人間ばかりではなく、妖力を欲しがる精霊や妖魅ばけものの類の中にも、血の力を信じては誰彼ともなく襲うものがいる。
 まあ、と姮娥は呆れた声を上げた。
「わたくしの操までお疑い? 貴方がそうだからといって、何てことを」
「は?」
 何か食い違っている。
「そんなふしだらな女ではありません! そんな目でわたくしを疑っていらしたの? ああ口惜しい」
 羿はぽかんとした。つまり狙うというのは……思わず肩から力が抜けた。途端に可笑しさがこみ上げてくる。
 ほんのりと赤らんだまなじりをつり上げ、涙ぐんだ姮娥の顔。怒った顔もこれほど美しい女を羿は他に知らない。
「そうじゃない。姮娥」
「お好きになさったら! 嘘つきの獣くさい小娘と、どこへなりともお行きなさい。けれどわたくしまで淫らなさがだと思われるのは我慢出来ないわ」
「俺だってそんなつもりはない。だが、出自を隠したからってどうしてあの娘をそこまで蔑む?」
 肩に触れると姮娥がぴしりとその手を払いのける。彼女のやきもちはいつものことなので、羿は妻のほっそりとした身体を軽々と抱き上げて胡座をかいた上に座らせ、腕の中で小突かれたり抓られたりするのも構わず、暫く考え込んだ。
 阿南。あの娘が妖魅の類であれば、己の素性を隠すのも無理はないだろう。《蛙》は知恵が回る猟師であり、素性が知れれば殺されかねない……まだ人間と妖の隔てがさほどない時代とはいえ、美女に化けて人間を惑わす妖は厄介だ。
「一つ嘘をついていたのですもの。まだ幾つ嘘を隠していても何の不思議はないわ」
 後悔したのか、抓った跡がついた夫の腕をそっとさすりながら姮娥が言った。
「父御を殺されたと言っていたけれど、それもどうだか」
「けど《蛙》も足跡を見たと言っていた。鑿歯というのはいるんだろう」
 ていだろうか。虎に似た猛獣で、やはり人間を好んで喰らう。彘ならば羿は何度も退治したことがあるし、あの牙はやじりの材料として格好なのだ。だが鑿のような歯を持つ彘は見たことがない。彘ならばいぬのように鳴き、尾は牛に良く似ているが、そこまで見た者はいなかったらしい。
「甲を経るとそうなるのかな……」
 独り言をいう羿を姮娥は見上げ、岩のようなその胸に頬を押しつけた。
「もう少し、こうしていられると思ったのに」
 じきに姮娥は月宮に戻らなければいけない。また次の一ヶ月を離ればなれに過ごすのだ。だが、人を襲う悪獣の噂を聞いた羿が出立を遅らせることもないと解っている。羿の到着が遅れればそれだけ人が死ぬ。
「途中までついて来るか?」
 彼女は笑い、そしてまた抓った。犀の皮膚より厚い、と姮娥がからかうほど丈夫な羿の肌ではほんの少しくすぐったいだけだ。
「けれどわたくしは山道なんか歩きませんからね! 羲和ぎかに貰ったこの霓翼を、せいぜい使わせて頂くわ」
「飛んだら今度は簪を枝にひっかけるかもな」
「お生憎さま。そうしたら森の上を飛ぶもの」
 羲和。それが薬をくれた女の名前だと初めから聞いていれば決して勧めなかったのに。
 ──息子の一人が后羿に生命を救われたのです。
 そうではない。他の九人を殺したのだ。

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