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第五章
 
 
 融天山の中腹にその洞窟はあった。丈高い木々に囲まれ、瀟洒な滝が側を流れている……入口は羿が屈まなければならぬほど狭かったが次第に広がり、やがてふわりと抜けた処は異界であった。
 上天のそれのような城(まち)だ。美々しい高楼(たてもの)、城の外にはよく手入れされた豊かな畑。羿は上を見上げた。空虚な空に十の太陽が見えた。無邪気に愉しげに、手と手を取り合って遊ぶ御子達。
 ここは全て幻なのだ。
 そう胸中で呟いた途端に全てが消え、暗闇と化した。足の下には砂が敷かれた地面の感触。ふうわりとした香の匂いが漂ってくる。
 
 
 羲和はひどく老いていた。生き残った末子とも引き離され、住まいとしていた暘谷から姿を消したと聞いていた。
 老いてはいたが、涼やかな目としっとりとした美しい声は変わっていなかった。質素な襦裙をまといながらも、羲和は下地の女帝のように見えた。
 久しぶりですこと、と羲和は唇の端を上げた。
「后羿。貴方がこちらにいらしていると耳にして、ぜひ会ってみたくなりました。粗末な苫屋(あばらや)にご来臨下さるとは嬉しいこと」
 まろやかな口調に羿は眉を上げた。厳しいその顔を見上げ、羲和は口に手を当てる。
「どうなさいました」
「鑿歯に何を与えた」
 岩壁の棚には幾つもの壺や器が並んでいる。馥郁とした香の中に微かな薬草の匂いが混じっているのを羿は嗅ぎ取った。
「あの思い上がった男は自ら飲んだのですよ……あれの性に相応しき姿になるように」
 女神は微笑のまま答えた。
「貴方にその赤い弓が相応しいように。后羿、貴方はまだその弓を携えておいでですのね」
 それが憐れむような口振りであった為に羿は目を細めた。
「俺は帝に仕える者だ。この弓を手放すことなどあろうか?」
「帝は貴方を庇って下さらなかった。あんまりだとは思いませぬか? 貴方のそれまでの功に免じて罪を減じることなどたやすいことなのに」
 囁くように女は尋ねた。
「帝の御意を違えた者を赦しては余人に示しがつかん」
「ここは裁きの場ではありませぬよ、后羿。帝の御意……そんなもの」
 羲和は喉の奥で笑う。
「妾(わらわ)の子らを殺せと、それが帝の御意だったではありませんか。さもなくば、どれほど罪深かろうと稚(いとけな)き子まで射殺す貴方ではございますまい。ええ、あの御方は妾の九子を殺し、貴方に罪を着せて放逐したのですわ」
 痩けた頬。本来神は死ぬこともなければ老いもしないものだ。狂ったように泣き叫んで羿を詰った時の羲和は真夏の宵のように若かった。結い上げても尚、地に届かんばかりに長く伸びていた黒髪。今はぷっつりと背で断ち切られている。
「言葉が過ぎるぞ、羲和! あんたのそれは逆恨みというものだ」
「妾は貴方の境遇を哀れに思います」
 床几に腰掛け、慈悲深い表情で羲和はそっと首を振った。
「どなたも貴方の忠誠をご存じです。あれが帝の御意であったことも。おかしなこと、帝と貴方は帝の御力を改めて皆に知らしめる為の一幕劇を演じただけ」
「何を言っている……」
「忠臣・后羿。帝の罪の、その証人となる貴方をいつまでも呼び戻さないのが何よりの証拠ではありませぬか?」
「俺は下地で満足している」
 女を睨み据えながら羿は言った。
「上天は平穏だし、祝融がいつもお側に控えている。下地で幾許なりとも帝の為にお役に立てれば、俺はそれで良いのだ」
「帰りたいとは一時もお思いにならなかった?」
 桃の樹、丸くなって眠っていたあの青い狗。ほんの一瞬でその幻想は消えた。羿自身の声に打ち消されたのだ。
「俺は満ち足りている。あんたが姮娥にかけた呪いを除けばな……そしてあんたが鑿歯と阿南を弄ばなければ」
 吐き捨てるように彼は叫んだ。
「俺が憎ければ俺を呪えばいい。何故姮娥を欺いた」
「妾は姮娥の望みを叶えただけ。あの愚かな男はここに忍び込み、神薬を盗んだのです。それが妾の罪ですか?」
「里でもう一度それを言え」
 羿は唇を噛む。先程までの羲和への躊躇など消えていた。
「赤子も夫も喰われたあの女の前で言ってみろ。自分の責任ではないと、よくも言えたものだ。鑿歯を罰するならその場で殺せば良いだろう。きれい事はよせ、あんたは俺を誘い出す為だけに鑿歯を使ったんじゃないか」
 羲和は喉をのけぞらせて笑った。白い喉が何故かひどく目についた。
「子を殺された母を思えと貴方が仰るのですか、后羿。まあ、何ておかしいこと」
 笑い声に羿はぞっとした。
「貴方にそんな顔をさせられるのであれば、妾は何百人でも殺しましょう。下地の全ての母から子を取り上げ、その嘆きを貴方に聞かせましょう。ええ、貴方は何も悪くありませんわ、后羿。妾の愚かで傲慢な子らは制止した妾の腕を鞭で叩いて駆け上がっていきました」
 その跡がまだ残っているとでもいうように、彼女は右腕をそっと押さえた。
「けれど子を殺された妾は貴方を憎みます。貴方は帝と同じ、貴方を傷つけるには誰か他の方を傷つけるしかありません」
「……あんたは」
「あの心冷たき子が追放された貴方を慮って眉を顰めているとお考えですか? 自分の弟らを殺したあの堯が!」
 笑い声と共に叫んで羲和は羿を見つめた。思わず羿は一歩退いた。
「……何だと」
妾は子産みの女神。天地開闢の後に堯を産み、十日と十二月を産んだのはこの妾
 誇るようではなく、ただ悲しげに羲和は告げた。
「弟殺しと知れればいくら帝でもそのままではいられますまい。だから貴方が一人で罰を受けるしかなかった。それすら打ち明けてくれなかった帝に貴方は忠誠を捧げている……お気の毒な后羿。その彤弓は誰に対する忠誠の証なのですか?」
 怒りと戦慄に脚が震える。惑わされるな、と羿は腹に力を込めた。
「帝の御心は俺が知っている! 帝はいつも嘆いておられた、母ならばそれを知っている筈だ、俺よりも」
「母だからこそ解るのです。あの子は妾が十日に告げることを恐れていました。帝が実の兄だと知れば十日は更に傲慢になったでしょう。上天を乱し王を名乗り、正当な権利を要求したでしょう……堯は十日が誤ちを犯すのを待ち、そして殺したのです」
 うっすらと羲和が微笑む。凄惨な笑みであった。
「いつか貴方が老いた時、貴方を殺す者がおりましょう。それはきっと彤弓を握っていましょう、帝に忠誠を捧げた哀れな人。その者を憎むのは、今度は姮娥ですか?」
「それ以上の戯れ言は聞いていられん!」
 呪いだ。これは呪いだ。羿は耳を矢で貫きたい衝動に駆られた。この女は自分から全てを取り上げようとしている。
「あんたは危険だ。俺はあんたをこの洞窟ごと封印する。帝がお赦しになる日まで、幻の中に一人住まうがいい」
 羲和は微笑みを返した。その目の奥にひたひたとたぎる波とも炎ともつかぬものを羿は見た。
「貴方が射殺される時を妾は楽しみにしていましょう。后羿、母の憎しみほど強きものはありませんよ。貴方はこれから決して安らかに眠ることは出来ますまい」
 
 
 轟音と共に岩盤が滑り落ち、洞窟の入口を塞いだ。
 
 
    ×    ×    ×
 
 
 日が落ちかけていた。
 鑿歯の醜い屍体を埋めておいた処に戻ると、阿南の姿は既になかった。村に届けるべくそれを掘り出し、まるで置き去りにされた孩子(こども)のように彼はとぼとぼと一人藪の中を歩いた。
 これが俺への罰だ。
 山麓で彼は立ち止まり、雲に隠れた山頂を見やった。
 帝よ、御身は知っていたのだ。俺が羲和の言葉に惑わされ、御身を一時でも疑うことを。ああ、俺は誰よりも御身の心を知っていた筈なのに。
 阿南の目。蓐収の目。帝の目。見ただけで心痛くなった。俺は、だからほんの僅かでも疑ってはいけなかった。
 なのに。
「帝……」
 声が洩れた。羿は顔を歪め、食いしばった歯の間から呻き声を上げていた。
 たとえ赦されても俺は帰れない。帝は俺を見ていたのだ、羲和に惑わされた俺の顔を。俺は……。
 彤弓を抱きしめて彼はすすり泣いた。羲和の呪いがまだ耳の底に残っている。いつか殺しに来る者が、と告げる美しい女の声。そんなことはない、そんな筈がない。
「……何を泣いているの、孩子のように」
 どこかで小さな声が聞こえた。羿は目をこすりながら顔を上げたが、姮娥のあの夢幻的な姿は見えなかった。
「姮娥」
「駄目。まだ月が満ちているもの」
 彼は目をしばたいた。まだ期日にならぬというのに、自分がこうして己の浅ましさに泣いているのを聞きつけて降りてきたのだ。胸の中に熱い湯が満たされた。
「どんな姿でもいい。出てきてくれ」
「どうしたの。鑿歯が貴方を泣かせたの? 大きなお馬鹿さん」
「……羲和に会った」
 姮娥は最後まで黙って彼の言葉を聞いていた。朽ちた落ち葉の上にぺたりと座り込み、羿は語り終えて途方に暮れた。
「それを信じるのであれば、彤弓を谷に捨てておしまいなさい。后羿」
 小さな声はしかし明瞭だった。
「貴方の名声を聞きつけて、貴方に挑みたいと思う愚か者は多いでしょう。それが何色の弓を持っているかわたくしは知らない。けれどわたくしの夫は、死ぬその時まで猜疑心に悩まされながら暮らすほど狭量な人ではありませんよ」
 茂みの中から小さな姿が現れた。
 泥色の軟らかな身体、いぼだらけの皮膚。ただ目だけは澄んでいた。ぺたりぺたりと蟇(ひきがえる)は草の上を歩いた。
 月が満ちている間姮娥はこの姿に化す。それを知った時、彼女は己のおぞましさに泣き叫んだ。今までは羿がどれほど懇願してもその姿で現れることはなく、その期間を月宮の片隅で過ごしていた。
「貴方の選ぶ道がたとえ間違っていたとしても、貴方の心の美しさは同じ。后羿、わたくしはあの女には負けてやりませんよ。十日をそのように育てたのは母の罪だもの」
 彤弓を肩にもたれさせ、羿はその小さな身体を両掌の上に乗せた。蟇の両肩にほんの小さな霓翼がついているのが可愛らしくさえ見える。彼は暫くしてから微笑んだ。
「俺の目にはお前はいつも美しいぞ」
 蟇は喉を震わせ続けている。そっとそこに触れて、彼はその柔らかさを感じた。
 羲和が何を滔々と述べようと、姮娥や阿南を苦しめ無辜の里の民を虐げたのは彼女に他ならない。全ては自分を憎む為。けれど、あの女神に負けてやることは出来ない。異形と化した鑿歯、喰われた者達、姮娥、それらに自分が罪悪感を覚えてはならない。
「わたくしは最も美しい蟇ですもの」
 姮娥が慎ましくも得意そうに答え、彼は笑った。笑いながら夜空を見上げた。丸い玉のような月が出ている。
 
 里に幾つか明かりが灯っているのが見える。一番大きいのは篝火だろうか。羿の帰還を待つ《蛙》がその側にいる様を彼は思い描いた。あの男はきっと阿南を赦してやれるだろう。不幸なあの娘。あれが夫の仇を討ちに来たとしたら俺はどうする?
 暫く考えてから羿は己の問いに首を振った。
 阿南に討たれてやるわけにはいかない。俺をこうして慰めてくれる姮娥も、そして帝の御意も否定することになる。俺は数えきれぬほどの怨恨を背負っているだろうが、それを悔いてはいない。
 今更それを己に問うたのは、阿南のあの目を見てしまったからだろうか。
「何を見ているの」
 囁きに答えるように、彼は姮娥を目の高さまで持ち上げてやった。
 帝よ。だからほんの僅かでも、一時でも心安らいでくれないだろうか。
 俺は死ぬまで御身の彤弓でいて良いだろうか。
 
 二人は暫くそうして夜景を眺めていた。黒い森の木々、紺色の空。白い霧が降り始めていた。
 羿の頬に弓の肌が触れた。滑らかでひやりと涼しかった。



参考
『山海經箋疏』郝懿行撰(藝文印書館)
『山海経』高馬三良訳・平凡社ライブラリー
『支那古代神話』森 三樹三郎(大雅堂) 他略

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