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桜夜

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桜夜


 
 
 そうかよ、と答えて電話を切った。
 
 
 電話の向こう側を通り過ぎる自動車の音。
──恵美(えみ)と別れることにした。色々あってさ……今日。お前には報告しといた方がいいかなと思って、やっぱり。
 でも恵美のこと好きだしホント幸せになって欲しいと思うし。でも俺じゃ駄目なんだよ、俺達なんかそういうのとは違っちゃってさあ。だから……。
 そう藤野は彼独特の明るい口調を残した声で言った。自嘲めいた笑いが端々に洩れた。自分の言葉が空々しいと気づいていない。演技している自分を見抜いているのかどうか俺にもわからない。
 ただ酷く醜い。
 藤野が望んでいるのは俺に罵倒されて自分の行為を噛みしめる、そういうことだ。
 だからそうしてやらなかった。
 深夜二時。ほんの少し霧雨が降っている。藤野はどこかで雨に濡れているかもしれない。
 

 
「久垣(くがい)久垣、法学のノート貸して。アタシ今日起きたら九時でさ、もう家中だあれもいないの」
 小宮恵美が俺の上衣の背中についているファスナーで遊びながらそう言った。この女はボタンやファスナーがちょっと変わった位置に付いているとすぐいじりたがる。傍目から見ると結構危ない光景かもしれない。
「人の肩甲骨眺めて楽しいのか? お前」
「久垣のは結構楽しい。ガタイいいんだもんアンタ、メリハリない男の身体なんて最低、特にハラのあたりふにゃふにゃな奴」
「肝に銘じておく」
「どうせ今日学食でしょ、今日のAランチ焼肉定食だよ久垣の嫌いな。アタシお弁当作ってきたの、これとノート引き換えー。ね」
 恵美は寝坊しても弁当には手を抜かない。
「手書きで写すならな」
「さあんきゅー」
 似合わない黄色い声でそう言ってみせて、恵美は図々しく俺の荷物をもう一つ隣の椅子に移すと後ろの長机を跨(また)いでそこに座り込んだ。
「ねえ何でコピーだと駄目なの」
「誠意がない」
「でも法学のセンセも誠意ないじゃん、毎年同じ授業ノート使ってテストも同じ問題なんだって? 宏文(ひろふみ)そう言ってた。アタシだってもっと授業面白ければ一限からちゃんと来るけどさ。やっぱりアンタのノートってきれい。この前のもちょっと見せてね、アタシ白い河で船漕いでたの」
「あいつ去年のノート持ってるぜ」
「何い? 知らない何それ。うっわ別れてから言わないでよ」
「何で俺がお前らの会話の内容把握してんだよ」
「でも昨日電話してきたでしょ、宏文」
 恵美のシャープペンの持ち方はちょっとおかしい。だからすぐ手が疲れる。高校の頃からボーリングの球は持てないしテニスラケットも左利きだったのは多分そのせいだ。それでも字を書くのは速い。一気に書いてその後鈍痛が襲ってくるのを我慢するのだといつか言っていた。そういう女だ、こいつは。
「二時」
「うわあごめん、迷惑かけちゃったね」
「お前が謝ることじゃないだろ」
「でもアタシ片割れだから」
 けろりとした顔で恵美は俺を見た。
「ゴハン食べていいよ。二日目だから入んないの、今日」
 遠慮なく俺は食うことにした。自動販売機の紅茶が嫌いなこの女は家でいれてきたのを持ち込んでいる。要するに砂糖入りのやつが嫌いなわけで、それには俺も同感だ。
 女一人分の量でも二人分の量でもない、十九歳の女が作ったにしては手慣れたやつを俺が黙々と平らげている間、恵美は時々うわあ今つったとか言いながら写している。
「そこ必要ないぜ、ただの実例だから」
「何でノートしたの」
「聞き写していたら今のはテストには出さねえとか言ったんだよ」
 恵美は弾けるように笑った。教室の向こう側で昼食を取っていた何人かの女がこっちを見た。
「アンタ今彼女いないよね? 今更だけど」
「何で」
「アンタがアタシのお弁当食べてて、隣でこうやってたらまるでカップルじゃん」
「いない。中国文学科(チューブン)の女はお前以外知らん」
「忘れてんの? 佐野さん」
「誰だっけ」
「去年の五月頃までつきあってたでしょ! 細くて髪すっごいきれいで色白くてかわいいのがいたじゃん! ひっでーこいつ」
「……ああ、京子(きょうこ)」
「アンタ名前以外覚えてないの?」
「プチサンボン」
「何でトワレは覚えてるの」
「耳朶につけてたから」
 けだもの、と恵美は笑いながら睨んだ。
「でもあれすっごい微かじゃん」
「お前つけてないだろ」
「ゴハン作る時邪魔だもん。色気より食い気さアタシは。爪もねえ、のばしてみたいけど絶対雑菌たまるし包丁で刻みそうだし。何で料理やる女(ひと)が爪塗って料理しない男(ひと)が塗らないんだと思う?」
「そろそろ授業」
 慌てて恵美はノートに戻った。
 

 
 佐野京子を忘れていたわけではない。ただ、つきあいを自然解消した女なんて何となく思い出したくなかった。
 最初は今時珍しいくらいおとなしい女に見えた。消え入るような、というのはこういう声のことかもしれない。そのくせ喋ると結構明るい性格だった。
 中国の怪異譚(かいいたん)というマニアックな趣味を持っていて、その辺りで恵美とも知り合ったらしい。もう一つの趣味はB級ホラー映画。部屋に来る度にレンタル店の袋を抱えてきた。
 一人暮しのくせに料理はまるで下手だった。既成のルーを使うカレーやチャーハンが料理のうちに入るかと言ったら絶句し、お肉焼くのは出来るもん、と小さい声で呟いた。
 細い割に骨の在処(ありか)がわからない身体だった。
 ダイエットのしすぎでごつごつ骨が飛び出た女を良く見るが、だったら二段腹くらいの方がまだいい。骨が当たって痛い。皮膚にくるまれた骨の塊を見ていると、何となく噛(かじ)ってみたくなる。そう言うと、京子は俺が冗談を言ったかのように笑いころげた。
 化粧もほとんどしない女だった。あの石鹸のような匂いのトワレも、俺の部屋に辿り着く頃にはほとんど薄れていた。
「圭司(けいし)って嗅覚も犬みたい」
「嗅覚もってのは何だ」
「だって何となく、おっきい獣が床にごろんと寝ているみたいなんだもん。首とか舐めるの好きだし。犬じゃないよね、もっと大きいの何かな」
「熊?」
 京子はひとしきり笑ってから漸く言った。
「ちょっと違う感じ、狼とか虎とか。知ってる? 人の皮をかぶった獣の話。本当は獣じゃなくてオバケだけど」
「羊だろ普通は」
「中国の話。清代(しんだい)の。人間を食べて、その皮をぴったり着るの」
「何で」
「次の獲物を狙ってるから」
 寝物語にしては色気のない会話だが、その辺も京子らしかった。
 
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「何か眠そう」
 恵美が開口一番に言った。鉄面皮とか無表情とかはよく言われるが、この女だけは俺の表情を読み間違えたことがほとんどない。
「また女連れ込んでたわけ? けだもの久垣君。猫だってさかる時期は決まってるのにアンタは年中なんだから。アタシ気をつけよっと」
「お前は女に見えん」
 良かった、と恵美は肩をすくめた。
 こいつが連日弁当持ちで経済学科の棟に来るせいで、俺達がつきあい始めたという噂が流れている。別にいいが、その為か藤野は電話以来姿を見せていない。
「ヨーコとかさ、久垣の話しただけで何それアンタ達出来てたの?って言うの。男イコール彼氏じゃないじゃん! アタシ久垣としたことないよってきっぱり言ったらしーんとしちゃった」
「それは単に羞恥心の欠如の問題かもな」
「そうかなあ、女同士のワイ談って結構すごいけど。ほーら今日は五目いなり。アンタ地味なゴハン好きだもんね」
「最近の肉はまずい」
「戦前の人みたいなこと言わないでよ」
 何だか餌づけされているような気がする。京子が俺のことを獣と言ったせいか、こいつがけだものと連呼するせいか。
 獰猛な、人の皮をかぶった。
黒イ獣。
……散ル桜。
「前にお母さんが買ってきてくれた油揚げを元々味付だったの知らずに煮ちゃったら、もう、すっごいしょっぱくて食べられなかった」
「お前時々すごく初歩的なポカやらん?」
「そう、セーブ中にフロッピー抜いちゃったりね。情報科学の小テストあれでパー」
 

 
「狼人間の話もあるけど、虎になっちゃう人の話もよくあるの。どっちが本性なのかわからないような」
 そんな小説を中学か高校の頃に読まされた覚えがある。あれは日本の作家だったが、やけに漢字含有率の高い文体の。
「お前何でそういう変な話好きなわけ?」
「嫌い?」
「俺が嫌いとか好きとかじゃなくて、純粋な疑問なんだが」
 京子は首を傾げていた。何故かものすごく途惑っていた。
「わかんない。でもそういう発想って面白いと思う。誰が最初に考えついたのかな」
「最初って。剽窃してるのか?」
「最初に読んだ人達には新鮮でしょ? ぱっと広まって、あちこちで似たようなのが書かれて、それが後世でも時々使われるんじゃないかな」
 京子はそう言った途端に飛び上がった。テレビ画面の女優が絶叫したのだ。思わず俺の腕を掴んでおいて、京子はちらと見上げてから俺の太腿を肘掛代わりにした。心臓小さいくせにどうしてホラーが好きなのか疑問だ。もしかして自分にないものを求めているのか、この女は。
「この犯人、人間の皮膚で洋服作っているんだよね」
「……知って見てて楽しいか?」
「ホラー映画の怖さって、来るぞ来るぞほら来たっ!ていう怖さじゃない?」
「つまり恐怖ではなく驚きを求めている、と」
「レポート書いてるんじゃないんだから」
 京子が笑う。髪が俺の手をくすぐった。長い日本人形みたいな髪が極細の鉄線みたいに見える。
白い肌ニゾットスルホド黒ク流レタ。
青白イ月光。
「……圭司?」
 京子の顔がいつのまにかすぐ近くにあった。さっきシャワーを浴びたのに、トワレの残り香が微かに匂う。肌の匂い。京子の口の中は熱く柔らかい。
 歯を立てたくなる。
 何故、月の光など思い出したのだろう。この部屋からは夜空はほとんど見えない。
 京子の背後で凄絶な悲鳴が起こった。今度は彼女は振り向かなかった。
 

 
 黒イ木立。風ガ吹ク度ニ森ガ騒グ。夜。白イ花弁。一本キリノ貧弱ナ桜ノ木ガ狂ッタヨウニ花弁ヲ振リマク。
 驚クバカリニビッシリト咲イタ桜、細イ枝。細イクセニ豊満ナ女ノ身体ノヨウナ。
 否。
 アレハ屍体ノ色ダ。
 見開カレタ女ノ目。白目ガ青ク夜ニ染マル。黒イ二ツノ瞳ニ映ル獣ノ目。
 
 ──俺だ。
 

 
 藤野は何となく照れ臭そうに手を上げてみせた。テスト一週間前にいい度胸だ。しかも三十分の遅刻。お前のペースにあわせろとでも考えているのか怠慢野郎といつか言ったらその翌週は時間通りに来たが(タイマンとは何だと聞かれた)、その次からは元に戻った。外で待ち合わせたならとうに帰っているが、生憎同じ学科だ。
 風邪を引き込んでいたらしい。十二月の雨に打たれれば当然だろうが、こいつは震えながら別れの余韻にでも浸っていたんだろう。藤野の遅刻のせいでイラついていた為か、そんなことを考えた。
「こないだはごめんな、夜中に変な電話した」
「どうせまだ寝てなかった」
「夜行性だもんな」
 何科目かのノートを攫って行った挙句に大量のコピー抱えて戻ってきた。書き写すのは無駄な労力だそうだ。
「ああっずるーい、宏文コピーじゃんそれ」
 学生課の呼び出しを受けて中座していた恵美が戻ってきて頓狂な声を上げる。彼女を振り向いた藤野の顔は見えなかった。別に見る気はないが。
「久垣、何で宏文はいいの」
「こいつをとっくに見放しているから」
「あ、そうなの。じゃあアタシはまだ見放されてないんだ」
 へへっと笑って恵美はもう一度藤野を見上げた。
「よ、久しぶり」
 やあ、とああ、の中間くらいの不明瞭な声で藤野が返し、コピーの束を抱えて出ていく。……あいつ俺に何か話があるから電話してきたんじゃないのか、昨日。
「びっくりしたあ、佐野さんずっと来てなかったじゃん? 辞めてたんだって」
「へえ」
「もうちょい何かリアクションないのかアンタは……ロッカーに荷物あったから、まだ在籍しているのかと思った。置き忘れだって。あの辞書高いのに」
 俺の手元にあった冷めた紅茶を飲み干して、恵美はもう一杯注いだ。飲むのかと思ったら俺の分だった。
「アタシ傍にいると新しい彼女出来ないよねえ、そういえば」
「別にいいけど」
「そう言ってる割にいつもキープしてない?」
「いない時の方が多い」
 正直に答えたのだが、恵美は疑わしげに唸った。
「バイトあるし? アンタ家庭教師でしょ、相手中学生じゃん犯罪だよそれ」
「誰がそんなこと言ったよ」
「いやあそれ見たい! ロリな久垣。まさに赤頭巾ちゃんと狼さん」
「男!」
「じゃあショタ?」
「違えよ、野郎やって何が楽しいんだよ」
 わかんないよーうやってみなきゃ何事も、と恵美は歌うように呟きながら机の上を片づけ始めた。
「俺よりお前の方じゃねえの」
「アタシとーぶんオトコ要らない。ね久垣、暫く高校生なおつきあいしようよ」
「……は?」
 俺が飲み干したカップを受け取って、恵美はそれもしまい込んだ。
「だからお弁当作ったり遊園地デートしたりセーター編んだり電話したり。えっちなし」
「高校生で?」
「皆が皆アンタみたいな高校生だったんじゃないの。でもそう言うなら中学生みたいなのってどうでしょう」
「今やってることと変わらねーじゃん」
「じゃあ決まりだ」
 恵美は人差指を舐めて俺の鼻をつついて、手を振って出ていった。
 午後の授業開始まであと三十秒。
 ……わかんねー女。
 

 
 青白イ身体。チラチラト魚ノ腹ノヨウニ光ル。痩セタ腕。細イ首筋。
   京子の首筋を見る度にぞくりとした。
 必死デ見上ゲル野性ジミタ女ノ顔。目ヲ閉ジナイ。鮮ヤカニ乱レタ黒髪。(俺は何だ)白イ白イ肌、ザワメク森。女ノ体臭。喉カラ洩レル呻キ。爪ヲ立テラレタ背ガ快感ニ近イ痺レヲ訴エル。(黒い獣)風ノ中ニパラパラト裸ノ身体ニアタル桜。
京子じゃない。何故なら……。
 恐怖ト快感ニ凍リツイタ女ノ身体。死骸ノソレノヨウニ強バル関節、弓ナリニ反ル背。獣ノ住ム森ニ迷イ込ンダ末路、ソレトモ何カカラ逃レテキタノカ。
(コノ女ハトウニ)
 ネットリト濃厚ナ匂イ。汗。揺レル髪。蝋色ノ指ガ俺ノ腕ニ触レル。冷タイ。
 見たこともない筈の顔。
「               ?」
 

 
 来る途中で買ってきたソフトをやはり持参のゲーム機に入れて、恵美は小さく口を開けてオープニング画面を眺めている。
「久垣ってゲーム嫌いだっけ?」
「売った」
「そっか苦学生だもんね、じゃあ今日は存分にやろう。これCGすっごいきれい」
 台所の方が気になるらしく、立ち上がって覗きに来る。
「何作ってくれんの」
「地味な和食」
「鶏(とり)ゴボウだな、好き好き。あー冷凍ゴボウ、ずるいぞ手抜き。でもこれいいなあ楽だもん」
 お買い得だねえと恵美が言った。
「さあ。生は買ったことがない」
「ゴボウじゃなくて久垣。部屋ん中もきれいだし、何もないけど。ベッド嫌いなの?」
「狭くなる」
「アンタが床にごろーんと転がっただけで狭く見えるもんねえ、黒い服だと余計」
……黒イ獣。
「昔うちにあった床に敷く毛皮、何の毛皮だったのかなあ。よく熊の頭ついてるの映画とかであるじゃん? あれ思い出す」
「絨緞(じゅうたん)と一緒か俺は」
「あっキウイフルーツ! 久垣大好き!」
 高校の頃、人の皿からよく攫っていったから、それはしっかり覚えている。
「これマタタビみたいな匂いしないか?」
「マタタビってどんな匂い?」
「イライラしてくるような」
「やっぱりアンタけだものだわ、それも猫科。知ってる? キウイとマタタビって親戚なんだよ」
「それなら酔っ払うんじゃないのか?」
「だって本人、というか猫がホントにどんな風に感じてるかなんてわからないじゃん」
 
 
 終電の一本前で送っていった。中学生のつきあいならもう二時間は前かもしれない。
 霧が出ていた。恵美は子供のように声を上げて暗い道路の真中を歩いた。手を繋いだ。子供のように小さくて熱い手だった。
「アタシ高校生の頃すっごく真面目だったじゃん? もしかして勿体ないことしたかな」
「今際の際に考えれば」
「普通そこは、そんなことないよっ!とか言うものじゃない?」
「肯定も否定も責任取りたくない」
「そういう奴だよねアンタ」
 恵美が抱きついてきた。弾むような身体が衣服を通してでもはっきりわかる。脱色ではない茶色の髪。
 女の匂い。
「あのね久垣のことヌイグルミ扱いしてるわけじゃないから、言っとくけど」
「ああ」
「腹筋かたーい」
「頭突きはやめろよお前……」
「やだ。もうちょっと」
 ほろ酔いのような口調でそう言って、恵美は暫くそのまま俯いていた。
 見上げると月に雲がかかっていた。墨絵そのままの迫力で、静かに雲が動いていた。
 

 
 血の匂い。
 あの森だ。いつも夢に見る、暗い森だ。梢の上に骨のように浮かぶ月。
桜。
 身体の下に横たわる白い裸身の女。痩せ衰えた細い身体には幾つも傷がある。まるで少女のような骨張った身体なのに、異様に惹きつける。爪の掻き傷。肩の辺りに小さく並ぶのは多分、牙の跡。
 女は目を開いて俺を見ていた。茫とした、奇妙な迫力のある目だった。京子ノ目デハナイ。伸びて乱れた髪、薄汚れた頬。
 胸の傷に黒く固まった血を舌先で舐めると、押さえつけた肌がびくりと動く。何度も舐めるうちに震えが伝わってくる。押さえつけた息を吐き出すと、女が微かに呻く。
 首筋に食らいつくように顔を埋める。
 声のない悲鳴。小さく堅い乳頭の感触。舌と掌の下で脈打つ血潮。噛み裂きたいという衝動に全身が貫かれる。
俺ノモノダ。
 狂ったように女がもがく。細い身体のどこにそんな力があったのか、鞭のようにしなる。
 桜が酔う夜。
 
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「テストやばいわ。せっかくコピー貰っといて悪かったけど、多分二つ駄目」
 学生の姿は少ない。テスト期間の最終日だから無理もない。暑すぎる暖房の中でハイネックのセーターの藤野は顔が赤い。
「それ以前に出席日数ぎりぎりなのが悪い」
「だってすぐ就職活動だし。お前みたいに皆勤賞な方が不気味」
「さぼる時はさぼってる」
「ずるいよーお前」
 既に志望ゼミの教授に顔を憶えられている奴に言われたくない。
「でもお前で良かったのかもな」
 軽い口調のまま藤野が言った。
「エラいもんお前なんだかんだ言っても。宇部とか沢口だったら即殺すって感じだけど、お前なら安心して任せられるから」
 ちょっと俯き気味に笑う。
 ──あたしとーぶんオトコいらない。
 あの台詞恵美に言わせたのどこのどいつだ。
 大きな音を立てて机が倒れた。その脚が細かく振動している。藤野は自分が蹴られたかのように一歩後ずさった。教室内に残っていた学生が一斉にこちらを見た。
「課題確認しておけよ。あの教授追試やらないぜ」
 藤野の顔を見ずに教室を出た。
 
 
 そのままバイト先に直行して、まだ時々うっかりタメ口をきくガキの小さいこせこせした字を何時間か眺めて、座れるくらいに空いた電車に乗った。
 夜空に雲はなかった。月はあんなに小さかっただろうか。ガラスに映った高校生くらいの女がこっちを見た。香水のつけ方を知らないらしい。もしかするとこういう女達はわざと自分に似合わない化粧をするのかもしれない。人工調味料をこってりとまぶしたファストフードを連想させる。
 駅が一緒だった。ちらりとこっちを見て足早に出ていく女の後ろから降りて、駅を出てからまた空を見上げたが、当然ながら月は見えなかった。巨大な墓石のような遮蔽物のどれかに隠れている筈だ。
青イ月夜。
 

 
 電子レンジで即席の湯豆腐を作る。食事の後片づけをしていると恵美から電話が来た。
「テストおつかれさまーっ」
「レポート御愁傷様」
「それを言うなあ。四本だよシャレになんないよ。しかも哲学の評価テキトーなんだって」
「俺去年C」
「……絶対あいつ読んでない!」
 電話の恵美の声は向かい合っている時よりも子供っぽい。そのくせ耳障りではない。一日の出来事の報告を聞きながらふと視線を窓際へ向けて、
 思わず鳥肌が立った。
 斜めに伸びた壁の影に切り取られたマットレスが何かを連想させた。
(横たわる白い……)
「どしたの久垣」
 聡く恵美が尋ねた。
咀嚼スル音、
「別に」
「そう? 何か今電磁波みたいのが走った」
「器用だなお前」
砕ケル骨、
引キ剥ガシタ皮膚ノ下ノ鮮ヤカナ色。
「あ、ごめん。お風呂沸いた」
「ああ、じゃ」
前脚ノ下ニ広ガッテイク液体。
 振り返るとあの女がいるような気がした。
 夢の中の。
 克明にそれが甦ってくる。何度も何度も。月夜の夢。本当に何度も繰り返しそれを見たのか、それとも既視感をどこかで挿入しただけか。
血ノ気ノナイ唇ガ動ク
 ──人の皮をかぶった獣の話。
 京子が囁くように微笑んだような気がした。
 
 
 胃ニ穴ガ空イタヨウナ空腹感全テ喰ライ尽クス女の肉が俺を満たす欲情ト衝動一片たりとも残すことなくドッチガ本性ナノカワカラナイヨウナ桜を見る度に邪魔ナ匂イ濡れた月の視線ムセ返ルヨウナど
「ワタシガシンダラタベクレルカ?」
こまでが友情でどこからが愛情なんて考える奴はいない発情シテイル雌ノ匂イだらりと垂れ下がる骨髄のどす黒さ圭司ホラマダ咲イテルヨ一輪ダケ空想の産物ではなく実際に起こった事件だとしたら折
「ワタシガシンダラタベテクレルカ?」
レル音似ていたから戦慄ト陶酔ッテ似テナイカ骨のような月があの
「ワタシガシダラベテクレルカ?」
「ワタシガシンダタベテクレルカ?」
時も無表情ニ雄ヲ喰ラウ蟷螂ノ雌ただ全身で欲しくなる全テ俺ノモノダ人間だろうか恍惚ト震エル臓腑ノ一滴も残さず染マル手ああ。
 
 
 
 誰かを求めるのと喰らうまでの距離がどれだけ離れているって?
 

 
 暖冬だった。三回雪が降った。流行の黒っぽいコートの波の中で、クレヨンのような色の恵美のコートが目立った。
「梅の時期になったら偕楽園(かいらくえん)行こうよ、遠いけど。蕾って可愛いよねぇ、ポチポチしてて」
「お前もしかして渋くない? 趣味」
「今更何をおっしゃいます久垣サン。アタシ囲碁だって出来るよ、おじーちゃんに教えてもらったもん。みぞれの中で赤梅見たことあるよ、もう、一句ひねろうかと思った」
 寒水仙もいいなと呟いてから恵美はくるりと一回転した。コートが翻る。
「それから桜。どこ行こうか」
「恵美んちの近く多いだろ」
「あ」
「……何だよ」
「呼び捨て初めて」
「嘘だろ」
「ホント」
 恵美が笑った。その顔を見た瞬間に、身体の中がざわめいた。
ワタシガ
「やばいかなあ、何かいい感じ」
「そんなもんか?」
シンダラ
「恋愛のキホンじゃん。久垣いきなり初日えっちの人だもんなあ。圭司って呼ばれたい?」
「どっちでも」
 
 
 ワタシガシンダラタベテクレルカ?
ああ。
 

 

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