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太陽と砂-7
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太陽と砂
突然転がり込んできた青年にラドリルは驚いた。どうやら元兵士、それもこのタルシュでは評判の悪いサザリス軍方の兵士らしいと判明したが、困惑するどころか逆に興味を覚えてしまったのは、母親の胎内にいた時に弟妹の分まで掴んで出てきてしまった好奇心の為である。
故郷で平穏に百姓として暮らしている弟妹とは違い、彼はほんの少年の頃に遠い親戚と運を頼りに都に出た。気の向くままにあちこちと流れ、いつの間にか拵えた一財産を投資して裕福な商人となった今も、自ら様々な都市に赴いて新奇な品物を見つけることを楽しみとしていた。
その点、タルシュは東西南北の夥しい品が出入りする活気溢れる街だ。ラドリルはこの街がすっかり気に入ってしまった。騎馬民族のしたたかな隊商と値を掛け合うのもなかなかいい。公路が正常に戻ったにも関わらず、彼はこの街から動きたくなかった。いっそ家族を呼び寄せてこの街に根を下ろそうかと考えていた矢先にあの奇妙な青年が飛び込んできたのである。
飛び込んできたというよりも担ぎ込まれてきたというのが正しいだろう。屋敷の門前でいきなりばったり倒れられちゃ困りますよ、とリヨは文句を言った。騎馬民族出身の屈強なこの男はラドリルがタルシュに着く前に雇った召使であり、共通語と騎馬の民の言葉を流暢に喋る。護衛士の役目もすれば几帳面に身の回りの世話もする重宝な男だ。
「イダーですか、イダルですか?」
青年が身につけていた身分証を翳して彼は首を捻った。
「街の人の名前は時々訳わからんですね」
「何か意味があるのか?」
「イダルだと鉱山を探して歩く奴のこと」
「イダーは?」
彼は何かもごもごと呟いた。もう一度聞き直して、ラドリルはそれが女が特定の時期に使う品物であるらしいと見当をつけた。
青年は三日の間意識が戻らなかった。切断された右腕から出血し、ひどい高熱を発していたのである。負傷した時に治療を受けたきりらしく包帯は汚れ、傷は擦れていた。
四日目の朝、彼が寝台の上に起き上がっているのを見た時、リヨは手にしていた盆と拭布を床に取り落としかけた。
「昨日の晩にあの藪医者は何と言いましたっけ、旦那様! 馬の逆子のお産を手伝うような顔で、確かもう保たないとか何とか」
「馬のお産ってのは何だよ」
「逆子ってのは難しいんですよ」
ラドリルが青年にあてがった部屋に入ってゆくと、幾つもの枕を背に入れられた青年は無表情に粥を口に運んでいた。商人の姿を目にして動作を止めかけた彼をラドリルは手真似で制した。
「驚いたな、昨日まで時々息もなくなってたのに、平気な顔して食べてら。駱駝みたいに頑丈な奴ですね」
ラドリルは腰掛に座った。青年はひどく憔悴し痩せ細っていたが、双眸は静かだった。彼はゆっくりと時間をかけて粥を食べていた。
「私はこの家の主人でラドリルだ。君は?」
青年はちらりと視線を向けた。柘榴石のような目だ。
「……イダル」
「良かったあ」
リヨが安堵の吐息を洩らした。青年は訝しそうに彼を見やったが、無口な性質なのか尋ねようとはしなかった。
「まだ話すのは疲れるだろう、明日ゆっくり話を聞きたいね。話したくないことは話さなくてもいいが」
ラドリルが立ち上がるのを見て青年は匙から手を離した。鉈を叩きつけるような不器用さで彼は告げた。
「デニフィが死んだ」
商人は微笑を消して彼を見つめた。イダルはじっと見返したまま言った。
「あんたの義兄は戦死した。それだけ伝えに来た」
ラドリルは暫く沈黙していたが、微かに頭を振った。
「明日、聞かせてくれ」
イダルはその約束を守った。彼は清潔な敷布にくるまれ、リヨの手で包帯を替えられてからぽつぽつと話した。
ラドリルはほとんど言葉を挟まずに聞いていた。話の中でイダルが一度も用いなかったあの有名な呼称とこの寡黙な青年を結びつけるのは難しくはなかった……シュラクシェイトの容貌は異彩を放っている。だが強靱な身体や使い慣れた剣を見た後も、イダルは血に飢えた練磨の戦士には見えなかった。ラドリルの目の前にいるのは若すぎるほどに若い、疲れ果てた男だった。
「伝えてくれてありがとう」
ラドリルは言った。
「デニフィも君に看取られて幸福だっただろう。あの男と私は幼馴染みだった。今でも私は彼の二番目の親友だったと思っている。君の次にね」
イダルは商人を眺めた。あの金髪の男よりもやや年上の、それでもまだ二十六、七歳の男だった。表情が素直に表れる感じの良い茶色の目が印象的だ。浅黒く日焼けしているその顔のどこかに、デニフィに似たところがあった。
「連絡が絶えてから、何となく覚悟はしていたんだ」
何度か日用品や嗜好品を調達させられていたからね、と彼は微笑すら浮かべて付け足した。
「……酒を奢られたことがある。カラドの」
「ああ、あれは無事に届いたか。瓶は壊れやすいんだ、きちんと梱包しないと。中身が煙草の箱だろうと太緑草だろうと構わず乱暴に投げるし」
ふと二人は顔を上げた。窓の外に葉を広げている植物に雨が当たる音が聞こえ始めたのだ。彼らは暫くその静かな音を聞いた。雨は女の指先のように優しく静かだった。
「臆病な奴だった」
不意にラドリルが言った。イダルが目だけを動かして彼を見やると、商人は半ば目を閉じて続けた。
「誰からも嫌われたがらなかった。ほんの子供の頃からね、そうして友達を二人なくしてしまった。どちらにも味方したからだ。彼が村を出たと聞いた時は驚いたけれど、何となくわかるような気がしたよ」
「……そういえばそんなところがあった」
「馬鹿な奴だなあ」
ラドリルは小さく笑った。
暫くしてから彼はもう一度、馬鹿な奴だなあ、と繰り返した。
× × ×
「ディルモアのせいなんだろ。あいつが何を言ったのか知らないけど、エニドがどっかに行くことないだろ」
ロットは俯いたまま言った。赤く染まった小さな鼻の頭を見下ろして少女は首を振った。
「行かなくちゃ駄目なの」
「アリナはエニドが歌ってくれないと寝つかないよ、ファアラだって……」
彼は唇を歪めた。自分の言葉では彼女を説得できないことはわかりきっている。多分ディズも止めたのだ、彼に出来ないことが自分に出来る筈がない。
「エニドがリューバエニドだから?」
彼は苦労してその名前を発音しようとした。あの魔法使いのように滑らかに発音することが出来たら彼女を止められるような気がしたのだ……魔法の名前だからって怖くないや、エニドのことだから。けれどその音は舌の上で蜜玉のように脆く壊れてしまった。
「あたしがこの街にいてはいけないということじゃないのよ、ロット。あたしのことが必要な人がいるの」
「あんたの好きな人?」
「わからないわ」
素直に少女は答えた。
「でも友達なの」
「俺だってエニドの友達なのに」
「あたしはイダルにとても酷いことをしてしまったのよ」
ロットはかぶりを振った。彼女がそんなことをする筈がないのだ。
「シュラクシェイトって、あたしそんな意味で言ったんじゃなかったの。夜空の燭と歌われた星なのに……本当に胸が痛くなるくらい綺麗な星なのに」
リューヴァエニドは悲しげに微笑み、眠っているアリナの小さな手に髪から解いた飾り紐を握らせた。
「ディズも一緒に行くの?」
「ディズはどこにでもいるわ。もしロットが彼の歌を聞きたければいつものように来てくれるわ。友達だもの」
少女の編み髪がゆっくりと解けていくのを彼は見た。戸口から差し込む太陽の光が彼女の髪を硝子のように透き通らせた。
エニドは彼の頬を撫でた。
「あたしはこの街にたくさんの友達がいるのね」
低く囁いて、彼女はにっこりと微笑んだ。その菫色の双眸をロットは食い入るように見上げた。人生の何分の一も過ぎぬうちに、おそらく生涯で最も美しいものを見てしまったのだと彼は思った。この瞬間を忘れることがあるだろうか?
「俺、きっと魔法使いになる」
彼は言った。
「そうしたら魔法の歌を教えてくれる?」
「勿論よ」
嬉しそうに言ってから少女は彼女らしく付け足した。
「でも歌はどんな歌でも全部魔法なのよ」
× × ×
イダルは自分の手をゆっくりと握ってみた。切り落とされた右手の存在感はまだ残っていたが、傷口がむず痒さを伴った軋みを上げる度に我に返った。
右腕の重さ以上のものを失ったかのように身体が軽い。あの時自分は全ての力を放出したのだ。あの少女に与えられたもの全ては戦場の砂と化した。エシュマールが自分を見逃したのも、もう何の力もないとわかっていたからだろう。でなければ殺していた筈だ。
……身体が軽い。
タルシュでは金さえあれば《塔》のお偉方のかつらだって手に入る、と豪語したリヨの言葉通り、ラドリルがどこからか連れてきた治療師は軍の本陣付の医師にも劣らない腕を持っていた。今では傷口は新しい皮膚を被った切株のように見え、肉も盛り上がってきた。
親切な商人は半ば強制的に彼を引き留めた。義兄の死を伝えてくれる為に死にかけの身体で何日もタルシュをさまよった奴を放り出すわけにはいかないよ、とラドリルはにやりと笑って言った。市場で売られている一番安い小馬だって君より肥っているよ!
「旦那様は犬でも駱駝でも拾ってきて肥らせるのがお好きだからなあ」
リヨがまめまめしく掃除しながら言った。日に何度でも箒を手にするくせに、この男の掃除の仕方は荒っぽい。だから金盥や銅の皿を使うのさ、陶器は壊れるからねとラドリルは大真面目な顔で言った。だがそう言う主人もそそっかしく、イダルは彼が身動きする度に何か床に落とすのを見ている。
「まあ犬とかは肥らせてきれいにして売るけどな、あれで旦那様は商売がお上手なんだ。すぐ騙されそうな顔をしてるけど、あれで賭も酒も喧嘩も強い」
イダルの沈黙を誤解したらしく、リヨは窓縁から落とした植木鉢の欠片を窓から放り捨てながら慌てて補足した。
「お前さんは売らないよ」
「高いぜ、多分」
セレグレーン軍はどれほどの値をつけるだろうか。しかし皮肉が通じなかったのか、カラドの男は一掬いの土と小さな蕾のついた草をつまみあげて首を捻った。
「片腕ないんじゃ安く叩かれるに決まってるさ、お前さんだって三本脚の山羊を買うかい? いい乳をたくさん出すならまだしも。魔法使いだって片腕がなきゃ商売にならねえって言うじゃないか」
「片目は?」
リヨは草の貧弱な根の回りに黒い土を押しつけ、周囲を見回して小さな真鍮の灰器を見つけるとそれにいけて水差しから水を注いでやった。
「さあ。矢を射るにも片目だと最初は不便らしいな。でも俺の叔父は片っぽの目を大鹿に突かれちまったけど、四十七の今も達者に弓引いてるよ。こう馬を早駆けしたまま」
彼は小気味よく腰を回して矢を射る真似をしてみせた。
「魔法使いも似たようなもんじゃないかね」
彼は灰器を元通りに窓縁に置いた。そこは傾斜しているから落ちやすいのだ。イダルはやはり墜落しかけたそれを無表情に受けとめ、親指の腹で底にへこみをつけて据え直した。
「でも腕がないと弓は引けないな」
思い出したようにリヨが言った。
「別に……俺は弓は使わない」
「剣だって利き腕がないと困るだろ」
「元々どっちも使えた」
「そりゃ幸いだわ」
イダルは寝台の横に立てかけてある剣を見やった。暫く手入れをしていない。リヨは磨き革なども揃えておいてくれていた。
彼は姿勢を変えて寝台の上に座り直し、歯で柄に巻いた紐の端をくわえて剣を抜いた。あの森林から戻って以来、使わなかった剣だ。手入れは怠っていなかった為にほとんど曇りはない。ところどころ欠けている刃の記憶は、自分の身体に残っている傷跡よりも鮮明に憶えている。
剣を磨き始めた青年をリヨが興味深そうに眺めた。多少苦労しているが、イダルは意外なほど器用だった。腕を失った肉体の扱い方がわかってきたらしい。
青年は黙々と剣を磨いた。リヨは床の上の土を掃き集め、窓の外に捨ててからなるべく静かに立ち去った。
× × ×
戦地の状況は驚くほど早くこの街に伝わるらしい。リヨと共に久々に街に出たイダルは商人達の情報の速さに驚いた。兵站部と繋がりがあるのだから当然なのかもしれないが、家畜を売りに来た十歳前後の小僧さえエーリクの動きをサザリス軍の一般兵士よりも正確に知っていた。
「前の方で生意気なうらなり共がめいめい勝手に指揮を取るだろ、叩き上げの古株とぶつかるだろ、国王が幾ら目を光らせても交信兵がただでさえ足りねえから行き渡らないだろ……理屈ばっかりの小利口な戦なんてするもんじゃないね」
かつて傭兵だったという初老の男は無花果の籠を脚の間に置き、両手の指をひらひらと踊らせながらそう説明した。
「でも一番大きいのはやっぱり魔法兵の差だろ。セレグレーンは《塔》のあるベルヴィラを抱えてるからなあ」
「《塔》は中立じゃなかったのか」
果物売りは子供を諭すようにイダルを見やった。
「都をぶんどったってことは都にある《塔》も手に入れたってことだろ。籠を買って、中に葡萄が入っていたらあんたも食うだろ? 《塔》は口じゃきれいなことを言ってるが、交信兵ってのは結局《塔》の養成機関で育つんだし、紅兵だって基礎はそうだし、今は何てったかな、新しい魔法を開発したらしいぜ。発射までが速いんだ、接近戦だって白兵に勝っちまう。おお怖」
大して怖がってもいなさそうに彼は身震いしてみせた。
リヨが桶屋や金物屋を回っている間、イダルは市場に面した茶屋で待つことにした。こうして歩いてみるまであまり感じなかったが、体力がひどく衰えていることがわかったのだ。
「あんまり平気ですたすた歩いてるから俺は正直言って疑ってたよ」
リヨは茶屋の主に声をかけてからそう言った。
「何を」
「お前さんの心臓は馬の胃袋で作ったふいごで出来てるんじゃないかってね」
リヨの表現はイダルには理解できなかったが、つまり俺も人並だということがわかって安心したということだろう、と彼は適当に推測した。
茶には生姜や肉桂が入っているらしく、一口飲んでからイダルは顔を顰めた。だがその奇妙な後味はやや経ってから爽快感へと変わり、タルシュの暑い日差しを和らげるかのようだった。
リヨに被せられた白い日除け布の下で彼はちびちびと茶を啜り、茶屋の柱にもたれて目の前を行き交う人々を観察した。
兵士シュラクはそんな風にぼんやりと過ごす時間を持たなかった。今の自分をエシュマールが目撃したら何と評するだろう。これはこれはシュラクシェイト、貴殿は戦場以外では全く無能な方ですな……イダルは微かに笑った。全くその通りだ。騎馬民族の商人や老人の間に座って死体のようにぽかんとしている。
手垢や脂にまみれた黒っぽい柱はひんやりと心地よく、手の中の珍妙な液体は薬のような味がする。
ここから馬で半月も隔てていない辺りでは自分がこうしている間にも兵士が倒れてゆき、あのおとなしい死体の群れや光る大地が出来上がっていく。あの女兵士は今も薄笑いを浮かべて戦っているだろう。優男のあの魔法使いも、目玉を一つなくしたくらいで隠居する男には見えなかった。エシュマール、賭けとけば良かったぜ。俺はお前からしこたま巻き上げただろう。
「隊長殿だとよ」
不意に低い声が雑音の中から切り取られたように明確に聞こえた。
彼は視線を向けた。酒と夢煙草ときつい腋臭の入り混じった臭いが、太陽の下で乾きつつも僅かに鼻についた。
不意にイダルは目眩のような幻視に襲われた。自分の裸足の爪先が紫色に化し、爪だけが黄色く貼りつけたように見える。目の前を小犬のように走ってゆく土埃、皮膚は痺れて感覚がない。寒さ……照りつける白い太陽、しかしその光が暖かかったことは一度だってなかった。
すえた臭いが鼻孔に飛び込んできてイダルは半瞬の白昼夢から覚めた。今ここにいる自分は戦場跡に座り込んで呆然としていたあの幼い子供ではない。十三年後のイダルだ。何故そんな昔のことを思い出したのだろう?
彼は目の前に立ちはだかった男を眺めた。垢じみて元の色もわからないその上衣と洋袴は兵士のそれだった。彼はその男の名前を思い出そうと眉を寄せたが無駄だった。
男の目は夢煙草の常習によって黄色く濁り、病的に痩けた頬はどす黒い。腐敗しつつある生きた死体だなと彼は思った。嫌悪感はなかったが憐憫も沸き上がって来ない。
男の鈍く曇った鞘が卓の端に触れて機嫌悪く鳴った。
「生きたあんたにお目にかかれるとは思わなかったぜ、シュラクシェイト。このタルシュでなあ」
男は薄く笑い、むさくるしく伸びた髭を撫でた。双眸が脂じみた光を放つ。憎悪と侮蔑の間を畏怖が漂っているのをイダルは見た。その他人のような視線に男は唾を吐いた。
「聞いたぜ、その後の御活躍ぶりをよう、いい子ちゃん。あんたはしれっとした顔で昔から世渡りが上手かった。今みたいにそんな顔でな。あれだけ殺しといて勲章ものだっていうのなら俺だって大将軍様だ、それとも別のうまい手でも使ったのか? へ、冗談さ」
夢煙草に頭が冒されているらしく、彼は微かに左右に揺れながらぬっと顔を近づけた。異様なほど生暖かい息がイダルに触れた。
「あんたは俺達を囮にしたんだ」
不鮮明な虹彩の縁が緑色に染まっていた。腐った卵のようだ。男はしかしイダルの表情を読み取ろうと様子を窺いながら喋っていた。どこまで元上官を怒らせずに挑発できるかどうか計算している目であった。
恐怖。男の態度には隠しきれない恐怖が残っている。あの森林の暗がりに光っていた幾つもの白い目、彼と視線をあわせようとしなかった部下達の目。彼の手にかけさせるよりはと仲間の頚動脈を断った男達。
「そのあんたが……」
彼は口を歪めた。洩れたのは痙攣に似た哄笑だった。異常に昂ぶった笑い声に茶屋の前にいた人々までもが脚を止めて彼らを見た。
「何でこんなところにいるんだ、血の勲章の隊長殿! 懐かしい部下を捜しにかい? それとも優雅に休暇でも? まさか英雄ごっこに疲れて逃げ出して来たんじゃないだろうな、シュラクシェイト!」
男が吠えてイダルの椅子を蹴った。周囲から声が上がる。椅子の脚が折れ、青年は柱の側にひっそりと立ち上がった。
「まだだ、まだ駄目だ、あんたはみぃんな殺したんだぜ! あんたは最後まであの国王の下で戦場を駆けずり回ってなきゃなんねえんだよ、誰があんたに休む時間なんてくれたんだ、あんたその為に飾り立てられていいもん食って女抱いてたんだろ? あの森であんたが俺達に何をしてくれた、俺達がセレグレーン軍に追いかけ回されてた時あんたは何してた!」
彼はイダルの胸倉を掴み上げた。相手の無表情と自分の罵声に挑発され、彼はイダルの顔に唾を吐きかけた。その瞬間に彼はイダルの右腕に気づいた。
彼は瞠目し、呻いた。
「腕をどうした」
「斬られた」
初めてイダルが口を開いた。男は彼を突き飛ばし、青年の身体は柱に打ち付けられた。癒えて間もない腕に痛みが走り、彼は顔を歪めた。
「魔法をなくしたのか」
男がぽつりと呟いた。しんと冷えた目だ。
「もう何も出来ないのか? シュラクシェイト」
イダルは右肩を痣になるほど押さえつけながら男を見やった。
「ああ」
答えを聞くなり男が唸り声を上げて掴みかかってくる。イダルは身を引いた。男の左手が柱を打ち、彼は痰を吐き捨てると共に罵った。
簾が翻り、腰掛が大きな音を立てて転げる。悲鳴が上がった。ごみごみとした狭い茶屋の中では思うように動きが取れず、イダルは襲いかかってきた男の向こう脛を蹴り上げた拍子に肩を掴まれた。激痛が走り、彼は苦悶の息を洩らした。
男が意味のわからぬ罵声を上げた。相手の衰弱ぶりを察して彼は女の裸身を眺めるかのように舌舐めずりし、喉の奥で笑った。
「涙が出るほど懐かしいぜ、隊長殿よう。可愛い部下との感動の再会に、抱擁の一つや二つしてくれてもいいんじゃねえか、シュラクシェイト!」
悪臭を放つ兵士服に抱きしめられた瞬間、彼は男の腹を膝で蹴り上げた。前のめりになった男の顎を更に膝打ちし、首筋に手刀を叩き込む。だが気絶しきらなかった男が青年の上衣を掴み、襟を交差させて締めつけた。地面に倒れたイダルを男の重みが押し潰しかける。
「死んじまえ……死ねよ、黒犬野郎」
男が呻いた。
「生きてていいわけないよ、なあ、皆殺しといて……あんな誰もいねえ森ん中で死んだんだぜ、デニも、俺が手にかけたロドも、死にたくねえ奴ばっかり死んだんだぞ。あんたも俺も死ななくちゃなんねえんだよ」
左手が完全に男の身体の下敷きになっている。視界が赤黒く濁り、頚動脈が脳を打ち付けるかのように響いている。
止めに入ったらしい誰かを男が張り飛ばした。締め上げられていた喉が開放され、強烈な反動がイダルを襲う。彼は左手に力を込めた。肘に突き通るような痛みが走り、僅かに男の身体が動いた。
男が充血した目をイダルに戻す。漸く自由になった左手で男の二の腕を掴もうとしたが、反射的に男は彼の手を振り払った。転がっていた腰掛に手を打ちつけ、イダルは顔を顰めた。
不意に男の表情が変化した。
胸の上の重みが消え、イダルは次に来るだろう衝撃を覚悟して息を止めた。だが男はそのまま彼から飛び退き、後ろの卓に腰を打ちつけた。無様に転がった男に誰かが笑ったが、男はそれに気づかないようだった。
イダルは身を起こし、男の驚愕した表情を見て呆気に取られた。男はもはや戦意を失い、傾きかけた卓にすがって起き上がろうとしていた。
何を見たのか。
男は何か呻き、茶屋の外へよたよたと駆け出していった。人垣が笑い、歓声を上げた。茶屋の簾の隙間から中を見ようとしている者も何人かいた。
イダルは落ちていた日除け布を拾い上げ、軽く払った。視線の先に彼はそれを発見した。
砂、を。
彼はそれを見下ろした。日除け布を右肩に引っかけ、一掴み掬い上げてみる。それは見慣れたあの白い砂だった。多分腰掛だったのだろう、剥き出しの黒い土の上にこんもりと盛られたように積もっていた。
指の間から砂が落ちていく。
彼は茶屋の表に出た。あの男は影も形も見えなかった。既に散り始めていた観客の中にはイダルを見送る者もいた。店の主人はどこに行ったのか見当たらなかった。
イダルは日除け布を被り直し、早足に歩き出した。何度か誰かにぶつかったが、彼はそれに気づかなかった。
その脚で僅かな荷物をまとめ、タルシュを出た。隣町への乗り合い馬車を待つことも出来なかった。
古い剣をぶら下げて歩く背に夕日が貼りついた。すれ違った見知らぬ誰かの視線かもしれなかった。
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