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太陽と砂-2
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太陽と砂
第二章
サラフィア・ソージュが小さな人だかりを見つけたのは後方基地から戻る途中だった。仮兵舎の前の、日当たりの良い場所である。大儀そうに道端に寝そべっていた兵士の一人が彼女を見つけ、ゆっくりと脚をもたげて、ぐるりと何かを取り囲んでいる男達の脚を突く。兵士らの輪が自然に解けた。興味を失ったような顔つきで何人かの兵士が散っていき、二人の兵士と座り込んでいる小さな人影だけがぽつんと残った。
人影の隣に腰掛けて宥めるように何か話しかけていた兵士が顔を上げ、恐縮したような表情で頷く。まだ少年と呼んでもいいほどの若い部下だった。人影がその視線を辿って彼女を見上げた。年頃の娘、それもおよそ場違いな純白の衣装をまとい髪の毛を長く垂らした娘だ。清楚な美しさにサラフィアは微かな痛みを覚えた。
「どうかしたの」
何故自分の声はこうもぶっきらぼうに聞こえるのだろうと思いながら彼女は声をかけた。
「迷子です、中隊長殿」
若い兵士の双眸は素直だった。軽々と大刀を振り回す力強い腕を持った女戦士、厳しい顔の中年女が彼の目の中にいた。目の下の皴、荒れた肌に痘痕のように残った細かい傷まで。彼女は視線を移した。
「迷子?」
「違うのよ、あたし弾き飛ばされたんだもの。ディズがそう言っていたわ。でもディズはたくさん人がいるところが好きじゃないから、どこかに行っちゃったのよ」
高いが聞き心地の良い声で少女は言った。屈託のない口調は明晰で、野の花のように単純なくせに卑屈さや臆病心は微塵もない。
「ディズというのがあんたの保護者?」
「保護者というのかしら」
彼女は考え深げに首を傾げた。
「物心ついた時には傍にいたわ。綺麗なものを見せてくれたり、何か歌ってくれたり。でも意地悪なのよ、皆が集まってきたらあたしを放ったまま一人でいなくなっちゃった。もう当分口を利いてやらないんだから!」
この重々しい宣言にも眉一つ動かさず、サラフィアは少女の隣の兵士に目を向けた。兵士は茶色の瞳を面白そうに動かしただけだ。
「一人で帰れるね? お嬢ちゃん」
「あたしはちっちゃな女の子じゃないわ、リューヴァエニドというのよ」少女は憤然と答えた。「でもあたしをそう呼んじゃ駄目なの。だからエニドとかリューとか呼んで頂戴」
「リュー、ここは明日にも危なくなるよ。早くお家に帰りな」
年上の女のそっけない口調に少女は不安げな表情を見せた。
「ごめんなさい、あたし何か悪いことを言ったかしら。……でも一つ聞いていい?」
「何?」
「ところって、どこのこと?」
隣の兵士が音を立てて吹き出し、上官の一瞥に首をすくめて代わりに答えた。
「家だよ家、あんたの住んでいるところ。夜どこで寝てるんだ?」
「あたし眠ったことはないわ。木蔭とかで一休みしたことはあるけど、夢を見たことはないの」
残念そうに彼女は答え、周囲の人々の表情を見回して顔を曇らせる。
「夢ってとても綺麗で素晴らしいものなんでしょう? でもディズもそれは見せてくれたことはないわ。でも目を閉じていてどうして見ることが出来るのかしら」
サラフィアは唇の端から息を吐き出し、咎めるような口調で呼んだ。
「アルフォトラン!」
リューヴァエニドの隣に腰掛けていた若い兵士は機敏に立ち上がり、敬礼した。
「はい、中隊長殿」
「お前は非番だったな、その子を任せたよ」
「了解しました、中隊長殿」
サラフィアは指揮本部の陣幕へと戻っていく。足早に立ち去っていく女戦士を見送りながら少女は悲しげに彼を見上げた。
「あたし嫌われちゃったのかしら」
若い兵士はけろりとした顔で笑った。
「サラ隊長はいつもあんな感じだよ。本当にあんたが嫌いなら、俺に任せたりせずにうっちゃっておくさ」
「そうね。良かった」
彼女は微笑み返して別の問いを発した。
「女の人も兵士になれるのね」
「あの人くらい強けりゃね。さあ、あんたがここに座っていると野郎共は仕事になんないぜ。暗くならないうちに帰ろう」
促されて、彼女は嬉しそうに立ち上がった。どこに帰るのだろうか。多分この面白そうな顔をした青年がどこかに連れていってくれるのだろう。愉快げな鼻に大きくて表情豊かな口、ぴんと立った前髪の一房! 少女は楽しくなり、彼に似合う軽快な歌を記憶の中から選ぼうとしてふと気づいた。
そういえばこの人達は兵士だ。すると兵士もごく普通の人間なのだ。それとも、花畑を踏み荒らしてしまうと兵士という奇妙なものに豹変してしまうのだろうか?
この人はそうならないといいけれど、と彼女は考えた。
「貴方はお花は好き? アルフォトラン」
青年は丸顔に笑みを広げた。彼女の質問が気に入ったらしい。彼はしきりに鼻の頭をこすった。
「そうだな、うちの庭にあった木にでっかくて白い花がよく咲いていたけど、あれは好きだったよ。あんたの家の庭はでかいんだろ?」
「どこまで庭と言うのかしら」
彼女は生真面目な顔で考え込んだ。
「お城の回りのことよね?」
彼はほんの少し眉を上げて頷いた。
「あたしあんな寂しいところは好きじゃないのよ、誰もいないし石壁だって崩れているし。ディズは見渡す限りお花を咲かせてくれたり泉を造ってくれたりしたけど、すぐ消しちゃったの。お城を昔通りに直してみせても出ていく時は元に戻しちゃうのよ」
アルフォトランは声を立てずに呻いた。
どうやら厄介な娘を拾ってしまったらしい……連れはどうやら流浪の魔法使いらしいが、何故彼女をこんなところに置き去りにしたのだろう?
だが彼女は見たこともないほど綺麗で愛らしい。御伽話の中のお姫様と評しても少しもおかしくない。待てよ、もしかすると旅芸人の一座だろうか? 綺麗で少し頭の足りない娘役、多分そうだろう。町に行けば一座の人々が彼女を探しているに違いない。
彼は少女の額を優しく叩いた。どこか不安そうに彼を見つめていた少女の視線とぶつかると、彼女は微笑んだ。
可哀想に。まるで親鳥について歩く雛みたいだ。一生懸命喋りながら、さぞ心細かったのだろう。
「行こう」
彼の言葉に彼女はおとなしく頷いた。
可哀想に、と彼は胸中で呟いた。その美しさを考えると胸が痛んだ。
× × ×
「ようデニ。お前の相棒、とうとういかれちまったのか?」
通りすがりの兵士の挨拶を片手を上げて躱し、デニフィは汚い天幕の中に入った。
傷病兵のむっとするような体臭と膿や血の臭いと消毒液の臭いが混じり合っている。地面にじかに敷きつめられた敷布の上に十数人の人影が横たわっており、奥の壁布は乱暴に掲げられて、更に別の天幕へと続いている。衛生兵が一人、病人の顔を覗いたり腕を抓ったりしながら身体の間を器用に歩き回っている。
入り口のすぐ脇に上半身を剥き出しにした女兵士が座っており、デニフィは一瞬ぎょっとした。炎系の魔法を直接浴びたのだろう、胸から喉にかけて赤く爛れている。彼女はけろりとした顔で縮れた皮膚の端を剥がしていたが、左の乳房があった辺りにはけばけばしい緑の消毒薬がべったりと塗られ、黄色い脂が流れていた。ここは軽傷者用の筈だが、手違いがあったのか、それとも重症者用の天幕が足りないのか。デニフィは急いで目をそらし、平静な表情で尋ねた。
「シュラクはここにいるか? 一昨日の朝、来た筈なんだが」
彼女は怪訝そうにデニフィを見上げた。どうやら聞こえていないらしい。その頬を優しく叩いてちらりと微笑みかけた瞬間、彼は彼女の後ろに長々と横たわっているシュラクを見つけた。
彼はぽかりと目を開いたまま天井を見上げていた。
「イダル」
声をかけても青年は動かない。デニフィは恐る恐る隣の怪我人との間をぬって彼の傍らに座った。シュラクが瞬きしたのを見て安堵し、もう一度声をかける。
「何があったんだ?」
見たところ怪我はない。
突然戦えなくなった兵士をデニフィは何人か見たことがある。踊り狂ったり叫んだりする者ばかりが狂人ではない。ただ虚ろな目で座り込み、食事や排便以外は何もしようとしなくなる……歯を折られるほど上官に殴られても無駄だった。何人かはついに食事も受けつけなくなって死んだ。
俺は時々自分の中をじっと覗き込むのさ、と狂う前の一老兵が言っていた。そうするとそこから目が離れにくくなっていく。そうとわかっていても、つい覗き込んじまうんだ。
何を見たのだろうか、あの男は。
「……」
横たわっている男が何か呟いた。デニフィは顔を近づけた。
「どうした?」
「砂だ」
「砂?」
シュラクは低く唸った。恐ろしい獣の咆哮に似たそれは笑い声だった。
「おい、イダル!」
笑いをおさめた男は低く囁いた。
「俺はこれっぽっちも狂ってないぜ、デニフィ」
「ああ……」
金髪の青年は彼の顔をつくづくと眺めた。
「勿論だ」
シュラクの目は全くの正常に見えた。薄暗い天幕の中でそれは黒曜石のように見えた。常のあの欝屈とした霧が晴れている。当惑し、デニフィは身を起こしてもう一度彼を観察し直した。
「怪我もなさそうだし、じゃあ何故ここにいるんだ?」
「たっぷり眠る必要があったからさ。皆が訓練やら残濠掘りやらしているのを聞きながらの昼寝ってのは、いい」
ちらりと歯を見せてシュラクは笑い、むっくりと起き上がった。その右手が懐に押し込まれていることにデニフィは気づいた。
「どうかしたのか?」
彼の視線に気づいてシュラクは無表情に戻り、じろじろと彼を見返した。白目が陶器のように光っている。口を結ぶと彼の端正な顔は何を考えているのかさっぱり読み取れなかった。
「どうかしたさ」
低く答えてシュラクは立ち上がり、天幕を出ていった。ぽかんとそれを見送りかけてデニフィは後を追った。
天幕の中を飛び回っていた蠅の一匹が彼の横たわっていた窪みに降りた。
太陽が墜ちてきたのだと思った。
彼女の両手が自分の右手を包んだ瞬間、自分は灼き尽くされた。彼女は溶けた鉄のように骨の髄に滑り込み、浸食した。絶叫しかけた時には眼球の裏に白熱した光が満ち、優しい手のように口を塞いだ。少しもぎこちなさのない優美な動きで、しかし如何なる魔法使いの魔法よりも早く少女は征服を終えた。
身体は大地よりも静かに白熱していた。黒い肌の内側に煮えた鉄が満ちているのを感じた。
自分以外は誰も気づかないらしい……奇妙なことに。俺は変わったのに。デニフィ、幾ら眺めたって何もわかりはしないぜ。ただ触ってみればいい、お前の指は瞬く間に溶け落ちてしまうだろう。
燃え上がる骨。後に残るのは白い灰、一つまみの燃えかすだけだ。あの死体と同じように静かできれいな白い砂だけだ。
あの娘は何て言ったんだったか。
交信基地の小さな魔法陣の上に忽然と現れた交信兵が、転げるように王の陣幕へと駆け込んでいくのが見えた。移動や通信系の魔法だけを専門として育成された魔法使いだ。敵陣に動きがあったのだろう。
「さっさと戻った方がいいな」
肩を並べて歩いていた金髪の友人が呟いた。シュラクは無言で足を早め、デニフィは微かに途惑いの色を浮かべた。まるで俺が見えていないような歩きぶりだ、と彼はふと感じた。何か彼の気に障ったことがあったのだろうか? シュラクはこのような形で苛立ちを彼にぶつけたことが何度かあったが、八つ当たりされながらもデニフィはそれを寛容に受けとめていた。シュラクが素顔の片鱗を見せるのは自分に対してだけだと知っていたからである。
だが、今日のシュラクはどこか常と違う。
呼びかけようとした時に銅鑼が狂ったように鳴り響いた。第一鼓、整列の指示だ。
臨戦態勢が整うまでには交信兵のもたらした知らせが知れ渡っていた。セレグレーン軍の援軍が到着したのだ、敵の最強紅兵師団である《黒雷卿》ジュレイの直属軍が。
× × ×
「久しぶりなのに、そりゃつれなさすぎるんじゃないかなあ」
彼はぼやいてサラフィアの赤茶けた頭髪にぽんと手を置いた。魔法使いらしく華奢な、一刀でたやすく両断できそうな身体だ。黒い飾り気のない上衣に包まれたその胸を無愛想に拳の裏で叩き返して、女戦士はジュレイ・マイトールの端正な顔を見やった。
都の婦人さえ嫉妬しかねないほど艶やかな黒髪が、またのびたようだ。魔法の使用頻度と肉体の代謝機能には何か関係があるのだろうか。魔力が体内に蓄積することによって老化が遅れることは事実だが……彼は二十代に入ったばかりの青年のように見えた。二人が知り合った頃からほとんど変わっていない。当時彼女は幾つか年上だった。
「その甘えた口調はどうにかならないの」
彼は目を軽く瞠ってみせた。そのおどけた性格とは裏腹に表情の乏しい男だが、サラフィアはそれをいつも正確に読み取ることが出来た。
「大丈夫、皆の前では真面目にやってるから」
「どうだか」
「それより再会の抱擁とかない?」
「背骨折られたい?」
「……最愛の妻の腕の中で息絶えるってのは理想的な最期だけど、それに至る経過を考えるとなあ」
「妻になった憶えはないよ。ほら、さっさと来な」
ジュレイは笑みがこぼれかける口元を慌てて押さえて彼女の後に随った。サラフィアにしては最上級の歓迎なのだ。今日は何かいいことでもあったのだろうか、と彼は楽しく空想したが、幕舎に集まり畏まった部下達の前に現れた時は既に常の《黒雷卿》に戻っていた。
彼は切れ長の目で彼らをに見回した。色白で優しげな顔立ちのくせに、細剣の先のような鋭さがどこかにあった。
「《星が墜ちるところ》とは幸先のいい名前だ。明日の夜の花火は後々の語り草になるぞ」
常と変わらぬ陽気な口調で呟き、彼は目を細めた。
如何なる戦の前でも決して緊張することのない男だと彼は評されていた。ある者達は違った意見を持っていた……黒雷卿は内縁の妻よりも手強い敵に会ったことがないのだ、と。この名高い魔法使いが揶揄の対象となるのはその一点においてだけだった。
簡単な指示を出してさっさと大隊長らを解散させ、ジュレイはサラフィアの顔を覗き込んだ。左頬に大きな傷跡のある女戦士の頬を両手で挟んでにこりと笑う。
「どうした? サラ」
彼女が軽く手首を叩くと、彼は掌を離した。昔からこの女は触れられることがあまり好きではなかった。
曾てのサラフィア・ソージュは凛とした面持ちの少女だった。頭頂で結った豊かな赤茶色の髪を背に波打たせた彼女を多くの視線が追ったものだ。固く結ばれたやや厚めの唇は滅多にほころぶことはなかったが、男を寄せつけまいとするその肩の線の硬さに、ジュレイは彼女が語ろうとしない幾つもの言葉を読み取った。
やや盛りをすぎた今、柔らかだった頬の線は厳しく引きしまり、鍛練を欠かさない身体からは少しずつ丸みが失われつつある。二十年間、戦場の日差しに晒され続けてきた腕は曾て柔弱だった時代があったことを忘れたかのように逞しい。
少女時代のほんの一時期を除けば、彼女は決して美しいとも女として魅力的だとも言えなかった。だがほんの束の間だけ彼女が見せる優しい穏やかな表情を……少女時代の彼女が手にしなかった安らぎの顔を、彼は黙って眺めた。
彼女は床几に腰を下ろした。
「近頃のエーリクの戦はつまらないね。たいした手応えはないし、まあ向こうの紅兵が少ないからいいけど」
「ついでに白兵もいない方が俺はいいな」
「戦になんないじゃないか」
「なんなくていい。戦ったって死んだって誰も喜ばない」
サラフィアは鼻を鳴らした。
「あたし達が攻撃しなきゃ向こうから突っかかってくるんだ、厭ならあの戦好きの爺さんにくたばってもらいな」
「悪運強いんだよなあ、あの男は……」
「運のせいなんかにするんじゃない。ジェマインもどうかしてるよ、サザフベイルスで追いつめた時、周囲の奴らの意見なんて聞いてないでさっさと殺しておけば良かったんだ。おかげで仕事を失わずに済んだけどね」
ジュレイは苦笑した。太縄を苦もなく断ってゆくような彼女の声が心地よかった。
サラフィアはじろりと彼を睨んだ。
「へらへらしてないで。さっきみたいな馬鹿なことを他の奴らの前で言うんじゃないよ」
「サラも、ジェマインじゃなくて国王って呼ぶんだよ、他の奴らの前ではね」
ジュレイは彼女が声を上げるよりも素早く接吻して廊下に出た。幕僚らが無表情な顔で待ち構えていた。
× × ×
可哀想に、と青年は言った。
エニド、このまま北に向かうんだよ。東には行ってはいけない……いいね。
「ディズ」
僕の名前を呼んではいけない。今の君はそれに耐えられない。君自身の名前も、人に呼ばせてはいけない。
彼の石炭のように黒い双眸が悲しげに微笑んだ。
君が僕達の愛し子であることに変わりはない。けれどエニド、君は決定的に変わってしまったんだよ。
少女は目を開けた。回想の中の明るい日差しとは異なり、視界は薄暗かった。身を起こすと寝台が軋み、彼女はその音が何であるかを突き止めようと耳をすませた。
ここは《太陽草亭》。宿泊所。彼女は声に出してみた。室内の空気は湿っぽく、嫌な臭いがしたが彼女は機嫌良く一人で笑った。裸足のまま床に降り、鎧戸の隙間に鼻を押しつけて外の匂いを嗅いでみた。時間帯によって匂いは様々に変わる。
扉が開いてアルフォトランが顔を見せた。少女がそこにいたことにほっとしたらしく、人懐こい笑みを浮かべる。
「早いけど晩飯を食べよう。靴を履いて。手伝おうか?」
「いいわ、一人で履けるもの」
柔らかなその靴の材質は彼には見当がつかなかった。足首に巻きつけた飾り紐をきちんと蝶結びにしてやって、彼は思わずその小さな爪先を突いた。
「君みたいに小さくて華奢な足をしている子は見たことがないな」
「あたしね、兵士って厭な人ばかりだと思っていたわ。兵士だけじゃないけど。でもアルフォトランはいい人ね。兵士をやめたら皆いい人になるのかしら」
青年は曖昧に笑った。
一日無断外泊だ、サラ隊長はさぞや憤激しているだろう……けれどこの子をどうしろというんだ。この町の自警団にでも委ねろと?
アルフォトランは自警団長のへつらうような笑みを思い出した。好色で有名な雑貨商人、あんな男にリューを任せられるものか。この娘ときたら全く無邪気すぎる。
彼女の身元に関する手がかりは全く掴めなかった。保護者があっさりと見つかったらつまらないなと考えた為だろうか、と彼は後ろめたくなった。
「さあ、階下に降りようか。それともここで食べたい?」
下がいいわ、と彼女は即答した。賑やかな食堂で周囲を観察するのは飽きなかったし、表通りを通る人々や馬や荷車を見ることが出来る。
彼らは連れだって食堂に向かった。昨日すっかりリューヴァエニドと仲良くなった女将がすぐに食事を出してくれた。
焼きたての黒麪麭にたっぷりと添えられた苺の蜜煮。春玉葱の煮物。薄く切った肉をぐるぐると巻き、香辛料を利かせて焼いたセアフ風羊料理。軍隊式に詰め込みながらアルフォトランは喋った。
「それで、ディズって君の何なんだっけ。兄さんとかじゃないんだろう?」
身元を調べる為だと自分自身に断っておきながらも、彼は彼女の声を聞くことを楽しんでいた。彼女の答えは風変わりで、時には全く意味のわからないこともあったが、一度しつこく尋ねると機嫌を損ねかけたので、彼は理解しているふりをすることにした。だが彼が理解しようがしまいが、彼女にとってはどちらでもいいようだった。
「お守役よ。あたしはお守が必要な子供なんかじゃないのに」
ゆっくりと麪麭をちぎりながら彼女は不意に目を輝かせた。
「苺は綺麗ね、赤って好きなの。勿論嫌いな色なんてないけど、ねえ、朱烙犀斗みたいだわ。きらきらしてて、イダルの目みたい」
「イダル?」
「まあ、知らないの? 同じ兵士だから知っていると思ったわ。おかしな人よ、あたしを見て怖がったのよ」
「そりゃあ変だ!」
力強く同意したはずみに麪麭の大きな塊が喉につかえてしまった。慌てて水を飲み干し、胃の中に落ちていく塊の行方を探りながら息を吐く。
「変な奴! 絶対変だよ」
「でももう怖がらないわよ。あたし達、友達になったんだもの」
誇らしげに彼女が微笑む。アルフォトランはむっつりと唇を尖らせた。この娘は見かけによらず多情なんだろうか? 頭が弱いからわかっていないのだ、おそらくは。
「そんな変な奴放っておきなよ。軍隊って危ない奴が多いんだよ、特に君みたいな綺麗な子は……」
「危ないって?」
「乱暴だったり酒臭かったり下品で短絡的で、つまりその」彼は言いよどんだ。「一回人を殺しちゃうともう駄目だよ。慣れちゃうんだ。だから町に出ても酔っ払って喧嘩したり、女の子を叩いたりするんだ」
「アルフォトランも殺したの?」
「僕はしないよ。交信兵だからね」
彼は自慢そうに肩をすくめた。
「本当は戦争なんて嫌いだけど、南の奴らを食い止めなきゃこっちが危ないから仕方なくやっているだけさ。兵役を終えたら《塔》で学べるかもしれないし、そうでなくてもいい仕事に就けるんだ。交信兵は地理とか色々な勉強をしているし、物騒で野蛮な攻撃魔法ばっかりの紅兵とは違うんだよ」
脱走兵と見なされかねない現在の状況を忘れて彼は説明した。彼には職務を抛つという気はかけらもなかったが、町の人々にこの少女を託そうとは考えられなかった。自分は彼女の処遇をサラフィア・ソージュから任せられたのだ、だからそれを全うする義務がある。そう彼は無意識に自己弁護した。
少女は不思議そうに彼を見つめていたが、苺を匙で掬うのをやめて尋ねた。
「アルフォトランは他の兵士が嫌いなの?」
「別に嫌いとかじゃなくて、義務だから」
「あたし人間はお互いが好きだから一緒に寄り集まっているんだと思っていたわ。そうじゃないのね」
青年はくすくすと笑った。
「誰も彼も好きな人なんていないよ! 一人の人間の中にだって好きなところと嫌いなところがあるだろう?」
「ああ、そうね。あたしディズの意地悪なところは嫌いだわ」
彼はほんの僅かに唇を歪めた。
「俺のことは?」
「アルフォトランはいい人だわ。親切だし色々お喋りしてくれるし、いろんなものを見せてくれるし」
「それだけ?」
リューヴァエニドはきょとんと彼を見、思い出したように付け足した。
「あと、お花が好きでしょ?」
彼はぎこちなく笑った。
彼は夕日に染まった町に彼女を誘い出した。古い石を敷きつめた広場は茜色に染まり、水位が下がったらしい池もまだらに揺れていた。小さな雲が幾つか影となって空に恐ろしくも美しい模様を造り出していた。
リューヴァエニドは我を忘れてそれを眺めた。身体がすくんだ。この世界にはまだ自分が見たことのない美しいものが満ちているに違いなかった。
灰色の帯が混じり、淡い紫が溶けていく。夕焼けが色褪せ、時を移さずに淡桃色から紫、そして更に深い色へと滲んだように広がっていく。平たくなりかけていた空は夜の底知れぬ深みを取り戻していく。
少女は息をついた。
「綺麗ね」
先程から何か囁いていた青年がいつのまにか押し黙っていたことに気づいた。彼は空ではなく彼女の横顔を凝視していた。日向では悪戯っぽい茶色だったその目が、夜の大気の中では藍色に見えることを彼女は発見して微笑んだ。
「ねえ、あたし軍隊とか戦争は嫌いだけれど、一つだけ好きなところはあるの。夜の戦争よ。遠くからしか見たことはないけれど、何て綺麗なのかしらって思ったわ。昼間の魔法はつまらないけれど夜なら綺麗に見えるわ」
彼は上の空で何か呟いた。
道行く人々が彼女をじろじろと眺めていく。美しい衣装を羨望の眼差しで見つめる商人の娘もいれば、わざわざ立ち止まって観察していく老人もいる。アルフォトランは得意だった。彼は少女の背に流れる淡い色の髪の一房をそっとつまんだ。
「人間のすることは全部が全部つまらないわけじゃないのね。あたし、ディズの言ったようにしなくて良かったわ」
「ねえ、リュー」
「なあに?」
「そのディズって人のことを考えるの、暫くやめてくれないかな」
少女はきょとんとして彼を見つめた。
「ディズのことが嫌いなの?」
「多分ね」
「そう、それじゃ仕方ないわね」
彼女は微笑んだ。
「ディズが好きなのは女の子ばかりだし、おあいこね……あら、お喋りしちゃったわ」
アルフォトランは陽気に笑って彼女の両肩に腕を投げかけた。鼻先が触れ合い、リューヴァエニドはくすぐったそうに小さく声を上げた。今まで彼女にこんな大胆な振るまいをした者はいなかった。
「俺、君が大好きだ」
「あたしも好きよ? アルフォトラン」
嬉しそうに答えた彼女を見て彼はその唇に軽く接吻した。彼女が抵抗しないのを見、微笑んでもう一度ついばんでみる。
「俺、君と一時でも別れるの厭になっちゃったよ」
「あら、どうして別れるなんて言うの?」
その何気ない一言に彼は有頂天になった。彼は勢い込んで説明した。
「だって俺は交信兵で、まだあと五ヶ月も契約が残っている。でもその後は君とずっと一緒にいられるよ。俺の家族も君みたいな子が来たら絶対喜ぶに決まっている」
彼は初めて酒に酔った時を思い出した。いや、俺は一時の気の迷いでこんなことを言い出すほど軽々しい男じゃないぞ!
「驚くだろうな。そうだ、俺が帰るまでうちにいればいいんだ! 母さんは君にいろんなことを教えてやれるし、北の方なら安全だ。でも五ヶ月もかからないよ、エーリクなんてすぐ倒しちゃうよ。この間の戦闘の時の奴らの無様な姿を見せたかったな、一目散に逃げていったよ」
彼の童顔に走った侮蔑の表情に少女は息を呑んだ。不快感を覚えたのだ。青年はそれに気づかず続けた。
「相手が一般民だと幾らでも残虐になれるくせに、俺達が相手だとてんで弱いんだ。酷い奴らだよ、南の人間は!」
「貴方は戦争は嫌いだって言わなかった?」
「嫌いだよ。でもそれ以上に南の奴らは大嫌いだ。貧しいくせに畑を耕したり勉強したりせずに戦争したがるんだ。手っ取り早く金持ちになれると思っているんだ。そんな無知な奴らが俺達に勝てるわけないだろう?」
何となく恐ろしくなって少女は身をよじったが、彼は甘く微笑んで腕に力を込めた。
「大丈夫、リューは何も心配しなくていい。うちにおいでよ。あの木は切り倒しちゃったけど、リューの好きな花をたくさん植えるよ。会ったばかりでこんなことを言うのは変かなあ? でも本当だよ、俺は」
「切り倒した?」
彼女の鋭い声にアルフォトランはうっかり口を滑らせたことに気づいた。
「大きくなりすぎて家が壊されそうになったんだ。古くなると花もあんまりつかないだろう? 蜘蛛の巣ばっかりで幹はこぶだらけだし、女の子が気に入るような綺麗な木じゃなかったよ」
立ちすくんだままの少女に焦れて彼は言葉を継いだ。
「その代わりに若い小さな木を植えたよ。回りに赤や青の、俺は名前を知らないけどいろんな花がある。君ならどれがなんていうやつか教えてくれるだろう?」
少女は青年の眼差しを静かに受けとめた。先程までの微笑が消えていることに気づいて彼は内心舌打ちした。厄介な娘だな、ちゃんと説明しても最初の一言以外は聞いていないんだから。
リューヴァエニドは視線を外して首を振った。
「新しく植えた木も邪魔になったら切り倒すんでしょう?」
「君が厭ならしないよ」
「貴方が南の人のことを言う時の顔、あたしすごく嫌いだわ」
「リュー」
彼は苛々と少女の名前を呼んだが、その語調がきつくなったことに自分でも気づいた。彼女は声に敏感なのだ。歌と同じように。
「あたしには南の人も貴方も同じ人間にしか見えないもの」
「君はどっちの味方なんだよ!」
彼女の顔に寂しげな色が走ったのを彼は見たような気がした。
夜風が少女の背後から長い髪を煽り、蝶の羽のように広げた。家々の明かりをはらんだ髪と蒼闇色の視界、その幻想的な光景に青年は息を呑んだ。
「あたし戦争が嫌いなんだと思っていたの。でも戦争をする人間達の中にはもっと厭なものがあると思うわ」
感じたことをそのまま言い表すことが出来ずにリューヴァエニドは言葉を切った。アルフォトランが理解していないことを悟ったのだ。ディズなら何もかもわかりすぎるくらいわかってくれるのに……少女は首を振った。
「だって、俺達は君達を守って戦っているのに」
「言ったでしょう。あたしにはお守なんて必要ないのよ」
彼女は眉を顰めた。機嫌を損ねたその顔には奇妙な気高さがあり、彼は目を奪われた。
「守られる必要はないし、あたしのせいでお花畑が焼かれるのなら守ってもらわなくていいわ」
凍りついた青年を諭すように彼女は微笑んでみせた。白い衣装がふわりと揺れる。彼女が身を翻して広場の向こう側へと去っていくのを彼は見つめた。
我に返った時、彼女の白い衣装はどこにも見えなかった。
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