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月日篇

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月日篇


二にして一、一にして最大なるエニス・サイの物語

 
 
 一日の始まりは、月が梢の正しい位置に宿る時。深々と蒼く染まる森の上に月色の光が伝わり、安らぐ者皆を包み込む。
 清やけさの中に動く獣達。
 木々の間を泳ぐ夜光蝶。
 大木の蔭に、絡まる蔦の向こうに見え隠れする石の塔。或るものは半ば崩れ落ち、或るものは骨格をさらけ出して、旧文明の建築は、白々としていながらも蒼い闇と森の中に溶け込んでいる。
 風がそよぐ。
 
 

 
 
第一章
 
 
「小川町? でいいんだっけ」
 その問いは、車輪とレールの悲鳴に紛れて相手に伝わりそうもなかったが、前に座っていた少年は少し身をよじって彼を振り返る。
「いーのいーの、東京に行きたければ大手町目指すのと同じ」
「……お前、あんなところまで行って潜ってきたのか? 水没してんだろ」
「オレ、エラ呼吸出来ないよ?」
「俺も両生類と暮らしてきた記憶はないけど」
「……と、おとーさんが言っていた」
「その台詞はどこにつながるんだ?」
 地下鉄の構内は暗い。薄ぼんやりとした暗がりの中に自分の体臭が残っていくような気がして、かなめは後方を眺めた。レールが闇の中に消え、壁に埋め込まれた蛍光灯が弱々しげに瞬いている。
「オチャノミズって何でオチャノミズっていうのかなあ、オチャノオミズの方が丁寧じゃない?」
 ぼけた暗がりと照明の中で、あまねの声はひどく明確に聞こえる。要は相棒の生真面目な顔を見やり、しばらく眺めた後で呟く。
「……丁寧さの問題じゃないんじゃないの」
「ヨーローの滝と一緒で、お茶が湧いていたのかな」
「石油でも湧き出ていた方が、酒や茶よりはまだ現実的だと思うけど」
「石油の水なんて駅名変だと思うな」
「駅名以前に、根本的に何か間違っていないか」
「そーねえ」
 少し伸びかけた前髪が額を叩く。汗をかいた地肌に地下の涼しい空気が触れて心地よい。
 レールは百年近くの歳月を経ているにしては、歪みも破損も少なかった。二人の住処であるギエンからここまでの間には、さすがに地盤沈下や地下水の浸水などの異状が数ヶ所見られたが、通れないというほどではない。先の台風で倒木や亀裂が生じた地上の道路を走ってくるよりはずっとまし、という周の見立てで今日は地下を使ったのだ。
 前方を見やり、周に注意を促して、要は細心の注意を払ってブレーキをかける。金属が鋭い音を立てたが、クルマは大した衝撃もなく停止した。
 まだ幼い頃に二人で組み立てた遊具を運搬用に少し手直しした、車輪と台座と補助器具だけの簡単なそれを、彼らは単純にクルマと呼んでいる。地上でも使えるが、これはむしろ鉄道のレールに車輪をはめ込んで使う為に作ったものだ。地上の道はそれほど平坦ではない。
「この前来た時は大丈夫だったんだけど。やっぱり寄る年波には勝てないってやつかな」
 地盤がゆるんだのだろうか。天井の一部が崩れ、梁が折れて無惨な姿をさらしている。レールの繋ぎ目が外れ、反り返った端が梁の方を向き、緩いカーブを描いて浮き上がっている。下に地下水が黒く溜まっている。
「老朽化と……おい、周!」
「だーいじょうぶ」
 水を覗き込む周を見やりつつ、要は荷物袋を肩に担ぎ、クルマの中程を踏みつけて折り畳む。もう片方の腕でそれを小脇に抱え、周の後ろから水中を眺めると、断線したケーブルが見える。遙か向こうにレールの続きがあるが、落ち窪んだこちら側との高低差がかなりある。
「深い?」
「主観によるねえ。腰まで」
「向こう側までは?」
「九メーターあるかな」
 要は眉をちょっと上げる。クルマを荷物袋と一緒に担ぎ直すと、空いた片腕でひょいと周を担ぎ上げる。等身大の麦藁人形の方がまだ重いとでもいうように、軽々と。
「何でそんな古い単位使うんだろうな、エニス・サイってやつは」
「二十七フィートより短く感じない?」
「三タンの方が短く感じない?」
「やっぱりヤード・ポンド法はピンと来ないわねえ」
「リンの単位ってイマイチ曖昧なんだよな。レール折れたりしないだろうな?」
「オレ達二人くらいなら全然オッケー」
「荷物込みで?」
 荷物袋とクルマの重みを膝の上にかけようとすると、周は悲鳴に近い笑い声を上げる。出来るだけ軽く修理しやすく作ってあるが、クルマの重量だけでも優に周の体重の倍はあるのだ。
「これ持てとは言わないけど、せめて仕事道具ぐらい一度に持ち運べるように筋肉つければ?」
「オレが筋トレするよりも、端末をもっと小型化軽量化する方が絶対早いし確実」
「全くだ」
「オレさっき思いついたんだけど、腕時計を端末代わりにすればディスプレイだけで済むんじゃないかな」
あきらが転送中に拡散しないことを祈る」
 要はレールの段差を眺め、梁や水面の距離をざっと確認してからレールの上を危なげもなく駆け上がり、軽く跳躍する。梁を蹴った反動で向きを変え、翼ある者のようにふわりと向こう側に着地する。
 腕を開くと周はレールの上に降り立ち、後ろを振り返ると口笛を吹く。
「出口どっちだっけ?」
「お茶碗持つ方」
「オチャワンって何?」
「要それでもホント日本人?」
「お前本当にエニス・サイ?」
「あ、こっち。湿地渡るんだよね昌平黌しょうへいこうって」
 風化しつつある自動改札機を越えると、地上への出口は日光が差し込む限界まで蔦が埋め尽くしていた。葉に強烈な光が照りつけており、むっとする熱気が二人を包む。
 要は目を細め、バイザーを一旦外して汗を丁寧に拭ってからかけ直す。これも周が何かの部品を利用して作ったものだ。色の付いた透明な樹脂を通すだけで日差しが和らぐことは知識として知っていても不思議でならない。
「ショーヘイコーって元は何だったんだ?」
「大昔は学校だったっておとーさん言ってたけど」
「じゃあ何で聖堂なんていうんだ?」
「コーシサマの像があるんだって、今にも動きそうなのが。ところでコーシサマって宗教家だっけ、学問の神様だっけ」
「どっちも違う」
 
 
 晩夏の日差しが剥き出しの腕に痛い。森が途切れ、乾いた地面の上にアスファルトの名残が所々朽ちている。
 要は眼下に横長に広がる湿地を見渡した。川の跡である。背の高い草が密生して深さはわからない。地図によれば川沿いに鉄道が敷かれていた筈だが、それらしい跡を見つけることは出来なかった。
 どこかで鳥が喧嘩するように鳴いている。
 百数十年前まで存在していた巨大な国家が、どのようにして壊滅したのかは定かではない。
──「起きて外を見てみたら、道路の向こうに森がやってきていた」
 マクベスのように暁はそう言った。
 それが適当な表現であるかどうかは要にはわからない。暁にはかなり長い記憶の断絶期間があり、おそらくそれは日本……ニフの文明が停止した瞬間からだろう。意識を回復した頃のことを彼はほとんど話したことがない。
 森と共に現れた人々をリン人と名付けたのも暁だ。リンと呼ばれる神を主神としている単一民族である(と思われる)為だ。それぞれに守護神を擁した幾つかの氏族に分かれている彼らには、自身らを総称して表す単語も国家もない。祖霊信仰や呪術が生活の一部として息づく原始的な民族である。
 リン人は既にかつての異変を『大いなる婚姻』と名付けていた。『あまねく見通す者』リンが、『速き精霊の母』ニフを娶ったのだと。
 二つの世界の融合。
 リンの空間は何故かニフの都市部に出現する傾向があったようだ。異変直後のニフ人の人口は数万人に満たなかったという。生存能力が低かったニフ人は見る間に激減した。或いは移住し或いは病害で生命を落としたが、幾らかはリン人に融合していった。
 対してリン人の方は実に大らかだった。精霊の声を聞き、巫師サイ(シャーマン)の奇跡を崇め、獣やそれよりも強大なものと渡り合ってきた彼らである。奇妙な白い塔や石の道が、森の中に突如出現したからといって、彼らの生活に大きな変化はなく、それを受け入れる柔軟性が彼らにはあった。おそらくは、巫師による何らかの説得があったのだろう。
 まもなく彼らは奇妙な言語を操る脆弱な「ニフ」の人々と出会った。悲しむべき、或いは忌むべき事件も生じただろう。試行錯誤のやりとりがしばらく続いた末、双方に幸運な結果がもたらされた。当時の太巫師タイサイ、偉大なるリウサの裁定がニフ人を救ったのだ。
 ニフ人は獣に対する備えを覚え、農耕や狩猟を覚え、リン人の娘を妻とした。
 ニフ人の血を引く者の中には、旧文明の知識を受け継ぎ、これを利用することを生業とした者もいる。彼らはエニス・サイと呼ばれ、まだ完全に融合しきっていないこの世界に特殊な地位を与えられた。
 最初にその呼称を与えられたのは、チィエクのアキルと呼ばれる人物であったという。ニフ風に読めば血脇 暁ちわき あきらというこの男は、周や要とはやや複雑な関係にある。
「俺、やっぱり行かない方がいいと思う」
 湿地の中に点々と続く細い道を目で辿りつつ、要が機嫌の悪い声を出す。
「でも、シンチはおとーさんの代からのおつきあいだっていうし」
「そうじゃなくて。お前が行って、条件次第でどうするか決めるのはいいんだ。けど、俺はエニス・サイじゃない」
 彼の浮かぬ顔を周は眺める。
「そう言うのは要だけなんだけど?」
 悪戯っぽい口調の中に幾らかの真摯さがあるのが要にも感じ取れる。
「あいつらと俺じゃ定義が違うのはわかっている」
 彼はふと口元を歪める。
「嫌なんだよ、俺は」
 吐き捨てるようにそう呟き、彼は沈黙する。しばらく後、ぽつりと呟く。
「俺は彼らの期待に応えるエニス・サイにはなれない」
「ならなくてもいいのに、そんなものには」
 周の声は明るい。
「要は要なりに、オレはオレなりにやるのが正しいあり方なのよ、どーもそういう方があちらさんとしてもいいらしいしね」
「……どういう意味」
「 イエス・ノーがはっきり言える人の方が信頼されるの、八方美人よりも。オレ最初の頃うまくいかなかったのはそれかもね。納得行かない依頼はさっさと断るのが礼儀なの」
「お前の信用問題に関わるだろ」
「それは引き受けてからの話。オレ達用件も聞いていないじゃん。それにアナタの判断力あてにしてるんですけど」
 無表情だった要の顔に、怪訝そうな色が表れる。彼は首を傾げて周を見やった。
「難しいのか? 今回の」
「わかんないけど。オレ毒を食らわば皿までって言いつつ鍋に顔突っ込んじゃいそうな時あるのよね。オレ一人だと手に余るかもしれない」
「……暁がいるし」
「シュレーディンガーもいるし?」
「仲良くやれば?」
「見捨てないで、オレ達七世を誓った仲じゃなかったの?」
「俺はお前に復讐される覚えはない」
「それは七生報仇」
 周は親指を立ててみせた。
「行こ」
 
 

 
 
 湿地に渡された石は、かつての橋の名残だという。石と斜面の境には去年の稲穂と藁で編まれた縄が張られている。
 アキバはリンの所領だという。かつて太巫師リウサの時代には、ただ狩猟禁止とされていただけだった。今では小石一つ動かそうとすることはおろか、足を踏み入れるリン人はいない。年に一度のリンの大祭と不定期の特殊な呪術の際以外には、巫師の姿さえ見かけることはまずない。
 急な斜面に刻まれた段々は古い石段に続いており、緩く螺旋を描くそれを登りきると石の道路に出る。
 ひび割れ、表面が摩耗した道路は綺麗に掃き清められている。左側を蔦で覆われた瓦礫、右側を昌平黌の黒々とした森で閉ざされた道路の先、聖地との境界を示す綱の向こうに、巨木に掛かった白い麻布が見えた。大きな金色の山猫の眼と、その下には額に眼のような鱗を持つ緑色の蛇が描かれている。シンチ氏の紋章だ。
 紋章の傍らに二人の人影が見える。がっしりとした若い男と、肥った小柄な老人。老人の首に掛けられた、赤い半透明の石を繋いだ首飾りが朝の日差しを受けている。巫師を表すものであり、その石の数は彼が行った祈祷や秘術の回数を示すのだ。
 こちらを見やった老人と視線があったような気がして、要は一瞬立ち止まりかける。老人が傍らの男に話しかけると、その青年も手を翳してこちらを眺めた。
 画面ではなく実景の中に人間が在り、動いていることに、要は何とも言えないものがこみ上げてくるのを感じる。半歩先を歩いていた周がちらと要を見、笑いかける。
「目のいい人達だね」
 要は頷く。死んだ父親と同じような、真っ黒な髪と日焼けした皮膚の青年の姿が、周囲の風景から浮き出ているように思える。
 二人の少年が無造作に綱を跨ぎ越え、歩み寄ってくるのを、彼らは微動たりともせずに待ち受けていた。
 
 
 ケアは常の癖で僅かに眉間にしわを寄せ、近づいてくる二人の少年を眺める。許多の巫師の長である太巫師が呪いを込めた結界は彼らに何の効果も及ぼさないようだった。ニフ人、ましてやエニス・サイともなれば。
「百の眼持つランタイチの裔、額に神鱗持つシンチの民の長、エルヒの孫にしてフェイの子ケアが、エニス・サイを我らが地にお迎えします。よくぞおいでなさいました」
 儀礼的な挨拶がほんど無意識にケアの口から流れ出た。少し嗄れているが、落ち着いた、よく通る声だ。日焼けした若い顔は、細い目とと角張った鼻梁の為か、穏和というよりは朴訥に近く、声ほどの愛想はない。彼は小指と薬指を軽く曲げた左手を顔のあたりに掲げる。二人の少年はシンチ氏族のその挨拶を知っていたらしく、挨拶を返した。遠目には小柄に見えたが、むしろ並より少し背が高いようだ。彼らはニフ語で何か言った。コンイチュワ、と聞こえる。ニフ式の挨拶だ。
「お迎えに上がった者共は?」
「サイン達は南側に迂回したから、あと二日くらいはかかると思う」
 肩より少し長い髪を後ろで無造作に括った少年の方が、ケアの予想よりは低い、陽気な声で答えた。声は間違いなく少年のもので、明確な発音だ。
「随分とお若いようだが」
 ケアの隣の老人が、丸々とした赤子のような外見には似つかわしくない重々しい声で呟く。二人の少年は不意を突かれたらしい。黒目の勝った大きな双眸が、同時に何とも幼い表情を見せる。ケアの口元がほころびかけ、同時に彼は二人の若さに不安を覚えた。
「十五歳。もうおとなでしょ年齢的には」
 長髪の方がそう答えて微笑む。ケアと目があった。
「初にお目にかかる。シンチの巫師エンシと申す、名高きエニス・サイよ…… ところで」
 老人は汗を拭った。乾いた汗が白く額に残っている。笑みを絶やさないつやつやとした顔が二人を代わる代わる見上げた。愛嬌のあるその顔は、横の青年ほど素朴には見えない。
「双子とは存じ上げなかった」
 数年前の先代アキル(最初のエニス・サイの子孫だろうと思われる)の死と共に、その息子がエニス・サイの地位を継いだことは周辺の氏族にも伝わっていた。十五歳という年齢もかなり若くはあるが、リン人の巫師にも前例がないわけではない。先代が認めたのだ。それなりの技術も能力も備わっているのだろう。だが、後継者が二人であるとは聞いていなかった。
 双子はちらと互いを見やる。雰囲気はまるで異なるが、造作の一つ一つは同じ型を用いた陶器のように似ている。
 赤っぽい長髪の方は明るい人なつこそうな笑顔を絶やさず、もう一人の更に明るい色の髪と目を持つ少年は警戒するように黙然と目の前の二人のリン人を観察している。いずれも年齢より幼く見えるが、態度や表情のどこかにおとなびた色も見え、奇妙にちぐはぐな印象を見る者に与える。
 生成の簡素な衣服はシンチ風のものだ。氏族ごとに仕立てや装飾が少しずつ異なるのだが、緩やかなズボンの裾を絞るのは虫の害を防ぐ為で、真夏でも長袖を着ることが多いのも森と湿地に住むシンチの風習だ。袖をまくり上げた長髪の少年の腕に幾つもの古傷が白く残っているのが見える。腰の色鮮やかな細帯は、先代への贈り物としたものの中の一つかもしれない。
 二人の持ち物は異様だった。目の上に被せられていた灰色の透明な仮面(今は頭の上に押し上げられている)。長髪の方の少年の片耳にはめ込まれた黒い木の実のような何かからは、細い黒紐がのびて左腋に吊られた小袋に続いている。それぞれ左手首には黒い帯が巻かれており、何やら複雑な仕掛けが施されている。
 ケアは短い髪の方の少年が背負った、何やらかさばる荷物をごく僅かの間観察する。
「どちらがアムネ殿でしょうか?」
 ケアの声に長髪の方がにっこりと笑う。
「俺が血脇周。こっちが弟の要」
「カナ……ン?」
「カ・ナ・メ」
 その少年はぶっきらぼうにゆっくりと発音する。兄とよく似ている声の中に、老人の聡い耳は緊張の色を聞き取った。
「カ・ナム殿もエニス・サイなのですか?」
 ケアは彼をそう呼ぶことにしたらしい。老人は胸中で微笑んだ。カナンとは罪を犯した者のことであり、人の子の名前としては良い響きではない。逆光を受けた淡い色の頭髪から連想したのだろうか、カ・ナムという呼称は、この少年に似合っている。
 リンの言語では、その名は輝くものを連想させる。
「違う。俺はエニスを操ることは出来ない」
「えーでもオレ達二人で一人のエニス・サイだよね」
 さんざん繰り返された会話らしく、要はじろりと兄弟を見やる。
「人間としての成熟はともかく、能力的にはお前、一人で一人前だろ」
「オレの能力って炊事とか床屋さんとか?」
 呆れているのか、ケアは無表情のまま双子を眺めている。傍らでエンシが愉快そうに笑った。笑い声が奇妙な鳥の鳴き声のように高い。要はびくりとして彼を見やる。
「というわけで、オレ達二人一組なんだけど」
 すまして周がケアを見上げた。
 シンチの長の細い目が殊更に細められる。奇妙な錯覚に捕らわれたのだ。強烈な日差しが細い少年の身体を空気のように素通りし、ケアに直接照りつける。いや、それは日差しではなくて……。
 大きな双眸がケアを見上げている。屈託のなさそうな瞳に一瞬緑色の光が映ったように見え、ケアは内心たじろいだが、声に出したのはそっけない言葉だった。
「ご案内しましょう」
 
 

 
 
 エニス・サイが何であるかを正確に把握している者は少ない。リン人のニフ人に対する観念はごく単純である。即ち、ニフの魔術的な知識を具体的な形で用いてみせる者は、全てエニス・サイと呼ばれうるのだ。
 チィエクのアキルは、自分の知識の及ぶところは電子工学である、と語ったという。エレクトロニクスという言葉がリン人の言語にあわせて変化した形がエニスである。つまりエニス・サイの原義とは、「電子工学技術を駆使する者」ということになるわけだ。『エニス・サイ』はやがてニフの万能な知識を意味し、『エニス』は更に変遷して、独立した意味を持つ言葉となった。
 だが、エニスとは何であるか。
 最初にそれを見た者がリン人であったか、ニフ人であったかはわからない。リン人の言い伝えから推測すれば、それは『大いなる婚姻』から十数年後頃から人々に知られるようになったらしい。
 
 『あれ 速き精霊の舞い踊る様
  あれ 月色の虫
  あれ 地に降りる星々の群れ
  あれ 夜を満たす霧』
 
 そう歌われた光は、都心と呼ばれた地区の摩天楼の照明だった。電気が通わない筈の瓦礫の中の器具が点滅し、機械音が聞こえ、発熱していたのである。
 電気の特質を持ち、その代用となりうるエネルギー体。惜しむべきは、この新しい力源を研究し利用する時間と知識を有する者がほとんどいなかったことだろう。『速き精霊』。それは専らその二つ名で呼ばれ、ニフの神秘性の象徴としてのみ扱われる。
 自然発生する微量のエニスを如何にして調節し、利用することが出来るのか? それが可能なのはエニス・サイだけであり、エニスそのものを理解しているのも彼ら以外にはいない。
 だが、かの器用なニフの末裔にその自覚があるのか否かは定かではない。
 
 
「でもオレ一人じゃ、はっきり言って、切れた電球よりも役立たずじゃん」
 周はノートパソコンを取り出して膝に乗せ、上蓋を開く。
「切れた電球が何かの役に立つのか?」
「とりあえず、あの曲線は可愛いよね」
「……それは俺とお前の価値観の違いだな」
 彼らは小屋の一つをあてがわれていた。
 エニス・サイはどの氏族にも属さず、概ね中立かそれに近い立場にいるのが普通であり、それはリンの巫師のうち氏族に属さない者達も同様である。
 不意に要が出入り口の細竹製の簾をまくり上げる。中年の女がそこにいた。両手には大皿を掲げている。おずおずと彼女は要を見やり、大皿をそこに置く。彼女によく似た五、六歳の女の子が危なっかしげに素焼きの鉢を抱えて女の横からするりと入り、要を見上げると無言で鉢を突き出す。思わず彼がそれを受け取ると、何か言いかける間もなく二人は戻っていった。
「駄目だよ要、脅かしちゃ」
 要はまだきょとんと鉢を眺めていたが、周の表情を見るとばつが悪そうな顔で座り直し、大皿を中央に押しやる。
「あんな小さい手足がちゃんと動くんだな、本当に」
「オレ達もそうだったんだけど」
「うん……でも何か、実際見てみると変」
 要はもどかしげに黙り込む。笑って周は頷いた。
「オレも最初思った。うわあ良く出来てるなあって、だってすごく小さい部品みたいじゃない? 指とか」
「だろ?」
 要がギエン一帯から出たのは、これが初めてなのだ。
 父親の見習いとして、周は幼い頃から父親に随って出歩いてきた。二人の子供の面倒を同時に見るには森は危険すぎる。要が供をするのは狩猟や力仕事の時だけで、それもそう多くはなく、会話らしい会話すら交わさずに父親の踵を眺めながら歩いたことを要は覚えている。
 彼は家族以外の人間とろくに接したことがなかった。数度見かけたことはあるが、言葉を交わしたこともなかった。怖いというよりも気味が悪かったのだ。自分達とは体臭からして異なる人々は、初めて見る奇妙な生き物のように見えた。
「おかーさんって、あんな感じだったのかな」
「暁が見せてくれただろ」
「顔とかは違うけど、やっぱりおとーさんとは違うじゃない?」
「……男があんなぶよぶよした身体だったら気色悪い」
「その擬態語はオレ違うと思うなあ」
 蕎麦粉の薄焼きと豆の濃い汁物とを取り分け、二人は夕食に取りかかることにした。薄焼きはほのかに甘く、まだ温かい。山羊の脂を入れ、とろりとなるまで煮た豆も美味い。
「シホウは旱魃かんばつだって」
 匙で豆を掬いながら周が呟く。
 雨期から一月、さほど遠くもない北方のシホウ氏が水不足であるのにも関わらず、シンチ氏では例年と変わらない生活を続けている。溜め池や井戸の設備を整え、穀物を貯蔵し、日照りに強い作物を作り、ニフ人から教えられたやり方で農耕を営む。全てがケアの代に始まったのではないとしても、柔軟で堅実な性格が察せられる。エニス・サイを今回のような事態に招くことも、希有なことだ。
「でも俺はリンは好きじゃない」
 チィエク……即ち血脇というニフ人の姓を持つ一族がギエンと呼ばれる地域に孤立した住居を構えているのは、生活の需要が賄えるということであり、防備にも長けていることを示す。それもエニス・サイの一族ならではのことであったが、血脇家の長い歴史はいつの間にか伝説めいた尊敬をリン人の中に生み出していた。それは極めて敬遠にも近かったが。
「大体俺は嫌いなんだけど、あの巫師って奴らのやり方が。祈祷やら占いやら呪いやらって結局インチキだろ? それをまた馬鹿正直に信じ込んでいる奴らも奴らだけどさ」
「……オレおとーさんの教育方針はちょっと間違っていたと思うなあ時々」
「暁の?」
「今思うとあの人初めからオレ達を子供扱いしてなかったもん」
「どこが悪いんだ?」
「オレ達好き放題やっちゃったじゃない?」
「何かまずいのか?」
「おとーさんの考え方ってシニカルなとこあるから」
「でも、間違ってはいないだろ?」
「巫師の全部が全部インチキなわけじゃないよ? オレあのエンシっておじーさん好きだけどなあ」
「俺は嫌い」
「どのあたりが?」
 先程からそれを考えていたらしい。要は拳を顎に当て、自信なげに眉を寄せる。
「よくわからない……けど、何か、嫌だ。じろじろ見るし、変な顔してるし」
「アナタ敬老精神というものはないの」
「俺が老人になったら考える」
「……それは立派なエゴイズムね」
「それより……何であいつ、ずっと笑ってたわけ?」
 周はまじまじと彼を見つめ、頷く。
「なある」
「は?」
「それが嫌だったんだ」
「俺は、どこもかしこも、嫌だったけど?」
「『不思議の国のアリス』読まなかった?」
「……は?」
「大きい猫の顔が空中に出てくるんだよね、にやにやしてるの。それで消えたり現れたりするから、どっちかになさいというと、顔は消えて笑いだけ残るの」
「猫ってシュレーディンガーみたいな?」
「そう」
「猫は笑わない」
「それはおいといて」
「何で物体が消えて性質だけが存在しうるんだ?」
「さあ、オレも視覚的には想像つかないけど……オレが思うにこれは原文で読まないと意味が通らないのではないかと」
「俺は何語だろうと通らない方に賭けるな」
「例えばさ、ワタリガラスは何故、机に似ていますか? とか」
「ワタリガラスってどんなガラスだ?」
「わかんない」
「ところで俺の疑問への回答は?」
「要気に入られたんじゃない?」
 要は周の顔をつくづくと眺めた後、食べ終えた皿を置く。周は続ける。
「人は嬉しい時笑うものよ、それだけじゃないけど。ほーらオレなんて年中ずっと」
「笑ってるからって、嬉しいとは限らないだろ?」
 周は薄焼きの端を口に押し込む。その表情を読みとってか、要は彼を睨むように見据えままゆっくりと続ける。
「暁なんて、笑っても嘆いても同じような顔してるじゃないか。なら逆だってありうるだろ? お前怪我しても笑ってるし」
「それは自分のおバカな失敗を思い出して」
 周はくすりと笑い、豆のかけらを指の先から弾き落とす。
「そーね、今の違うね。オレちょっと嘘つきな時もあります。でも相手がいる時にしか役に立たない笑いというものも確かにあるのよ。オレが怪我してもね、笑ってられたら大丈夫っていうことでしょそれは。要が慌てまくって痛み止めの代わりに塗り薬オレに飲ませるようなことになると困るから、まずはアナタを安心させないといけないわけ。でもねえ、あーここには要いるしぶつぶつ言いながら手当してくれるしご飯もできるしオレ幸せだなあって、そうするとにやけちゃうんだよね。こっちの方が意味としては正解」
「……あ、そう」
「要するに笑いには技巧的なものと無意識に出てくるものがあるってことなんですけど。それを見分けるのは第一に経験で第二が本能かなあ」
「俺の本能はあのじーさんを敬遠している」
「思うにあの人はアナタを困らせて楽しもうとしているんじゃないかな」
「……何が楽しいんだそいつは」
「おとーさんと同意見かもしれないわね」
「どっちの父さんだって?」
「両方」
「……俺思うんだけれど、お前の言葉遣いって時々変じゃない?」
「そう?」
「俺の知っている語彙にはない語尾助詞やアクセントが……いや別に日本語聞いているのはどうせ俺と暁だけだけど」
「駄目よその投げやりな姿勢は。正しい日本語教育というものを伝えなくちゃ」
「誰に?」
「そろそろおとーさんに来てもらおうか?」
「その言い方も一親等のと区別した方がいいと思うな俺は」
「どっちもアキラさんには変わりないじゃない」
 ノートの画面が揺らめき、一人の若い男の上半身が映し出される。白い窮屈そうな仕立ての衣服に、頸元からは赤い飾り布を垂らしている。かつてのニフの平均的な成人男性用の衣装だという。
 彼はひらひらと手を振ってみせる。
『おう、おはよう』
 周は音量を少し大きく調節し直す。
「おはよ、ってもう夜だけどね、おとーさん」
『時差ボケというやつだ。で、要は何ふくれているんだ?』
 暁の声は切れ味の良いナイフを手にしている時の感覚に似ている。気持ちよく乾いた、陽気な声だ。この声は彼の肉声そのものだろうか。
「別にふくれてなんかいないよ」
 血脇暁は含み笑いする。この笑いはどの意味なのだろうかと、要はちらと考えてみる。
 双子の実の父親であるあきらは、おそらくニフ人の最も濃い血を受け継いでいた一人だった。その血統は血脇という姓を有しており、遡るとやがて暁に辿り着く。
 『大いなる婚姻』、暁の表現によれば『次元衝突』の瞬間までは生身の人間であった彼が、どのようにして現在の姿、つまり肉体を持たない精神体(?)と化したかは、彼自身も覚えていないらしい。
 何故ならば、彼が主として宿るところは血脇家のメイン・コンピューターの集積回路なのだ。『衝突』によって電気系統が断たれた後、エニスが蓄積することによってそれが復興するまでの間(それが正確にはどれほどの時間であったのかはわからない)、暁の五感は外界から完全に遮断されていた。
 彼が少なくとも視聴覚を取り戻し、膨大な知識と記憶を持つことになったのは、エニスという存在を操れるようになった為であり、それはおそらく先天的に彼の中に根差していた能力であったと思われる。エニスのないニフの世界であれば、決して発現することもなかった能力だが。
『依頼内容は?』
「リンサの人達とね、境界争いなんかで揉めてるんだって。ここ族長代替わりしたばっかりだし」
『何だ、エルヒはどうして死んだんだ?』
「老衰」
『ふーん……そうか、そろそろ三十年たつからなあ、あいつが長になった時から』
「寿命のない奴は気楽だよな」
 要が陰気に呟くのを見て暁は眉を上げる。
『俺だっていつかは死ぬかもしれないぞ? 大体、うちのパソコンの寿命が尽きたら俺はどうなるか』
「曹洞宗だから火葬だろ」
『間髪入れないとはいい反応だ』
「速き精霊が宿る限り電脳機械は不滅なのよ」
 百年を優に経た機械のうち幾らかが現在も正常な使用可能状態にあるのは、エニスの効力ではないかと言ったのは暁である。無論それは、ほぼ理想的な状態で保存されていた、電気を用いるものに限られている。
 かつて生活していた時代の物理的常識では考えられないことを受け入れることに暁は慣れていた。
『ふん、それじゃあ要にはせいぜい長生きしてもらおう。電気ナマズ』
「したいよ俺も」
『周はヒョウタンナマズ』
「ヒョータン型のナマズなんていたの?」
『たまにはいたかもしれんな』
「それはおいといておとーさん、オレ達失敗したら首飛ぶかなあ」
 重大な祈祷や占いに失敗すれば、巫師はその力が衰えたと見なされる。力がまだ残っているうちに新しい肉体に移り、再び強い呪力を得るようにと、彼らは生きた肉体から引き離されることがあるのだ。風聞ではかつてエニス・サイに対しても、そうした『善意的な殺人』が処せられたことがあったらしい。
「だってねえ、オレ達に望まれてるのは、勝つかどうかじゃなくて、シンチを勝たせるってことなんだからね、結局」
『巫師っていうのはそんなものだろう』
「まず、リンサの状況知りたいんだけど」
「とりあえずその前に暁、猫どけてくれ」
 画面の隅から白い尻尾がちょろちょろとのぞいている。暁がそれを払うと不機嫌な猫の唸り声が聞こえた。この太った白い雄猫は暁の飼い猫で、名をシュレーディンガーといい、現実の生き物のように動き回る。
「何で連れてきたんだそんなの」
『新しいプログラム書き足そうと思ってな』
「ひっかき技ってどう?」
『傷をつけられるのは俺なんだが……そこで依頼を受けちまうのがお前達らしいよ』
「リンサがこれ以上強大になっても困る」
 暁の姿が消え、図と文字の羅列が目まぐるしく表示されていく。
『推定にすぎないが、そんなに誤差はないと思う』
 覗き込んでいた要が眉を寄せてみせた。
「戦闘要員がこっちの三倍以上?」
『そりゃあ、シンチは人口が少ない。その上、氏族としての性質が穏和だからな』
 シンチの氏族神であるランタイチは水や雨を司る。農耕を営む彼らに対しリンサは狩猟に長け、同時に好戦的でもある。
『だが血脇流のやり方なら大いに効くだろう。槍や弓の戦闘に慣れたリンサ氏族は強いが、だてに勇敢な分、一度崩れると混乱状態に陥りやすい。それにあそこは巫師の権力が強いからな、それだけ迷信深くもある』
「だからまあ、派手にやろうかと思って」
 暁は楽しげに笑った。
 二人の会話を聞き流すかのように、地図を画面に呼び出し、防衛箇所を調べていた要が横目で彼らを見やる。剣呑な目つきに周は苦笑するが、続いて周に尋ねた要の声に怒気は含まれていなかった。
「スタンガン使うか?」
 彼らへの依頼は、形式的には勝利の祈願であり、呪殺ではない。死に関わる依頼をエニス・サイが引き受けたことは過去にない。だが、祈祷の意味するところは、巫師とエニス・サイでは大いに異なる。巫師の名を持つとはいえ、エニス・サイは祈る対象を持たない。
 ──シャーマニズム的に言えば、エニス・サイはエニスという精霊に直接働きかける巫師だ。まあ、働きかけるというのは色々あるがな。結果から他人が解釈するのは自由だろう、この際。
 そう暁は詐欺師のような顔で言ったことがある。
「体力ある人には効き目弱いよ、個人差もあるから危険だし。脅すだけで充分」
 周の指が素早く動く。地図の数ヶ所に幾つかの記号が表示され、細かい指定がウインドウの中に書き込まれていく。暁が吹き出した。
『何で合唱コーラスなんだ?』
「人間の声が一番いいと思うわけ。で、重ねると音ひずむから、大合唱してるソフトをさのまま使うのが簡単でしょ。この部分だけ送ってね。機材は幾つか調達しないと駄目だけど、電気街すぐ近くだし。編集はおとーさんと要にやってもらうとして」
「……こんなので本当に撃退できるわけ?」
「一時的に休戦には持ち込めるよ。オレ達がシンチについてるってわかるし」
 それから後のことはケアとエンシの外交手腕次第だけどね、と周は言う。幾つか補足点と修正を加えた後、奇妙な作戦は開始された。
 
 

 
 
 ケアは無言で二人を小屋に招き入れる。炎に照らし出されたその顔は、思っていたよりも更に若いように要には思える。
「如何ですか」
 傍観者のような短い問いである。ケアがリンサとシンチの状況をほぼ把握していることは察せられるが、シンチの長の表情は要には読めない。
「勝つよ。その後気をゆるめなければシンチは安泰」
 ケアが頷く。
「どのように」
 ふと周は僅かに目を細くする。ケアの向こうに何かを見出したように。
神人ディーの心持ち次第でいかようにも。けれど、行き着くところを推し量ることは、川筋を辿るのと同じ。誰かが川筋を無理に変えようとしない限り」
 再び目を上げ、彼は悪戯っぽく笑う。ケアは神妙な顔で周の言葉を反芻するように黙っている。
 長をまた神人とも呼ぶ。巫師が氏族神を召喚する儀式において、神の依代よりしろとなるのが神人である。神人が告げる言葉を解釈するのが巫師であり、その解釈は過つことがないという。時に神人は何も語らないこともあるが、巫師は声なき言葉をも読みとるのだともいう。 祈祷や呪いが失敗に終わっても、巫師が処罰されるのは実際にはまずない。大方は、神人の能力不足によるものとされ、神人が代替わりするだけだ。こうして氏族の長が巫師によって合法的に殺されることは少なくない。要が巫師を嫌うのも多くはその点にある。
「エンシは、ライゴウが降りると申していました」
 ライゴウはリンの剣の名であり、また黒い獰猛な獣だともいう。時にそれは天から降って罪人を撃つ。
「どんな風にでも都合良く解釈できるじゃないか」
 呟いて要はぎょっとする。あの奇妙な笑い声が小屋の奥の壁の当たりから聞こえたのだ。壁に掛けられていた刺繍入りの朱色の布がむくむくと動き、小柄な巫師が艶やかな顔を覗かせる。布の向こうは扉だったらしい。
「さよう、優れた巫師というのは、優れた語り部と同じ。大切なのは予言や呪いではなく頭の使いようということだ。違うかな? カ・ナム殿」
 少年の表情を見やり、心地よさそうにエンシは笑う。
「良き弟御を持って幸せだな、アムネ殿」
「でしょう? オレってホント果報者で」
「エニス・サイと血を分けた者が尋常な者である筈もなし。そうではないか、ケア」
 長の微笑みは、静かな水面が揺蕩うように見える。髪を長く後ろにのばすのは巫師か神人の徴であり、ケアはまだようやく肩を過ぎた程度だ。彼は脚を組み直し、背後から酒の壺と木皿に盛られた塩漬けの木の実を取って三人の前に押しやった。警戒するように彼らを見据える要とじっと目を合わせ、ややあって頷く。
「なるほど、太陽の下では目が眩んだかとも思えましたが、今ならわかる」
 エンシが鼻を鳴らす。
「錯覚の筈がない。このエンシがそう言うのだ」
 きょとんと彼らを眺める周の横で要は身を固くする。老人は狡そうに彼を見やり、壺から酒を杯に注いだ。一見単純な形の壺であるが、二重になった外側の部分に冷水を詰めておくと、内側の酒が冷えたまま長く保たれる。冬なら熱い湯を用いるという。
「いと速き精霊が幾重にも取り囲んでおる。綾の如き美しき光よ。カ・ナム殿、おぬしは涸れることなきエニスの泉。そうであろう?」
「あ、それね」
 周がようやく気づいたように何度も頷く。
「そーなの。便利だよね」
「並の泉よりも幾らか力が強いようだがな?」
 エニスは自然界に存在し、生物もほんの微量ながら常に発している。中には通常の数倍以上ものエニスを生み出す者もおり、特に強い発生源である者は巫師の言葉では『泉』と呼ばれる。
 要は不意に立ち上がり、入り口の簾を跳ね上げて出ていった。
 炎がはぜた。
「お気を悪くしたのでしょうか」
 ケアが差し出した杯を受け取り、周はちょっと首を傾げて口の端で笑う。
「仕事始めるまでは、オレ達のどこが変なのか、少なくともオレにはよくわからなかったんだけどね。だってうち変なヒトばっかりだし」
「おぬしはちぃーとも臆さぬようだが」
「そうねえ、要デリケートだから」
「でれけ?」
「えーっと、感じやすいってこと」
 老人は頷き、音を立てて木の実の殻を噛み割り、吐き出す。
「人に馴染めぬ、人には見えぬものが見える、妬まれ嫉まれ、いやはや。巫師も神人も幼き頃はそんなものだが、あれほど感じやすくては辛かろうよ」
「可愛いでしょ」
 奇妙な笑い声を上げ、老人は亀のようにぐっと首を突き出してみせる。
「しかし、してみるとおぬしはつくづく鈍いのかもしれんな」
「うーん、やっぱりそう思う?」
 周は明るく笑うと杯に口をつける。ひんやりと心地よくそれは喉を通っていく。
「ライゴウって、雷のことでしょ?」
「仮にも神の名、疎かにするでない」
 雷に撃たれて死んだ者は罪深さ故に神に殺されたのだとされる。稲妻を怒り狂う獣の姿に見立てたのではないかと暁が言ったことがある。それはまた、天から振り下ろされる神の巨大な剣だとも。
 絶対的な正義。その為にライゴウは氏族神ではなく特殊な神と見なされてきた。あえて言えば巫師集団のみがライゴウに仕える。リン人の暗黒の一面がそこにはある。
「オレが呼ぶには別に差し支えはないよね」
「心清き者なら、猛き御神も撃ち殺しはせぬよ、おそらくはな」
「それはいいとして、さっきのどういう意味」
「ふふん?」
 沈黙していたケアと視線が合う。長は木に刻んだような表情で若すぎるエニス・サイを眺め、口を開く。
「あなた方の母御は、リウという名ではありませんでしたか」
「うん?」
「リウはエルヒの娘でした」
 周が目を見開く。ややあって、ああ、と呟く。
「おとーさんの代からのおつきあいって、それかあ」
 呟いてから首を傾げる。シンチは完全な女系世襲制である。族長の娘に神人としての能力が欠けていれば、選んで娶せた配偶者を神人とする。その場合は妻を長と呼び、夫を神人と呼ぶのだ。
 先代の長エルヒには姉妹がいなかった為に彼が長を継いだ。その息子フェイは神の声を聞くことが出来ず、また不思議と娘に恵まれなかった為に孫のケアが巫師エンシによって指名され、祖父の跡を継ぐことになったのである。ケアはまだ未婚だが、遠戚に生まれた娘を妻に迎えることが決まっている。
 ケアの言葉が少ないのを補うつもりか、エンシが何度も頷いてみせる。
「でも、おかーさんはもう……」
「長の一族は短命な者が多いようだな。残念だが。アキル殿がそう言っていたのなら、確かだろう。もしや、リウに娘がおらぬかと考えておったのだがな」
「あらー、残念ね」
「おう、そう尖るな。誰もおぬしからカ・ナム殿を引き離そうなどとは思っていないわ」
「え? オレそんな顔してた?」
 周は思わず頬を撫でる。エンシは人の悪い笑みを浮かべる。
「カ・ナム殿はまことに優れた神人となろう。速き精霊がそう申しておる。だが正直言えば、儂にはカ・ナム殿の猛き力は怖い。例えてみれば雨期の氾濫した川よ。儂には秋の穏やかな湖水の如きケアの方が良い。エニス・サイとは違い、儂らの暮らしにはライゴウ神の力は要らぬからな」
「あのヒト、鉄砲水な性格だから」
「それに儂は、チィエクのエニス・サイの恨みなぞ買いたくはないわ。ましてやあれほど巫師を嫌うのでは、神人は務まらぬ」
 周は低く声を上げて笑う。
「ごめんなさいね、別にエンシが嫌われてるんじゃないんだけど」
 笑いをおさめ、彼は木の実の一つを取り上げると丁寧に薄皮をむき始める。
「長の一人娘が追放されたっていうのは、よくよくのことがあったと考えていい?」
 ごくさりげない口調だったが、エンシは横目でケアを見やり、神妙に口を結ぶ。
 リン人が氏族を離れるということは、ほぼ死を意味する。氏族間の婚姻すら深刻な事情がなければ行わず、みだりに他氏族に移ることは氏族への背信行為に他ならない民族なのだ。独りで生きることは……まず不可能といいっても過言ではない。
 年若い娘が自らの積極的な意志で出奔するのは、まずありえないとすれば。
「気だての良い、髪長き美しき娘だった」
 エンシはぽつりと言う。
 周は掌の殻と薄皮を拭い、杯に残った酒を飲み干す。
「ありがとう」
 にこりと微笑んで少年は立ち上がり、小屋を後にする。老人は長い息をつき、長は常と変わらない沈黙でそれに応えた。
 
 

 
 

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