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蓋星水滸伝番外:真夏の雪
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蓋星水滸伝番外:真夏の雪
──帰って来やしねぇ。
索超はがらんと人気のない練兵場を眺めた。
部下はとうに今日の訓練を終えて解散した後だ。うっかり居残っているとこの上官に捕まるので、どの兵もまるで自宅が焼けているかのような素早さで帰っていく。元より練兵場は別段楽しい場所ではない──よほどの鍛錬好きであればともかく。
北京大名府の正牌軍である《急先鋒》索超は北京軍内でも際立って人気の高い男だ。その上司である聞達や李成も、索超の部隊が抜群に士気の高い精鋭であることは認めざるを得ない。人好きのする笑顔にからっとした闊達な性格、多少短気でそそっかしいところがあるのも彼の場合は人的魅力となる。そして何より、大斧を執れば北京軍一の武勇を誇る猛者だ。兵士というのは結局、腕っぷしの強い男に憧れるのだ。
そんな索超隊長にも幾つか困ったところはある。訓練が好きなのもその一つだ。噂に聞く元禁軍教頭であった林冲も王進も、分け隔てなく厳しい訓練を行ったのが高官の子弟らの反感を買った最大の原因だった。兵士というのは大抵、好きこのんで軍に入ってくるわけではないから、自分の肉体を苛めて鍛え上げるよりも怠けたい。乱戦になったらその時はその時だ。……だからこそ、徹底的に部下をしごく隊長は嫌われるのが常だ。索超のような男が部下に慕われるのはひどく珍しい。
──隊長と顔をつきあわせてると、伝染るんだよ、訓練好きが。
一人の部下がそうぼやいたことがある。尤も索超の部隊は訓練が厳しい代わりに軍則がかなり緩やかで、聞将軍などにだらしないとよく小言を言われるが、それも人気の一つなのだろう。
面倒見の良い男であるから、帰りがけには部下を連れてよく酒を飲ませてくれる。酔いが回ると派手な騒ぎを起こすこともあるが、それもまた一興とばかりに部下は喜んで隊長について回った。
だが、ここ暫くはそんな恒例の楽しみも途絶えている。
大名府留守使の梁世傑がその舅に送った巨万の生辰綱が山賊によって強奪されたのが半月前。それとほぼ同時期に北京の牢城が何者かによって焼き討ちにされ、多くの囚人が脱走した。不思議なことに生辰綱強奪については厳しい追及がなく、街道や付近の村落を調査したにとどまったが、何しろ捜索範囲が広すぎるので緝捕使臣だけではなく索超らの禁軍も駆り出された。牢城の復建と脱走者らの捜索も同時であったから、ここ半月というもの、索超と部下らは目の回るような忙しさだったのだ。
今日は久々の訓練日だった。まだ残暑にもならない夏の盛りとて、武具を着けて炎天下の練兵場で槍を振るい、声を上げるのはさすがに疲れる。索超は通常の半分の量で訓練を終え、兵らを解散させた。死人が出てはたまらない。皆疲れているのだ。
彼一人が物足りずに暫く一人で大斧を振るっていた。
──あいつなら、絶対最後までつき合ってくれるんだが。
手を休めるとつい雑念が混じる。
やがて索超は汗を拭い、日に焼けてひりひりする腕に辟易しながら練兵場を後にした。
蝉が騒がしく鳴いていた。
× × ×
目元の涼しい、端正な少年だと思った。
言葉には関西の訛りがあった。勇猛な武人を多く輩出する関西の出身、しかも姓は楊。そう聞けばつい厳めしい容貌魁偉な武将を想像する。だが、索超が見たのはすらりとした体躯の少年であった。痩躯ながらなるほど腕も腰も引き締まり、静かなたたずまいは武道家のそれ、佩いた剣の鞘は質素ながらよく手入れされている。
試合前にふと見かけたその少年は、男達の汗と蒸れた革の武具が染み込んだ練兵場には場違いに見えた。
──《青面獣》だってよ。確かにあの青ヅラは目立つ。
誰かがそう言った。
元軍人で前科があること、都からこの大名府に流れ、鏢客をしていること。武術試合に出場するのは既に聞いている。腕は確かだ、肩書きつきで軍に入るのだと……聞将軍がむっつりとした表情でそう言った。つまり、留守使が贔屓にしている楊志をとり立てる為に試合が行われるのであり、初めから結果が決まっているのだと。
そう聞いた時、索超は嫌な気分になった。あの涼やかな少年に抱いていた好感が一気に失せる。洗いたての衣服に泥をなすりつけられたような不愉快さだった。
「俺に試合をやらせて下さい。周謹はこないだ病気をしたばっかりです、勝てる相手にも勝てねぇ」
楊志の対戦相手は副牌軍の周謹だ。堂々とした巨漢だが腕力に頼むところがあり、対陣の華奢な少年を侮って部下と共に何か大声で笑っている。悪い癖が出ているなと索超は舌打ちした。
「無論、儂が期待しているのはおぬしだ、索隊長」
聞達は形良く尖らせた髯を撫でつけた。
「周謹にまずやらせ、次におぬしが徹底的に打ち破る。なに、おぬし一人でもたやすいことだろうが、念には念を入れるのだ。それに周謹は梁中書が名指したから仕方がない。良いか、誰が見ても楊志の負けと判るようにな」
索超の眉間の皺がますます深くなった。
「幸いあの者は梁中書の配下ではないから留守使に恥をかかせるわけではない。腕の一本や二本、いや、殺してしまっても構わぬ。あのような素性の知らぬ流れ者に大名府軍が後れを取ってなるものか」
「関西の楊家といえば……」
「馬鹿馬鹿しい。名門の子弟であればあのようなみすぼらしいなりをしている筈があるまい。名高き楊令公の裔とでも名乗って梁中書に取り入ったのであろう」
吐き捨てた上官の卑しい表情に索超は唇を噛み、唸って一礼すると武装を整えに向かった。
面白くない。
ろくでなしの梁世傑に取り入った楊志。
それを妬み排除しようと画策する聞達達。
だが、上官や留守使の汚さあくどさを知りつつも大名府軍に属している自分は何なのだ。
× × ×
「よおぅ、索」
間延びした声に索超は弾かれたように頭を上げ、目と口を丸く開いた。
「りっ……!」
例の二つの事件以来初めて見る赤毛の大男がそこにいた。索超の真向かいに腰を下ろし、小僧が持ってきた盃を受け取ると追加の酒とつまみを注文して、勝手に酒を注いでいる。
「劉の兄貴。いいのかよ、こんなとこで」
「お前こそ一人で酒かぁ? 淋しいこった。あんまり酔って馬鹿ばっかりやってるから部下に嫌がられるんだぞ」
そうじゃなくてさ、と索超は頭を振った。
劉唐の素性を索超は知らない。尤も推測はつく。生辰綱が奪われた、あの騒ぎの直前までこの辺りをうろついていた男がぱったりと消え、暫くしてまた現れた。この男が梁世傑の周辺を探っていたことも承知だし、更に言えば索超自身──まあいい。この落ち着きぶりならきっと追及の心配はないのだろう。
「ぬるくなっちまった」
「ぼけっとしてるからだ。《急先鋒》ともあろう奴が」
劉唐は軽く目を細めて笑った。鈍重で優しい牛のように見える。索超はにやりと笑い、急に生き生きとした表情に戻った。
「久々だな! 今日はしこたま飲もうぜ」
「おうよ。おう、来た来た」
追加の酒の壺と皿が並ぶ。酒楼は陽気に賑わっており、先程まで遠く思えたその騒がしさが劉唐の出現と共にいきなり卑近になった。
「あ、そうだ。楊志に会ったぞ」
のんびりとした声。煮込み肉に噛みついていた索超は思わず吹き出した。
「なっ何っ!?」
「お前なあ、酒と肉いっぺんに飛んできたぞ」
「悪ぃ。って、どこで? あいつ無事か?」
思わず立ち上がる。騒々しさにこちらを睨みつけた近所の男達にも気づかず(男達にとっても幸いに)、索超は劉唐を覗き込んだ。
赤毛の大男がにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「ほんっとお前、可愛げがあるというか解りやすいっつーか」
「劉」
「えーと、どっち行くって言ってたかなあ」
からかわれていることに気がついて、索超は真っ赤になりながら席に座り直した。
× × ×
水をも切り裂くように舞う白刃。
僅かに開かれた唇。
受け止めた穂先の煌めき。
馬が嘶き、乾いた地面を白く蹴りつける。
ひとひらの雪のように冷たく。
ほんものだ。
汗でずっしりと重くなった籠手を放り出し、革甲を床に落としながら、索超はゆっくりと息をついた。手慣れた大斧がこれほど重く感じられたことはなかった。自分の腕さえも、鉛を溶かし込んだように重い。
あの楊志という少年の腕は、ほんものだった。
聞都監が気を利かせて引き分けなければ自分が馬から突き落とされていたかもしれない。いや、楊志が先に力尽きたかもしれない。どちらが勝っても負けてもおかしくはなかった。
──すげぇぞ。
笑いがこみ上げてきた。今まで自分とこれほど長く渡り合えた者はいなかった。部下を一度に五人相手しても、楽々と勝ててしまった。それが、あの少年一人にどうしても勝てない。
──借り物だってのに。
楊志の武具も馬も借り物だった。使い込まれた装備とそうでないそれとは違う。新品の革は滑りやすいから最初に泥をまぶしておくものだし、武具だってあの細い身体にはぴったりとしなかった筈だ。つまり、自分の方が有利だったのだ。
「ははは、負けた! すげぇぞ!」
体を拭く為の水を用意してきた部下がその楽しげな笑い声に驚いて立ちすくんだ。索超は機嫌良くそちらを振り返り、手拭いを固く絞りながら訊ねた。
「楊志はどうした?」
「はあ? さあ、向こうの房で休んでいる筈ですが……」
「後で酒飲みに行こって、あ、いや、俺が行く。お前らも来るか?」
「そりゃもちろん。隊長、ご機嫌ですね」
にやにやしながら手拭いでぴしゃりと自分の肩を叩き、戦袍を手早く着込んで、索超は房を出た。
強い奴がいる。自分よりも強い奴が世の中にはまだまだいる。その一人に出会えたことが索超にはたまらなく嬉しかった。狭いこの城でくすぶっていたちっぽけな自分に、わざわざ会いに来てくれたかのように。
しかも、自分よりもずっと若い少年なのだ。
「おーい楊志!」
その房に入るなり呼びかけると、楊志はちょうど着替えを終えたところだった。こちらに背を向けて帯を締めながらちらりと一瞥してくる。その愛想のなさも気にならなかった。
「祝い酒。今日は俺の奢りだ、早く行こうぜ」
「……いつ行くと言った?」
「だから誘ってるンだろ。そこの手羽先の煮込みが美味くてさ」
「大体何の祝いだ」
ああ、と索超は苦笑した。自分にとっては強敵と邂逅した祝いなのだが、この少年にとっては……。
「あ、そうだ。お前が同僚になる祝い」
「軍には入らない」
「何で!?」
「元々私はそんなつもりはなかった。梁中書が気を回して下さったようだが、前科者の身でいきなり取り立てられても周囲が納得するまい」
「そっかなぁ……でも、当分梁中書ンとこにいるんだろ?」
怪訝そうにこちらを見た楊志に、索超はにやっと笑って肩を叩いた。
「手合わせ、またやろうぜ。お前との一試合は百日分の訓練よりも身になる。いやぁ、面白かった」
「……それはいいが」
「よーし、行こうぜ酒! 早くしねぇといい席なくなっちまう」
ますます不思議そうな顔をした楊志の肩を抱いて索超はふと戸惑った。鍛えられてはいるが所詮少年の肩だ、骨が細く肉もまだ薄い。男臭さもないその身体からは何のにおいもしなかった。
こんな細っこいのに負けたんだな。
不思議で仕方なかった。
けれど、他愛なく酔いつぶれた楊志にもう一度肩を貸した時、その痩せた身体が見た目よりもふにゃりと柔らかいことを知った時には驚きはなかった。──ああそうか、と漸く腑に落ちたくらいだ。
さらりと額にこぼれる繊細な髪。
形の良い、薄い唇。
自分はもしかしたら、最初から気づいていたかもしれない。
何故男のなりをしているのか、と訊いたことはない。訊くということ自体を失念していた。楊志にはその禁欲的な装いが似合いすぎるほど似合っていたから。
元々、槍ではなく剣にこそ本領があるのだと知ったのはその次に手合わせをした時だ。思わず笑いが込み上げてくるほど速く、容赦のない剣だった。
楊志の方も索超との試合が気に入ったらしい。二人でごく慎ましい酒宴を張ることも──多弁な索超も楊志と飲む時は静かだった。大声でいつものように騒いでいては、楊志の素っ気ない返事を聞き逃してしまうのだ。
そんな日々がそう長くは続く筈がないと気づくには、索超は若すぎたのかもしれない。
× × ×
「えーと、最後に見たのがあそこで、俺様や親分がこっちに来たから……でもこっちは馬で楊志は多分徒歩だったしなあ」
「劉……あんた、思い出さないうちは帰さねぇぜ」
「うはは、だったらここでずっと酒飲んでいられるなぁ。わ、おい、苦しいって」
──今度は俺がお前に会いに行くんだ。
雪の匂いのような、あの気配を思い浮かべる。
──その時までにもっと強くなっていないとな。
あの容赦のない剣は自分よりも弱い男など歯牙にも掛けないだろうから。
索超は苦笑した。それはなかなか難問だ。
「教えねぇと歌うぞ!」
「うわははは、やめろって、この酔っぱらい」
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