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蓋星水滸伝番外:二仙山の朝
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蓋星水滸伝番外:二仙山の朝
二仙山の朝は、新参弟子の悲鳴から始まる。
「ひ、ひゃああああ」
「騒がしい。何事か」
「道人様……壁から女性が、こう、ぬっと……」
先日やっと入山を許された道童が、まだ産毛にくるまれた頬を青くしながら壁の一点を指さしてべそをかいている。傍らには投げ出されたままの箒。朝の掃除にかかっている他の者達は、ある者はそ知らぬ顔で、またある者はこっそりと笑いながら自分の務めを黙々と続けている。
陶道人は胸中で嘆息した。だが彼は若い弟子達を統括する立場にある者、みだりに平常心を失っていてはならない。ましてや、こんな事には慣れている。不本意ながら。
「公孫勝!」
響き渡ったその厳めしい声に、廊下を磨いていた弟子達が身をすくめた。
ここにいる弟子は皆、多かれ少なかれ陶道人の世話になっている。元は禅宗の僧侶だったという、眼光鋭い険しい顔の男であり、「あの声で喝を入れられたらさぞ効くだろうな」と、少し慣れてきた弟子達などは宗派違いの感想をこっそりとよく洩らしている。誰しも陶道人に頭が上がらないのは勿論、とうに成人した者でさえ彼の怒声には思わず頭が下がってしまうのだ。
ところが、そんな陶道人の怖さも通じない者もいる。
「はあい」
その返事はどこから聞こえたものやら。
むく犬のそれのような、ふさふさとした赤っぽいものが壁から生えた。新参弟子がぎゃっと叫んで陶道人の背後に隠れる。
壁から生えたのは確かに人間の首だった。黒目がちの大きな双眸できょろりと陶道人を見上げ、にこりと笑う。
「オレを呼んだ?」
「見苦しい」
「あれ? ここ壁かぁ。ごめんね」
首に続いて道服の肩が現れ、腕が現れ、ふわりとそれらが宙に舞ったかと思えば地に降りていた。悲鳴を上げた新参弟子が陶道人の腕の陰から覗き、目と口を大きく開けている。現れたのは五体揃った人間──彼より幾つか年上に見える道童であった。
年下の孩子の視線を受けて、公孫勝と呼ばれたその少年は微笑み返す。新参弟子はもじもじと陶道人の袖に隠れた。女と見間違えたのも無理はない、優しい顔立ちの綺麗な少年だったのだ。
「いい加減に、自分のいる場所が地面の上か壁の中かくらいの区別はつかぬのか」
「さっきまでは確かに、ちゃんと牀の上で寝てたし、今は客房の掃除をやってたんだけど」
見れば確かに、公孫勝が手にしているのはハタキだ。
陶道人は表情一つ変えなかった。十年近く顔をつきあわせていればさすがに慣れる。
「公孫勝、掃除は後輩らの務め、そなたはしなくて宜しい。己の修業に励むが良い」
新参弟子は思わず公孫勝の顔を見上げた。ではこの少年はこれほど若いというのに高弟の一人なのだ。確かに彼が着ているのは自分ら見習いの青い麻服とは違い、颯爽とした湖色の道袍である。誰の弟子かは判らないが、先程壁から現れたのもその仙力の一端なのだろう。
小さな孩子の目は驚きから尊敬の色に変わった。公孫勝の科白の内容に疑問を抱く余裕などない。
公孫勝は首をかしげた。
「掃除も修業のうちじゃないの?」
「そなたのは掃除とは言わん。これ以上器物を傷つけるな──いつもの修業に戻りなさい」
はあい、と一人前の筈の少年道士は幼児のような笑顔で答えた。ちらと新参弟子に視線を向ける。
「新しいヒト?」
「は、はい、小藍と申します、師叔」
師叔とは師の弟弟子という意味であるが、目上の者に対する便利な敬称でもあった。羅真人の高弟の弟子見習いの末席にいる小藍から見れば誰もが目上なのだから、わざわざ考えることもない。
「オジサンになったみたいで面白いね」
公孫勝はくすくす笑ったが、陶道人はにこりともしなかった。
「その呼称に値するようになるには、まず壁と空気との区別はつけるように。もう行くが良い」
「はあい。またね、小藍」
ひらりと道服の袖が翻るともう、その姿は忽然と消えていた。
その日一日、小藍は憑かれたように公孫勝の話を兄弟子達に喋り続け、様々なお小言をもらうことになる。
そしてその後、公孫勝という道士が年若くして羅真人の高弟であり、卓越した仙力によって密かに知られている──と知り、ますます憧れの念を強めていく。
二仙山に入った見習いの誰もが通る道である。
小藍が再びその天才道士に遭遇したのは、それから数ヶ月後、夕餉の粥に入れる青菜を摘みに畑に出た時だった。
「こ、公孫勝師叔っ!」
はい? と振り向いた少年道士の秀麗な顔には泥の塊が幾つかついていた。御丁寧に、鼻の頭も丸く汚れている。
「あ、小藍。ちょっと背が伸びた?」
「え、はい、そうかも……あの、師叔、お顔に泥が」
公孫勝は茶色い手で顔をこすった。ああ、と思わず小藍は青菜を入れる籠を取り落とした。
「あの、何をなさっておいでですか?」
「そう、見て見て、すごいんだ。ホラ地上に出てるのはこれだけなのに、根っこはこんなに長いんだよ」
公孫勝が示したのは芋の根のようだった。もじゃもじゃと長いそれを、まるで貴重な玉でも掘り出すかのように丁寧に掘り上げ、畦の間に寝かせている。道具も使わずに掘ったとみえて、両手は見事に土の色だ。
「……枯れちゃいますよ」
「あ、そうだね。戻さないと」
公孫勝は大事そうに芋の蔓を穴にそろそろと納めていく。それを見守りつつ、小藍は内心で首をかしげた。これも修業なのだろうか。
修業のうちには師の説法を拝聴することも無論含まれている。月に一度は羅真人の説法も聞くことが出来、小藍は先日、初めてそれを聴いたばかりだった。
──童心こそ道の極みなり。
羅真人はゆっくりとそう言った。
孩子のような、純真で無垢な心の境地に到るのが道家の目指すところである、と。
或いは、孩子のように探求心の赴くまま遊ぶことだと。
間近で聴いている高弟達が皆、威厳のある老人ばかりなのだから、その言葉は説法の中でひどく異様に思えた。
羅真人は明確な解釈を施さない。高弟の間でも師の言葉の解釈は様々に論じられているらしい。安易に道を示さず弟子達をただ見守る、その姿勢は他者を遠く突き放しているように、小藍には見える。だからよく叱りながらも指導してくれる陶道人の方が、よほど師匠らしい人物に思えてならないのだが。
「師叔は羅真人の直弟子なんですよね?」
すぐ近くで無心に土を両手で固めている泥だらけの少年道士を小藍は見つめた。──あの仙人のような真人様は、一体どんな修業をこの人にさせたのだろう。
「そうみたい。直接お小言を言われるってことでしょ?」
「お小言ではなく、ありがたい教えを受けていらっしゃるのだと思いますけど……」
「うん。すごく教えてもらってる」
「どのようなことを教えて頂くんですか?」
公孫勝のあまりの気安さに、つい口が滑った。だが少年道士が気を悪くした風はない。
「オレはここに個として存在するんだから空中分解しないようにとか、自分と回りの区別をつけるようにとか、あ、それ同じことだね」
「……」
公孫勝が羅真人の高弟の中でも並外れた仙力を持つことは、多くの者が認めるところだ。軽々しい振る舞いとあまりの若さゆえに、彼の存在に眉を顰める者も少なくはないのだが、物語に登場する偉大な仙人めいた奇矯な言動が公孫勝をますます神秘の人物にしていた。特に、ごく若い者達には彼を密かに慕う者が多いらしい。まだ性の分化を感じさせない秀麗な容貌も俗塵にまみれることのない雰囲気も、それに拍車を掛ける。
──だが、こうして畦の一つに腰を下ろし、芋の蔓で遊ぶ様子はどうだろう。
小藍の視線に気づいたのか、公孫勝が顔を上げた。にこりと笑ったその双眸に孩子は心うたれた。まるで自分がひどく年上の、嘘ばかりつく小狡い男であるかのように思えたのだ。
「小藍はすごいね。ホントにすごく自然に存在してるんだね」
「……あのう?」
「オレね、気を抜くと自分と他のものがどこから別物なのか判んなくなるんだ。他の星も根底は一緒だけど、天間星はヒトとしての自意識が一番希薄なのが特性だからって言われた。だから気がつくと壁から顔を出していたりするんだよ」
小藍には最後の言葉しか解らなかった。それは自分で目撃したからだ。
「道家の目標は自然合一ですから、それでいいのではありませんか?」
習ったことを思い出しながらそう答えると、公孫勝は首をかしげた。
「オレはオレになりたいな。空気に溶けちゃったら元に戻っちゃうじゃない」
「元とは?」
「生まれる前」
小藍は小さな頭を懸命に働かせて彼の言葉を考えてみた。どうやら自分の師の教えとはだいぶ違った意見らしい。道を究めつつある道士達の間で意見が合わないのは珍しいことではないというが、公孫勝はもしかすると、あまり道士らしくないのかもしれない。
「別にヒトじゃなくても良かったんだけど。ホラ、こんな風にしっかり長く根を張った草とか、虎でもいいな。でも虎だと小藍が怖がるからダメだね。青菜だったら食べてもらえるけどすぐなくなっちゃうし」
「……僕は師叔が人間で良かったです」
そう? と公孫勝は嬉しそうに言った。その笑顔を見て、小藍は再び羅真人の説法を思い出した。
道を究めれば道家ではなく道そのものなのかもしれない。ならば、道士らしくなくてもいいわけだ。尤もその師の羅真人はどこから見ても隙のない、高徳の道士であるが。
「師叔はその、道士としては随分変わっておられますね」
自分の感想をどう説明すれば良いか解らなかったが、小藍は何かこの天才道士に気の利いたことを言ってみたかった。口から出たのはともすれば無礼な言葉だったが、公孫勝は声を上げて笑った。
「オレよりもっと道士っぽくないヒトいるよ」
「え?」
「小さい頃に会ったんだけど。それがねぇ、すっごく大きくて、顔中ヒゲだらけで、大昔の聖人みたいに人間離れしてた。というより樵夫か猟師かな? 腕が木の根っこみたいにこぶこぶなんだ。オレの頭をくしゃくしゃにして、『よう』って言ってくれたんだけど、笑ってるのか怒ってるのかよくわかんない顔だった」
× × ×
──よう、と彼は言った。幾つもの感情が交じり合ったその声に、一番近いものは苦笑であったかもしれない。
「たまには子守りもいいだろ、羅睺」
呼びかけられた白い長鬚の老人は全くの無表情だったが、これはいつものことだ。
端然と座る羅真人の向かいに腰を下ろした巨躯は公孫勝の小さな身体を片手で掬い上げると、自分の片膝の上にひょいと乗せた。まるで樹の切り株に腰を下ろしているような気分だった。
そう、この巨人の雰囲気は、まるで泰然とした深い森林のようだった。
「ちゃんと人間の形をしてるじゃねぇか」
「漸くその程度は憶えたようだ」
「力全部を身体に詰め込む必要はねぇが……おい、ちびころ。転んで痛い思いをするのも美味いものを喰うのも笑うのも喋るのも、全部てめぇがやるんだ」
巨漢の目を公孫勝は見上げた。炯々とした、その強さに惹かれてふと手を伸ばすと、こわい頬髭に触れた。
巨漢が笑う。
「人間やんのも面白いだろ?」
──次に会う時は俺と来る時だ。
彼は最後にそう言った。
× × ×
「その方は羅真人様のお弟子か何かでしょうか?」
「さあ」
本当に樵夫だったのではないかと小藍は内心こっそり思う。
遠くで兄弟子の苛立った声が聞こえた。小藍は慌てて青菜を摘み始めた。
二仙山の通過儀礼はまず、天才道士・公孫勝に魅惑されること。
ついで、この少年の韜晦ぶりに振り回されること。
更に利口になって公孫勝の奇矯ぶりにたじろがなくなれば、そろそろ修行の成果が現れてきたと見て良い。陶道人の元から離れて一人前の弟子として本格的に修行を始めるのは、その頃だ。
公孫勝と親しくなった小藍がその境地に到るのは、人よりも少し早いかもしれないし、到達出来ないかもしれない。
痛ぇっ!という声はまだ声変わりもしていない孩子の声だった。舞い降りていく彼を睨み上げる黒い双眸、小さな身体。ぞくぞくするほど嬉しくなった。
「てめえ何しやがる、いくら布靴でもそれだけ高いとこから落とせば痛ぇんだよ! ふざけてんじゃねーぞこのクソ道士」
「ちょ、晁蓋さん、人が飛んでいるんですけど」
「今は降りてきてるだろうが。ああ? このアホ道士、何笑っていやがる」
──うん、すごく面白い。
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