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蓋星水滸伝 9
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蓋星水滸伝
第八章
《白衣秀士》王倫は盃を手にしたまま客人を見やった。これで五度目だ。
酌をしているのはまだ不慣れな娘であり、おどおどと梁山泊の主の横顔を盗み見たが、王倫は盃を干してはくれなかった。
「翠玉。頭領はもう酒はいいそうだ」
ざらりとした低い声に彼女は我に返った。厳めしい顔の壮年の男が王倫の反対側からこちらを見ている。副頭領の杜遷だ。翠玉は王倫に微笑んでみせ、身を退いた。裾を翻さないよう注意しながらも、つい足早になる。僅かの間だけでも王倫の側を離れたかったのだ。
杜遷は娘の後ろ姿をちらと見送った。
杜遷は今年五十二歳になる。王倫よりも幾つか年上の彼が副頭領の座にいるのは、昔から王倫の才知に敬服してきた為だ。粗野で無骨な杜遷にはない王倫の知性や演説の巧さは、いつも彼を圧倒した。
幼い頃から神童と呼ばれ、十五歳でらくらくと郷試に受かって秀才となった王倫は故郷の誇りであった。おそらく二十歳前に科挙
を進士及第して翰林院に入ることだろう、そうすれば先は思いのままだ──そう評されてきた王倫は、しかしその後何度も科挙に落ちた。
科挙の結果は採点官の好みで左右される。今年の採点官は頭が古い、今年の採点官は賄賂の額で選んだ……そう悔しげな顔をしていた嘗ての神童は、三十台の半ばを過ぎた頃に故郷を離れた。
潔い男だと杜遷は感じ入った。科挙試験は四年に一度しか実施されないが、夢を諦めきれずに老生として生涯受け続ける者は少なくない。裕福な商家の息子が科挙を受け続ける為に財産を使い果たすこともよくある話だ。王倫の生家もまた大きな商家であり、弟に期待をかけていた兄が援助をしてくれていたが、そろそろ経営が思わしくないようだった。三十代半ばで諦めるのは早い方だ。
──我が才知を認めぬ燕雀共の下につくつもりはない。
故郷を出る時に王倫はそう言い切った。高価な書物を破り捨てた彼の気負いに杜遷は感じ入り、王倫を兄と呼んで義兄弟の盟を交わした。
杜遷は字もろくに読めない。取り柄といえば喧嘩の強さと博奕くらいだった。その杜遷を何故かこの秀才はよく贔屓してくれた。仇討ちの相手を半殺しにした時も、王倫の取りなしで何とか入牢を免れたのだ。図体の大きなこの暴れ者が、城一番のいかにも利発な少年の後について歩く様は滑稽であった。
私達は新しい世を作るべきなのだ、と王倫は言った。
──見ろ、京師は曇っている。仁徳高き哲宗皇帝の御まなこは佞臣共によって塞がれ、賄賂と陰謀に満ちている。商人共は暴利を貪り、軍とくれば胡狼の住処。貧困に喘ぐ黎民はどうすればいい、何を頼りにすればいい。
きっと開封の方角を睨み据えていた王倫の、あの眼差しを杜遷は今も憶えている。
……憶えているだけなのだ。
どよめきと喝采が湧き起こった。
二つある水塞の一つ、鴨嘴灘側の水辺に上がった男の姿が遙かに見えたのだ。巨大な魚を素潜りで捕らえたらしい。
白日の下で鱗が銀塊のように輝いている。
「凄ぇ、六尺、いや七尺か」
元漁師らしい男が呟いた。
「誰だ」
「《短命二郎》の兄さんでさ、副頭領。あの人でかいから魚の方が小さく見えら、はは」
噂の客人だった。
梁山泊の滸で酒店を営む《旱地忽律》の朱貴がこの山塞に通すのは、よその山賊からの使者か腕の立つ有望な者ばかりだ。朝廷側の間諜でないかどうかはじっくりと調べられている筈なのに、近年の王倫はなかなか新参者を受け入れようとしなかった。去年鳴り物入りで加わった《豹子頭》林冲など、勇名の高さに王倫も受け入れざるを得なかったが、相変わらず冷遇されている。
《豹子頭》は飯に毒を盛られている。そう告げた者がいたと、宋万が言っていた。誰が、などと言う必要はなかった。この山塞には林冲の敵は一人しかいないのだ。
他の者達が杜遷に耳打ちしなかったのは彼が王倫の腹心であることを誰もが知っているからだ。しかし宋万があえて杜遷に告げたのは、杜遷の器量を試したのだろう。ここで密告者を始末すれば自分は宋万に見限られる、そう杜遷は悟っていた。
誰よりも、杜遷自身が憤った。
世を革めるのではなかったのか。梁山泊に人を集めたのは朝廷に対抗する勢力を養うのではなかったのか。
……とうに王倫の理想など風化していることは杜遷が一番良く知っていた。否、元々理想などなかったのかもしれない。彼はただ己を拒んだ官僚社会を憎んでいただけだったのかもしれない。
林冲は何も言わない。不平も、愚痴の一つすらも。
淡々と武術の修練に励み、教えを請う者がいれば手ほどきする。昼間は王倫の陰湿な目が光っているので、林冲の授業は宴会の時刻、或いは日が落ちてからだった。その数がだいぶ増えたことを杜遷は知っている。実は宋万もその一人であることを杜遷は承知していた。元禁軍教頭というだけあって、林冲は蛇矛や槍棒だけではなく剣や弓も人並み以上に善くするようだ。
──あの男はここに来てからまた強くなった。
杜遷は隅の席に座っている林冲を見やった。
元より杜遷の腕は林冲に遙かに及ばない。それでも彼の凄味は解る。衣服を通してその錬鋼のような肉体が力を放っている。
「七尺半!」
誰かが叫んだ。あの客人が捕らえた巨魚が運ばれてきたのだ。まだ暴れている。水飛沫が跳ね、男達の顔に跳ねた。誰もが阮小二の腕を誉めそやしている。
肌脱ぎになった客人がゆっくりと歩いてきた。見事な体躯から水が滴っている。女の一人が小走りに駆け寄り、拭い布を差し出した。翠玉だ、と杜遷は気づいた。今は作り物でない笑みがこぼれている。駆けた拍子に緩んだ簪が落ちたのを阮小二が拾ってやると、翠玉は顔を赤らめて逃げ去ってしまった。
不幸な娘だ。杜遷は胸中で呟いた。商人の娘であり、開封に向かう途中であったのを襲撃され、自分らの虜となった娘だった。
彼女がいた隊商の若い衆の中に、あの客人にどこか似た顔立ちの青年がいたことを杜遷は思い出した。阮小二は堂々たる好漢、あまりに体格も雰囲気も違うので誰も連想はするまいが、杜遷は死んだ青年の顔をよく憶えていた。
ふと王倫の朗々とした声が耳に入ってくる。
「いや見事。類い希な臂力を堪能したぞ、《短命二郎》。余興の褒美を取らせよう」
客人は黙々として会釈した。
「朝廷に跋扈するのは薄のろばかりだ、蹴鞠の高俅然り、宦官の童貫然り。憂き世ではないか」
「真に」
阮小二が呟いた。
口数の少なさでは林冲といい勝負だな、と杜遷は可笑しくなったが、浮かびかけた笑みは途中で消えた。林冲が数語以上を喋ったのは初めて挨拶を交わした時だけだ。
あの時の林冲はまだどこか荒んだ目をしていた。
阮小二の細い目は表情が窺い知れない。間近で見てみたいものだと杜遷は考えた。小さな漁村の顔役と王倫は評したが、どうして、なかなかの人物ではないか。よく見れば宋万よりも若いというのに、この落ち着きぶりは見事だ。
王倫が不意に客人の機嫌を取り始めた狙いが読めてきた。
「そちは武芸にも秀でていると聞く。漁りとはいずれが勝るかな?」
「さ。弟らが上かもしれん」
「なんと謙虚な御仁だ。これぞ好漢」
王倫が手を打った。
「一つ手合わせを見たいものよ。我が山塞に豪傑は多かれど、林冲殿に匹敵する者はおらぬ。どうだ、阮小二殿? 勝った側には銀三十両を取らせよう」
いつかの吹雪の夜を杜遷は思いだした。
逃げのびてきた林冲が梁山泊に加わる為に、王倫は『投名状』を要求した。投名状といっても書状ではない、付近を通りかかった者の首だ。それも腕の立つ者が相手でなければ認めぬと王倫は言った。手を汚し、山賊として後戻りが出来ぬよう心構えを見せろという意味だ。杜遷や宋万が林冲を庇ったのが余計に癇に障ったらしく、ねちねちと苛め回した後に三日という期限をつけた。それが出来なければ間者と見なして首を貰う、と。
林冲はほんの少しの間黙っていた。官兵に追われ、刺客を倒し、飢えと寒さでげっそりと痩せていた。額にまだ生々しく刺青が残っていた。
──好、と彼は一言だけ答えた。
あの時自分は初めて王倫という男を軽蔑したのだ。杜遷は今更のようにそう気づいた。
「林冲殿、宜しいかな」
王倫がにこやかに林冲へと視線を向ける。寡黙な男は阮小二を見やり、頷いた。
蛇矛と朴刀が噛み合う度にどよめきが生じた。
実戦の迫力とはまた別の、いわば演武の凄味だ。林冲が様々な型を繰り出しては阮小二が受ける。目にも止まらぬ連続技に一同が固唾を呑んだ次の瞬間には離れ、ゆるりとした緩い動きに移る。この緩急の差がしかし最も危険なのだ。
阮小二はいつ息を継いでいるのだろう、と宋万はちらと考えた。自分なら今の間合いで気を散らしただろう。《豹子頭》がそんな隙を見逃す筈はない。型通りの稽古でさえひどく疲れるのに、あの二人は既に半刻も対峙したままだ。
朴刀が空気の層を断つ、ほれぼれとするほど力強い音。地面にめり込む踏み込み。強いが力任せではない。あの蛇矛をいとも軽く受け流しているように見えるのは、巧みな角度で受けているからだ。普通ならば刃を折られる。
あの雪の日の旅人を思い出す。
《豹子頭》が返り討ちになりかけた、あの夜だ。彼らの勝負を見たのは自分と杜遷と王倫の他にはほんの数人しかいなかった。
今思い出しても身震いするほどの技量の旅人だった。右頬に目立つ青い痣があることを除けば端正で華奢な、少年と言ってもいいほどのごく若い男だったが、山賊が跋扈する地域で襲撃されたというのに平然としていた。
彼が林冲の朴刀を叩き落としたその瞬間、自分の全身が凍ったような気がしたのを憶えている。嫌な響きを聞いた。柄が外れたか折られたか、拾ってもただの鈍器以下であることは明白だった。
拾い上げる隙などある筈はなかった。林冲の攻撃が重く剛いとすれば相手は華麗、舞い散る雪よりも冷たく冴えていた。あの瞬間に林冲は死んだと思い込んだのは自分だけではなかろう。
二人とも息が荒かった。白い息をつきながら、しかしあの旅人は、
得物を替えろと、
そう言ったのだ。
「見事!」
立ち上がった杜遷の声が響いた。
裸の上半身を光らせた二人の好漢がそれぞれの武器を脇に戻すのと同時だった。一斉に歓声が沸き起こる。まるでこの勝負は林冲と阮小二と杜遷が仕組んでいたのではないか、そう宋万が一瞬錯覚したほどの絶妙の頃合いだった。
王倫が一瞬苦虫を噛みつぶしたような顔をしたのを宋万は見逃さなかった。彼は勝負の終わりなど宣言していない。おそらくどちらかが疲れ果てるまで続けさせる腹づもりだったのだろう。この炎天下ではそのまま死ぬことも珍しくない。しかし、これだけきれいに終了してしまえばもはや場の采配は王倫のものではない。何か言えば自分の評価を下げるだけだ。
──機。
今この場の機を掴んだのは杜遷か、それともあの二人のどちらかか。
いや、天だろう。宋万は胸中で呟いた。
「褒美は両者に与えよう。素晴らしい勝負だった」
王倫が悠然と笑う。再び歓声が生じた。彼に心酔しきっている者は少ないが、この山塞の主として相応しい大人物だと考えている者はまだかなりいる。陰口を叩く者はいても害そうとは考えない。微妙な頃だ。
里のおとなしい人々からみれば皆胡狼に等しいほど獰猛な男達であるが、義理は重んじる。梁山泊をここまで大きくしたのは王倫であり、ならず者らを迎え入れたのも王倫だ。それが多少狭量で吝嗇な小心者だとしても、男達は実際の王倫像よりも彼から受けた恩義の重さを大切にするのだ。林冲とて同じ、仮にも四番目の席を与えられたからには王倫の命令に従わざるを得ない。仮に彼が王倫に楯突けば、《豹子頭》の名声もそこで終わりだ。ここでは何の役にも立たなくなる。
それをひっくり返すには、と宋万は考えた。皆の前で王倫がいかに見下げ果てた男であるかを知らしめなければならない。だが王倫は狡猾だ、これまでずっと君子然としてその地位を保ってきたのだ。自分も何度も騙された。
……だが、早々に王倫をどうにかしなければ、林冲殿が殺されてしまうかもしれない。
水に注意するよう伝えてから林冲の体調は回復したようだ。あの人があれほど頑健でなければとうに牀から起きあがれなくなっている。
それにしても頑固な人だ。宋万は思わず苦笑した。ちょっと節を曲げて阿ってみせれば王倫は安心するかもしれないのに……だからこそ、自分は林冲という人間に惹かれたのだ。
「塞主」
手下の一人が蔭から王倫に何か囁いた。金砂灘の見張りの者だ。どうやら朱貴から何か連絡があったらしい。
上機嫌をつくろっていた王倫の顔が、ちらりと狡猾そのものと化したのを宋万は見た。反対側に座っている杜遷と目が合う。
これから何か起こる。
× × ×
梁世傑は涼しい夜風に目を細めた。
ここ数日どうも風邪をひいていたらしく、気分が優れなかったのが嘘のようにすっきりと治った。今日はお顔の色が宜しいこと、と蔡夫人が呟いたほどだ。
妻は自分の体調のことばかり気にしては大騒ぎするくせに、夫が不調を訴えると文句ばかり言う。──おおかた、またどこか卑しい女の処にお出かけになったのでは? それともお酒が過ぎたのではございませんこと? ところで相公、例の品々、父の生辰には間に合うのでしょうね。
「大足のつり目の癇癪持ち婆。ふん、家柄以外に何の取り柄もない女ではないか」
小さく声に出してみると気分が良かった。せめて今夜くらい、妻や岳父のことを忘れて涼しい夜風を楽しみたいものだ。
まさか聞き返す声がある筈はなかったから、頓狂なその声を聞いた瞬間に彼は靠背椅から転がり落ちた。
「大足って誰のこと?」
「う、うわっ?」
書机の脚にいやというほど背を打ちつけ、息が詰まる。顔のすぐ脇に立っていた人物を逆さに見上げ、彼は唖然とした。
「楊志ではないか。何故ここに……誰がお前をここに通した」
埃まみれの旅支度のままの鏢客がいつもの無表情でそこにいた。その側には湖緑色の道服の少年。起きあがろうとした彼の肩を大きな脚が踏みつけた。楊志の逆側に赤毛の巨漢が立っていたのだ。
傷跡だらけの怖ろしげな顔がにやりと笑った。明かりに照らし出され、余計に不気味に見える。
「だ、誰だ、この無礼者は、楊志」
大声を上げようとした梁中書の頬にひやりと冷たいものが触れた。大男が短刀で撫でたのだ。弛んだ頬の皮膚にひっかかり、血は出なかったが梁中書は縮み上がった。
「うっかり動くと危ねぇですぜ」
「例の書簡は確かにお届けした。恩相」
抑揚のない口調で楊志が言った。
「書簡」
鸚鵡返しに呟き、梁中書は眉を寄せた。そうだ、確かにこの鏢客には開封の別邸の都管宛の書簡を預けた。中身は十万貫相当の手形。間違いない。
……だが、何かを自分は忘れているような。
「それと、この者共とがどういう」
「おおっと、こいつはすいやせん。俺様の脚が勝手にね」
大男は短刀をしまい込んだ。梁世傑の襟首を両手で掴み、軽々と持ち上げる。彼は倒れていた靠背椅を片脚で蹴り上げて起こし、生き人形のようにぽかんとしている梁中書をそこに座らせた。
「よ、楊志。こ奴らは何者だ」
我に返った梁世傑は己を励まして声を上げた。
賊は楊志と大男に少年道士、他に若い娘と顔色の悪い痩せた男。どのようにしてここまで侵入したのか……広い庭園にも房の外にも警護の者がいる。
そうだ、房のすぐ外に屈強な男達がいつも控えている。そう思い出して梁中書は幾らか落ち着きを取り戻した。
「楊志、貴様儂を謀ったのか」
「いや。仕事は果たした。では」
楊志は踵を返して離れようとする。梁中書は慌てた。
「ま、待て、楊志。待ってくれ。そうだ、そなたに謝礼を渡さなければな」
「要らない」
「な」
「書簡を届けたことは届けたが、もはやあれは恩相のお役には立つまい。だから要らないと言った」
「何を……貴様、やはり手形を」
楊志はじろりと彼を見下ろした。
「手形? 書簡だと言われなかったか」
「そうだ。だが中に」
おかしい。
生辰綱、という言葉が梁中書の脳裏に浮かんだ。そうだ、蔡太師への生辰綱は一体どうしたのだ。
「生辰綱は? 十万貫相当の珍品財宝だ」
「そのようなものは私は引き受けていない」
「何を、儂は」
「手形入りの書簡。そうでしたな」
混乱した梁中書の顔を一同は見下ろしている。
「楊志……」
「開封の陳都管こそ恩相を謀っていたのではないかと思う。ひとつ証人を連れてきた」
端麗な顔立ちの少年道士がにこりと笑い、その足元に座り込んでいた老人を指さした。初めてその存在に気づいた梁中書は驚きの声を上げた。
「都管。謝都管ではないか、奥の」
老人はぐっすりと眠り込んでいるようだ。
「この者、左道と手を組んで恩相を陥れていたようだ。ここ何日か意識が朦朧となさっていたのではないか?」
「ううむ……確かに」
「この一清道人が術を見破り、恩相をお救いしたが、届けた後書簡がどうなったかを私は知らない。だから報酬は必要ない」
呆気に取られている梁中書に軽く頭を下げ、楊志は房から出ていった。その口元にうっすらと浮かんでいたものが笑みであったとは梁中書は知らない。
楊志の退場を見送った小七が首を傾げて公孫勝を見やった。廊下には警護の者がいる筈だ。
「あれそのまま外に出れんの?」
「うん。扉と表門をダイレクトに繋いじゃった」
相変わらず奇怪な返事だが、小七は最初の部分だけ聞いたことにした。
梁中書が我に返り、見知らぬ者達の中に一人取り残されたことに気づいてぎくりとした。だが、いかにも凶悪に見える者は一人きりだ、女や少年ではないか。彼は努めて笑みを浮かべた。
「そ、それでは、おぬしらが都管の悪巧みを防いでくれたのだな?」
その眼差しは一清道人と楊志に紹介された、最も無害そうな公孫勝に注がれている。
彼はきまり悪そうに仲間を見回した。
「悪巧みだったのかなあ。具体的にこの人何したっけ」
実に大真面目だ。劉唐が小突いた。
「まず例の左道引き入れたろ」
「ああ、身分詐称?」
「このダンナに術かけたし」
劉唐が梁中書を指さす。
「そうだ、何たる奴め。儂の生命を脅かそうとは」
「生命に別状はなかったと思うな。あ、でも放っといたら謝道士とこの人のいいなりになっちゃってたかもね」
「ますますもって怪しからん!」
「でも結局、楊志さんの持ってたお宝もらったのオレ達じゃない?」
「ああ馬鹿、言わんでいいことを」
劉唐が公孫勝を羽交い締めにしてその口を手で塞いだ。
梁中書は眉を顰めた。いつもみすぼらしい身なりをしている楊志から何を奪ったというのだ? しかし考えてみれば楊志は関西の名家出身、伝来の珍品を持っていても不思議はない。
「その方ら、楊志の仲間ではなかったのか」
楊志の珍宝の存在を知らなかったのがいまいましくはあったが、彼は言葉を抑えた。ひとまずは辛抱だ。こやつらを捕らえれば取り上げることも出来る。
「見りゃ判るでしょ、楊志さっさと一人で帰っちゃったじゃない」
小七が肩をすくめた。
「まー誘ったんだけどさ。他にやることあるからって」
口調は粗雑だが声は良い。見ればぽってりとした小さな唇が肉感的な、器量の悪くない娘だ。むき出しの腕もぴちぴちとしている。梁中書は思わず相好を崩しかけた。しゃなりしゃなりと歩くすまし顔ばかり見慣れている目にはひどく新鮮だ。
「おう、そなた名は」
返事の代わりは朴刀の切っ先だった。梁中書は靠背椅の中で縮こまる。
「あたしさぁ、気ィ短いのよ。仕事の話してる最中に色目使うオヤジって最低」
「そ、そうだな……」
「あたしらが楊志から何盗もうと、どうせ本人要らないらしいし別に怒んなかったし、どうでもいいでしょ?」
「そうだな、まあ儂には関係ない」
何か言いかけた公孫勝の口を塞いだまま劉唐が頷いた。
「よしよし。こっちのダンナもいいって言ってるし、俺様達も帰るとすっか」
梁中書はその言葉に胸をなで下ろした。顔つきは怖ろしいが、どうやら自分に危害を加える気はないらしい。そう悟ると気が緩んだ。
「いや、恩人をこのまま帰したのでは儂の面目が立たん。まずは一献でも」
「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、ブタ野郎!」
劉唐が突然吠えた。
「てめぇみたいに貧乏人の骨までしゃぶって肥え太った下司の酒を誰が受けっかい。蔡京の婿だぁ? 胸くそ悪ぃ。ああ、そういやまだ一つ肝心の仕事が残ってたっけな。おい白」
顔色の悪い男が軽く頭を下げて進み出た。見れば目の縁や頬骨の上には黒々とした痣、額も切れて瘡蓋になっている。
梁中書は思わず顎を引いた。
「晁蓋さんはあんたの顔見たらブッ殺したくなるから来ないと最初っから言ってました。良かったですね、留守司さん」
「何のことだ」
「あんたは結構大勢の恨みを買ってるってことです」
彼は微かに唇を曲げた。冷笑か、それとも何か冷たい感情を堪えたのか。
「留守司さん。これ十万貫で買ってもらえますか」
白勝が差し出したものを見て梁中書は声を失った。束ねられた手形だ。
「き……やはり貴様らが!」
「一割ばかり目減りしましたが。細かいのは手数料ってことで貰っときました。貧乏人からちびちび巻き上げることないと思いますよ」
淡々と白勝は言った。
何か言いかけて梁中書はそれを呑み込んだ。白勝の落ち着き払った態度が不気味だったのだ。
「十万貫だと……そんな大金は」
「十万貫くらいあんた余裕で出せるじゃない。言っとくけどまたビンボー人から巻き上げて埋め合わせしようとしたら、今度はあんたの屋敷に火をつけるよ」
梁中書はぎくりとした。何者かが牢城に放火して囚人共を逃がしたのはつい先日のことだ。
「すると、牢城に火を放ったのは」
返事の変わりに小七はにんまりと笑った。
「ねえ劉、こいつやっぱりおみやげにしようよ。あたしデブ嫌いだから首だけにしてさ。大将喜ぶよ」
「そうだなあ、でも次に赴任するのもきっと蔡京の馬鹿息子か強欲婿だぜ? あいつ係累多いから」
「十万貫くらいぽんと出せる奴かもしれないじゃん。こいつ駄目だよ、金持ちのくせにしみったれで」
「し、しかし、そんな大金を今すぐ用意しろと言われても」
「ふうん、出せないの? あたしなら生命の方が惜しいけどねー」
「いや、分かった、出す!」
悲鳴を上げつつも梁中書は胸中でまだ計算していた。十万貫といえば銭にしろ銀にしろ莫大な量になる。そんな荷を抱えた強盗団など、追っ手を出せばたやすく捕らえることが出来よう。ここはおとなしくこやつらのいいなりになったふりをして……都頭らでは手ぬるい。そうだ、索超の軍を使おう。ついでに楊志も捕らえるのだ、あやつはこの儂の恩を仇で返したも同然ではないか。
「それじゃコーソン、きっちり十万貫だからね」
小七は朴刀を握った手を腰に当てて少年道士に命じた。
劉唐が手を離すと公孫勝はふらりとよろめいた。どうやら酸欠になりかけていたらしい。
「おお悪ぃ。無事か?」
「うん」
「それ以上はびた一文要らない。あ、でも銀にして。まとめてきっちりサイコロ型にしちゃっていいから」
「はあい。じゃあオレ行ってくるね」
彼は大きくのびをしてから宙に跳び上がった。くるりと一回転したように見えたその姿が忽然と失せる。
「便利だよねーコーソンって」
「使い方を間違えなきゃな。さて」
大男は茫然としている梁中書の帯を使って彼を靠背椅に縛りつけた。手際よく猿轡も噛ませる。肥りすぎの中書は顔を真っ赤にして唸っていたが、すぐに力尽きた。目だけがきょろきょろと動いている。
「しめて二十万貫相当か。親分も結構がめついぜ、わはは」
「これから何かと物いりだし。引っ越しだもんねー、忙しいったら。まあ花瓶やら文鎮やら書画やら、飾り物には不自由しないけど」
小七はちらりと梁中書を見た。
「何か知らないけどさー、例のあんたを術にかけてた左道がすんごいお宝持ってて。どこの阿呆から巻き上げたんだろうね」
梁中書の眼球が飛び出さんばかりに見開かれた。
「悪徳宗教ばっか儲かるのは政治が悪いんだってさー。ま、屍体が持ってても仕方ないからあたしらが貰ったの。ラッキー」
「ただいまぁ」
公孫勝が再び姿を現した。手に小さな銀色の賽子を載せている。
「これでいい?」
「上等」
「ほんじゃ俺様達も帰るぜ、梁大官人」
劉唐や小七がどやどやと騒がしく出ていく。最後に踵を返そうとした白勝がふと梁中書を見つめる。
「晁三って名前は憶えてませんか、留守司さん」
梁世傑は懸命にかぶりを振った。出まかせではない、そんな名前など知らない。
「でも周侗様のことは憶えてますよね」
白勝は冷たく微笑んだ。
「直接捕らえさせ、処刑したのはあんたです。あんたが役目でそうしたのは知ってますが、母堂があんな風に亡くなったのもあんたの兵隊のせいです。……そいつらは全員自分の生命で償いましたよ」
梁中書の顔から血の気が引いた。
「あんたを殺さないのは晁蓋さんに止められてるからです。せいぜい今後いいことして下さい。さもないと、おれ考え改めますから」
脅すようでもなくただ静かにそう言って、白勝は軽く会釈すると踵を返した。
ふっと静かさが戻り、夜風が入ってくる。
──その子を、早く隠しなさい。
年老いた母親の凛とした声に打たれて壮漢は孩子を抱き上げた。逃げる余裕はない。小屋を見つけた兵士らの声が迫ってきている。
孩子は熱に浮かされた目を見開いた。まだ満足に寝返りも打てぬ身体だった。
置いていけ、とそのかさかさの唇が声なく動く。
男はいつも穏やかな顔をしていた。こんな時になっても、彼は微笑して孩子の頭に触れただけで何も言わなかった。
上衣に包まれたその孩子の小さな身体を、藪は素知らぬ顔ですっぽりと隠した。