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蓋星水滸伝 7
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蓋星水滸伝
「邪魔だ、突っ立ってんじゃねぇよ!」
声と共に脛の裏を蹴られて白勝は我に返った。振り返って目を丸くする。遙か下の目線から彼を見上げていたのは、きつい目をした生意気そうな孩子だった。
ひどい身なりだ、ぶかぶかの襤褸から痩せた首が突き出している。歳は六つか七つか、いかにもはしっこそうな顔をしている。盗賊か何かの使い走りだろう。右手には何か汚い布をぐるぐると巻きつけている。怪我したふりをして哀れみを誘う乞食かもしれない。尤も、孩子のふてぶてしい表情は乞食らしくはなかった。
彼は鼻を鳴らした。
「物騒な顔でどっち向いてんだ、でかぶつ。門番に顔を憶えられたいのか」
眼光の異様な強さに胸中で思わずたじろぎながらも、白勝は素知らぬ顔で唾を吐いた。
「ふざけんな。蹴られたくなきゃとっとと消えな、ちび」
「でかくてもちびでも人は皆同じ」
追い払おうとした白勝の手をひょいと躱して、孩子は不思議な目でそう言った。
「字は知ってるか、でかいの」
もちろんだ。母堂に手ほどきを受けた。墨や紙が高いから、灰に指で書いて憶えた。盗賊仲間には物知りと言われている。
白勝は眉を顰めた。
人は同じ。──『侗』。
「……誰の使いだ、お前」
「何のことだ? 俺はただ、字は知ってるかって訊いただけだぜ」
時間がないのだ。
白勝は屈んで孩子の肩を掴んだ。突然のその動作に孩子は身をすくめ、笑みを消して白勝を見据えた。
「助けたいんだ、早くしねぇと」
「ばぁか、いい歳した男が腰抜かしてんじゃねえよ。立て、目立つ」
囁くような小声で命じ、孩子はくるりと踵を返して歩き出した。白勝は弾かれたようにその後を追った。
「火」
晁蓋と名乗った孩子は一言、そう言った。
「……放火か」
「時間差をつけて何カ所かに放つ。突破しなければならないのはこことここだ」
彼は白勝の描いた見取り図を指した。周囲は薄暗いが、慣れた白勝には見える。
──都開封の密かな名物であるそれには及ばないが、大名府城内の溝も桁外れに深く広い。駱駝だって悠々と通れるさ、と誰かが言ったものだ。迷宮のように作られた溝は、ある種の人々にとっては石畳の天井で覆われた地下街も同然……そこには下水が通り、ゴミがうずたかく積もる。横の硬い土を掘り抜いて、乞食の群れや盗賊ら、貧民の一家までもが暮らしているのである。時には有毒ガスが発生することもあるから、ここに逃げ込んだお尋ね者や盗賊を追ってくる緝捕など、まずいない。逆に言えば、ここにいるのは訳ありの者ばかりだ。
どこかで女のすすり泣きと博奕をやる声が聞こえた。
「大ごとになるな」
「脱獄だけで充分派手だろ。何をプラスしようと変わんねぇ」
「簡単に言うなよ、火事を消しに皆が行ってもまだ何人も残ってる」
「周侗なら得物がなくても多少の無茶はやれる。手足を切り落とされでもしていない限りはな」
良く知っているかのような口振りだ。白勝は晁蓋をちらりと見た。
「お前、何故こんなことをやるんだ?」
「借りがある。そう言ったろうが」
白勝はまだ半信半疑だった。どんな男の元に案内されるのかと思いつついてきてみれば、なんとこの小さな孩子一人だったのだ。失望するよりも先に愕然とした。
「どんな借りだよ」
誰かがこの孩子によく教え込んだだけではないのか。微かな期待を込めてそう考えた。あまりにも頼りない。
晁蓋は濃い眉を寄せた。
「ねちねちうるせぇな。下りたきゃ下りろ、腰抜け。かえってガキ一人の方が上手くいくかもしれないからな」
「そんなこと言ってねぇよ、ただ……お前一人で考えたにしては利口すぎるよ、ちび」
「普通ならな」
孩子は低く嘲笑うように言った。
ぴたりと水滴が暗い水面に落ちる。
「な……どういうことだよ」
白勝の声が震える。
目の前の孩子がふっと何か怖ろしいものに化すような錯覚に囚われた。その小さな身体は闇の中でちゃんと見える、しかし目を閉じるとその気配は何か……ずっと巨大であるかのような気がするのだ。
周侗に稽古をつけて貰った時を思い出す。
打ち込んだ木刀がどこにも触れないまま弾き返されるような、あの感覚。
こんな孩子が剣の達人である筈がない。けれど、何か。
「周侗が発見されたのは何故だ? 白」
気配を散らさないまま孩子が尋ねてくる。どんな達人でも、息を吐く時にはその気は揺らぐというのに、この孩子は違う。
馬鹿な。
「何故って……確か兵隊の一人が兎だか何だかを追いかけてて」
錯覚だ。
何故自分は怖じ気づいているのだろう。白勝はそう胸中で笑い飛ばそうとした。
「だから、何でそいつらがそこにいた」
晁蓋の声がますます低くなる。返事を待たないまま彼は言った。
「東渓村で人妖騒ぎがあったろう」
白勝は瞬きした。
確かに周侗が捕らえられたのはその村のすぐそばだ。梁山湖に近い、静かな村だという。
彼は晁蓋を見つめた。
「そいつは殺された。家族も同罪、今までそんな化け物を飼っていたということでな。全員めった切りにして家ごと死骸を焼いて、墓もなしだ。今でも焼け跡が残ってる」
淡々と語る孩子を見つめる視線が揺れた。
妖術使いや邪教による叛乱騒ぎが頻発するこの時代、少しでも怪しい者を誣告する者は少なくなかった。張の娘は妖術を使って人形を踊らせた、李の息子は生まれつき歯が生えていた……時には村人らによって私刑にかけられる者もいる。全く無実の一家が殺されて知県に財産を没収されることもしばしばあった。
「人妖なんて大方は嘘っぱちだ。いろんな不満や不安のはけ口にされている。放っときゃ叛乱の首魁になりかねないし、見せしめやうまい儲け話にもなるから緝捕どもも摘発に励む。だが、中には本物もいるかもな」
晁蓋が囁いた。
白勝は喉を鳴らす。
「……だって、そいつは殺されたんだろう」
「人妖がそんなに簡単に死ぬか?」
白勝は息を止めた。
彼を覗き込む孩子の双眸は尋常のそれではなかった。甲を経た山魅の目……ぬばたまの闇。これは人間なのか?
今度こそ悲鳴が洩れかけた途端、孩子が声を上げて笑った。良く響く。誰かが遠くで罵声を上げた。
「ばーっかで、真に受けんなよ、こんな話。ちょっとばかり智恵が回れば化け物か? だったら科挙に受かった進士は皆殺しだ」
「なっ……」
「確かに兵隊共は退治しに来たぜ。斬られてたまたま死に損なっただけだ。上にでかいのが被さっていたからな、窒息しかけたが。あいつらろくに調べず火を放った」
再び晁蓋の声が低くなった。
「そのくたばり損ないが山ん中まで逃げて、とあるおっさんと婆ぁに拾われたとしたら? そしてまんまと自分だけまた逃れたとしたら」
白勝はぎくりとした。
孩子の目がほんの刹那、炎を映したように見えた。
× × ×
香がむせ返るほど強く焚かれていた。
部屋の中央には壇が築かれ、白米や朱砂で陣が描かれていた。文様とも崩し字ともつかぬ奇怪な札があちこちに貼られ、或いは積まれている。四方の壁際には金造りのけばけばしい装飾品が並び、窓は緞帳で覆われていた。
白絹で覆われた壇だけが簡素だった。そこに横たえられた人物もまた。朱と金の絢爛たる色彩の中、旅装束のままの楊志の姿は色褪せてみえた。
謝道士は楊志の顔を覗き込んだ。血の気を失った肌が白磁のように透け、青痣が鮮明に浮かび上がっている。道士はほくそ笑んだ。
「実におとなしく眠っておるではないか」
話しかけられた相手は手巾で鼻を覆っていた。香の匂いが不愉快なのだろう。その鶏にに似た目は室内を忙しく観察していた。
「手抜かりはあるまいな、道士」
道士はちらりと彼を見やる。その目に浮かぶ軽蔑の色を謝都管は見なかった。片手はまだ懐の証書の束の厚みを確かめている。
「なんの。梁中書は今や儂の傀儡よ、乞われるままにこの品々を誂えおったわ。銭も時には良いものよの」
老都管はぎくりと警戒するように彼を見たが、道士は笑って手を振った。
「銭は要らぬ。これらの金銀はぬしにくれてやるわ。儂の力を以てすれば錬金の術もたやすいのだからな。しかしあれは時間ばかりかかるし、儂の好みではない」
「錬金……金を造り出すというあれか」
「左様。同じ目方なら銅でも鉛でも金銀に変えられる。だが今はそのようなつまらぬ技を試している時ではなかろう? 都管よ」
老人は渋々と頷いた。
「あの少年道士はどうするのだ。まだ仲間がいるかもしれん」
「城の外にでも埋めてしまえ」
無関心に道士は答えた。その年齢の割にむっちりとした肉厚な掌が楊志の額に触れている。
「仲間なぞいなかったからこそ、あの目論みを企てたのだ。誰がこの鏢客から書簡など盗もうか?」
「しかし、現に」
道士の右頬が微かに震えたことに老人は気づかなかった。笑っていたのだ。
「あの美童を何の為に連れてきたのかは知らぬが、所詮は浅知恵。二人がこの屋敷を訪れたことを知る者はおらぬ。仮に何者かが嗅ぎ回ったとしても、当の二人が出て来ぬのではどうなる筈もないではないか?」
「む……それはそうだが」
都管は薄い唇を舐めた。が、視線はまだ落ち着かずに室内を探っている。
「それで、財宝は無事なのだな?」
遂に辛抱しきれず老都管が壇上の楊志を指し示す。道士は薄く笑った。その美声に老人は何故か肌が粟立つものを覚えた。
「無論。直ちに取り出して進ぜよう。封ずるのはたやすいことであったが、その逆は手間がかかってな……これには十日の精進潔斎と昼夜を通した《天地収掌》の術が必要だ。ぬしが去った後、この部屋に人を近づけてはならぬ」
老人は狡そうに目を細めた。
「様子を窺いに来るのもならんか」
「術が破れれば十万貫の財宝は霞と消えるぞ、都管。この者の身体と共にな」
「解っているわい、ただ訊いてみただけだというのに」
ぶつぶつ言いながら老人が出ていくのを道士は見送った。その口元がとろりと歪む。
「愚か、全くもって愚かよ」
彼は二本の指を重ね、戸口に向けて鋭く口訣を唱えた。空気がゆらりと揺れ、再び淀む。
「ぬしには見えまい、この躯の裡の暴悪な星が。解き放たれた凶星の化生の輝きが見えぬ凡夫め」
彼はまるで愛おしげに楊志の痣に触れる。
「悪獣よ、目覚めを楽しみに待つが良い」
開封に向かう馬上の三人は昼夜強行というわけにはいかなかった。とっぷりと日が暮れた街道を全力で走るのが危険であるのは言うに及ばず、馬よりも人間が保たない。
「ありがてぇのは《短命二郎》の高名だぜ。長哥のやつ、こっちまでテリトリー広げてたのか。どこも顔パスだ」
馬の汗を拭ってやりながら小五が呟いた。馬より舟がいいと言っていた割にはよく乗りこなしている。
山賊らしき男達に二度ほど誰何を受けはしたが、襲われるには到らなかった。小五は物足りなさそうな顔で肌脱ぎになり、汗を拭った。胸の見事な豹の彫物が目を惹く。
「前から不思議に思っていたんだけど……どうして短命というの?」
「あの慎重な長哥の渾名にしちゃ変だろ」小五はひひと笑った。「短命ってのは長哥じゃねぇ。あれに喧嘩売ろうとする相手の方だよ」
「ああ、そういうことなの」
二人は何か言いかけてふと声を低くした。
荷物にもたれた孩子が目を閉じている。小五が乱暴に汗を拭ってやった手拭いを頭から被ったままだ。
「ったくよ」
小五は何か続けようとしたのをやめて、出がけに小七が包んでくれた饅頭を口の中に放り込んだ。
相変わらず面憎い態度のままだが、晁蓋の体力は限界に達している。小五が休憩の合図をする度に彼が憮然とするのは、それが小五自身の疲れの為ではないと解っているからだ。現にこの青年はくたびれたと言いつつも停止する度に一人で馬の具合を調べ、焚きつけを拾ってくる。
てめえこそ留守番してりゃいいのに。小五はそうは言わなかった。
晁蓋のやり方というのが少しずつ解ってきた。
「けどよ学究、大将自らひょいひょい虎穴に飛び込んでちゃ俺達の立場がねえぜ」
「そうね」
椀の中の白湯を冷ましていた呉用がふと嬉しそうに頷いた。
「私達、晁蓋にまだ色々なことを教えてあげられると思うわ」
「今だって学究は四書五経や手習いやらせてるじゃねぇか。このダンナがさらさらーっと堂に入った字ィ書くの見てたまげたね、俺は」
「家塾の教授になりたかったんだもの、私」
「大将の?」
「晁蓋と会うもっと前から」彼女はにこりと微笑んだ。「ねえ小五……私が十六まで字を知らなかったと言ったら驚く?」
「驚く。あんたでも字ィ読めない時あったのか」
呉用は目を瞠る。
「勿論よ」
「あんたは生まれ落ちた時から千字文を唱えてたかと思ってた」
「私が育った村の、里正宅の家塾の教授に習ったのよ……私もう少しでその人に嫁ぐところだったの」
「何ィ」
「読書人の妻なら少しばかりの学問は当然だから、そう言って教わったの。ほんの短い間だったけれど楽しかった」
彼女は焚きつけの枯れ枝を少し直した。
「私は里正の老爺の妾だったの。後添えの人が来たから追い出されたのだけれど」
妾は大抵の場合、その家で買われた奴隷である。子を産めば正妻に直されることもあるが、正妻の悋気に触れて叩き殺されたとしても訴える者がいなければ罪にならない。奴隷の子もまた奴隷であり、呉用は下女として売り飛ばされてきた母親が連れてきたのだという。
「……何で破談になったの」
「子を産めないと判っていたから」
美しい妾を下げ渡され、家塾の教授は大喜びだったのだ。しかし無理にこの娘を引き離された老人の嫉妬が水を差した。教授の年老いた母親に、呉用は石女だと告げたのである。即座に破談となった。
「そうしたらその夜、老爺に呼ばれるじゃないの……腹が立ったから手を振りほどいて、そしたら倒れて動かなくなったの」
「へん、狒狒爺ィめ」
思わず呟いて小五は呉用の顔を見た。
「あん、それで死んじまったの?」
「ええ」
「俺ならその腰抜け教授も殺して逃げるぜ、火ィつけて」
「悪い人ではなかったのよ」
呉用は苦笑した。
「動転して、死のうかと思って裸足で飛び出して……その時晁蓋に助けられたの。たった五つの子に」
ひどく寒かったことを呉用は憶えている。
足の裏が血で滲むような冷たさだった。自分が妾という身分と引き替えに暖かく美しい衣装を着ていたことに、その時気づいた。
惨めだった。
母がいなければそのまま首を括っていたことだろう。だが老いて腰を痛めていた母は里正の屋敷で狭いながら一室をあてがわれ、静かに暮らしていた。縁談もその破談も知らされず、娘の出世ぶりを心から喜んでいた。
母の為に辛抱しなければならないのか。時折そう考えていた自分を恥じた。自分は飢えもせず綺麗な着物を着て靴を履いていたではないか、凍えたこともなかったではないか。
五つの孩子にそう諭されたのではない。真夜中まで働きずくめだった彼の、土にまみれた小さな足を見て悟ったのだ。
現場をちょっと覗き、ただ黙っていればいいと孩子は言った。その通り、老人の頓死は誰も疑われることなく済んだ。
「その腹の据わり方がやっぱ並じゃねえ。五つだろ?」
「凡人だものね、私も小五も」
そう呟き、気を悪くした? と覗き込む。小五はかぶりを振った。そんなことはとうに知っていたからだ。
「学究は凡人じゃねえと思うけどよ、全然」
「私には知識しかないの。知識と知性は別よ、頭でっかちだけの者はそれを活かすことは難しいわ。けれど晁蓋は」
「てめえにねぇものまで使いまくる」
呉用は小さく吹き出した。
「そうね。本当に小さい頃からそうだったわ、私はあまり屋敷から外に出なかったから親しかったわけではないけれど。晁蓋は誰よりも頭が良かった」
「区別よく解んねぇなぁ」
呉用の顔が何故か悲しげに見えたので、小五は言葉を継いだ。
「けどこいつはガキだぜ。歳より下なとこもあるしな。だって普通これくらいの歳になりゃちっとは色気づくぜ? ガキだガキ」
「……うるせぇ」
不意に低い声が聞こえたので二人は腰を浮かしかけた。手拭いの下から晁蓋が目を光らせている。
「そろそろ行くか」
「寝惚けた目で言いやがるよ、このダンナは」
「呉用、お前寝てなかったのか。落馬しても見捨てるからな」
ええどうぞ、と彼女は明るく受け流している。
呉用が差し出した白湯を飲んで、晁蓋は立ち上がった。薄暗い月光の下では顔や手の痣も定かではないが、今にも倒れそうだ。
「あと半日ってとこか」
「ゴールした後が大変なんだぜ、晁蓋。気張んなよ」
「解ってる」孩子は片手を振る。「あのバカ道士、あれきり連絡寄越さないな」
彼は開封へと続く闇を睨みつけた。その肩を小五がつつく。
「ダンナダンナ」
「……何だよ」
「今一番大事なのはあのおっかねえ姐さんを助けることだよな?」
薄暗がりの中で晁蓋の双眸が光っている。小五は生真面目な顔で彼を見つめた。
「あんたのメンツにはちょっくら目ぇつぶってて貰ってくれねぇか? 馬の背ってのはあんまり眠り心地は良くねえが、お天道様が昇る頃には少しは楽になってるぜ」
まだ燻っていた焚きつけを片脚で踏み消す。
晁蓋が素っ気なく頷くまでの間が、呉用には長いもののように思えた。
にやと小五が笑い、馬に飛び乗ると孩子の軽い身体を片手で掬い上げた。帯で胴に結わえつけ、呉用を振り返る。
「学究も落っこちそうになったら言いなよ。あんたと相乗りなんていつでも歓迎するぜ」
ええ、と目を細めた呉用の頭髪を月光が背後から照らし出していた。
× × ×
夜の牢内は昼間にもまして息苦しい。囚人や押獄らのすえた体臭、便器の臭い、土の床に染みついた脂や血や汗の臭い、腐った水や食器の臭い、格子の錆の臭い……廊下の突きあたりにある小さな窓から入ってくる夜風が唯一の救いだ。
鼬は薄目を開いた。
風の匂いに、常とは違うものが僅かに混じっている。
……周侗への面会は当初から許されなかった。身内だと言おうものなら牢に叩き込むと、押獄は渋い顔をしてほのめかした。彼の方も袖の下を受け取れずに不満なのだ。白勝は溝内に住む豎子の一人に金をやり、食事を届けさせていたが、周侗の元に届いているかどうかは判らなかった。
「いくら高大尉の命令としても、ちっと厳重すぎる。そんなに恨まれていたなんて聞いてないぜ」
白勝の苛々とした呟きに晁蓋は暫く答えなかった。
「晁蓋」
「牢内で殺された気配は?」
白勝はぎくりとして孩子を見下ろした。
「ねえよ!」
「だよな……謀殺する理由がない」
おそろしく淡々とした口調だ。物思いに耽るその顔を睨んでいるうちに、白勝の心も冷えてしまった。
白勝はまだ最悪の事態を考えていなかった。考えたくなかったのだ。
「あ、当たり前だ、何言っている」
「だからそう言っているだろうが」
晁蓋はじろりと目を上げた。
「仮に周侗が死んだとしてもそれを隠す理由はない。周侗は独り身で仲間もいない、あいつを奪回しようとしている奴がいるとは考えていないだろうからな」
「じゃあそんなこと言うなよ! ああびっくりした、厭なこと言う奴だな」
安堵した途端に白勝は憮然としたが、晁蓋は黙ったままだった。
決行の朔月まであと二日のこと……。
幾つもの牢房の前をひたひたと通った影を訝かしむ者はいなかった。
先程まで賽子博奕で騒いでいた二人の押獄は、入口近くの小部屋で居眠りしている。
影は独房の中をちらりと覗き、空気のように小部屋の前を通り抜けた。
──たまには散歩くらいいいやね。
鼬はにやりと笑った。
外は静かだった。牢内の臭いがここまで漂ってくるが、しんと静まった空気の中では懐かしい故郷の香りのように感じられる。闇の中をすかし見て鼬は周囲に目をやり、ふと身を翻した。
鞘と剣帯がこすれ合う音を立てながら、二人の見回りが無駄話をしながら通り過ぎていく。独房の蔭に溶け込んだ鼬には気づかぬじまいだった。
作業場の端を過ぎると石壁に突き当たる。そこに垂れ下がっている綱が揺れているのを鼬は驚きもせずに見守っていた。
まもなく一人の男が体躯の大きさに似合わぬ素早さで石壁の上に現れ、素早く周囲を窺うなりひらりと中に飛び込んできた。がっしりとした大男だ。
彼は飄然とそこに立っていた鼬を見てぎくりとした。一瞬前には確かに誰もいなかったのだが。逞しい腕が構えの形になる。
「待ちなせえ」
鼬は盗人らしく響かぬ声で囁いた。
「鼠の兄さんならそっちだぜ」
大男は不意を突かれて鼬の顔を見つめた。
「何だ、あんた」
「お仲間だろ? どんな御仁が来るのか拝んでみたかったのさ。《白日鼠》って男は今まで誰かと本当の意味でつるンだことがなかったからな」
鼬の脂気のないのっぺりとした顔が月光に照らし出される。
「おめぇが親分さんかい」
「違ぇよ」大男はのび放題の髪を掻いた。「俺様は《尺八腿》の劉唐ってもんだ。《赤髪鬼》って呼ぶのもいるけどな。ありがとよ、とっつぁん」
「火かい」
「うん。地味にこっそり脱けさせるつもりだったのに、俺様の連れはすぐにかーっとなる奴でね」
鼬は喉の奥で笑い、手を後ろ手に組んで踵を返した。老人にも、まださほど老いてないようにも見える。劉唐は名残惜しそうに彼を見やった。
「とっつぁんの名前は訊けずじまいかい?」
「儂はただの鼬さ。親分さんに宜しくな」
飄然と、その姿が闇の中に消える。
……あの牢で。
白勝は夢うつつに油の臭いを嗅いだ。煙、剣撃の音。騒ぎ声。
自分と晁蓋が果たせなかった夢。
忍び込むのはうまくいった。
周侗は生きていた。酷い拷問を受けた跡はあったが、彼の頑健な身体はそれをものともしていなかった。
けれど。
「……周侗様、おれですよ」
押獄らは水瓶に放り込んだ痺れ薬で倒れていた。涎を垂らしながら蠢いているそいつらを、切り刻んでやっても良かった。
「……周侗様」
目が死んでいた。あの誰よりも強靱で優しかった周侗は、背後の壁に寄りかかったまま格子の方に近づくことさえせず、目と口をぼんやりと開けていた。
剛直すぎたその男を壊したのは。
──母堂が。
周侗の母が小屋の中で殴り殺されたというのは嘘だと後になって白勝は聞いた。おとなしく囚われた息子を詰り、自分を見捨てよと命じた気丈な老女は、枷と共に樹に括りつけられた周侗の目の前でなぶり殺しにされたのだ。彼女に下司と罵られた牌頭が部下に命じたことだ。母親の苦悶の声が続く間、周侗は発狂したように喚き叫んでいたという。
「酷ぇよ。この人が何をしたんだ。何でだよう、晁蓋」
孩子は答えなかった。彼はただ、格子の向こうにべたりと座っている男をまっすぐに見つめていたようだった。
白勝は二度と正視出来なかった。
「……行くぞ、白」
沈黙よりも低い声が白勝の背を打った。
「何だと」
「ここにもう用はない。助け出して何になる」
白勝は憤激のあまり立ち上がった。孩子の襟首を掴み、締め上げようとして、彼はぼろぼろと泣き崩れた。
「だって、もうじき処刑だ」
「こんな様で生き延びてどうする」
晁蓋の声が突き刺さった。
「俺がずっと世話をする。だから」
「てめえはそれで気が済むだろうさ。死にたい奴を死なせてやれないのか」
低い声は、彼が歯を噛みしめているからだと白勝は気づいた。格子の向こうを睨んだままの晁蓋の顔は見えなかった。
呪詛めいた呻きを白勝は聴いたような気がした。
その日はよく晴れていた。蒼穹の下の大市は処刑を見物する人々で賑わっていた。
首斬り役人の前に引き出された周侗は真新しい死衣を着せられ、髪も綺麗に結われていた。狂気など露も感じさせない。嘗てを髣髴とさせる物静かな姿に、彼の武芸の技を惜しむ声も上がった。
うろたえ青ざめる様を周囲の観衆に怪しまれぬよう、白勝は懸命に自分の膝を押さえつけていた。
あの時晁蓋の声など聴かずに連れ出していればと、そればかり悔やんだ。母堂だってそう望んだ筈だ、こいつは冷酷すぎる。そう歯がみして涙の溜まった目で孩子を睨んだ。
晁蓋は、その瞬間も身じろぎ一つせず見つめていた。
首を差しのべようとした周侗が、
ふっと、こちらを見て穏やかに微笑したような気がして、
「──白! いるの!」
炎の爆ぜる音、男達のわめき声。何かが壊れる轟音まで聞こえる。小さな出入り口の向こうは紅蓮の色だ。
熱気と煙に囚人達が騒ぐ中、凛とした娘の怒鳴り声が白勝を打った。
彼は顎を上げた。返り血を浴び、抜き身の朴刀を引っさげた小七がそこにいた。次々と牢の格子扉の錠前を叩き壊していく。差しのべられる囚人達の手、手。
外から飛び込んできた見張りの兵士が彼女を見つけて声を上げた。斬りかかってくる刃を身を沈めて躱しざま、その両腕に下から斬りつける。兵士がのけぞった。斬るというよりも叩き折ったというべきだろう。小七はその胴を蹴り倒し、躍り越えてもう一人の兵士に体当たりした。扉に顔面を打ちつけたその兵士は声もなく悶絶する。
外で激しく斬り結び合う音が聞こえる。双方の応援が駆けつけたのだ。そちらを一瞥しただけで小七は牢をこじ開ける作業に戻った。
最後に白勝の独房の前に立ち、彼女は鼻の頭に皺を寄せた。
「立ちな!」
薪をからりと割るような一喝。
白勝は血で貼りついた身体を引き剥がすように起きあがった。背骨を抜かれたかのように身体が頼りない。膝に掌をついて身を起こすと、小七は錠前を朴刀の柄で叩き落とし、扉を開いて白勝の腕を乱暴に引きずり出した。
「刀……使い物にならなくなりますよ、小七さん」
刃はひどい有様だ。小七は土の床にそれを突き刺し、解放された囚人達が飛び出していった外へとさっさと歩き出す。相当怒っているらしい。白勝は心配になった。
「あの、小七さん。すいません、お手数かけさしちまいまして」
膝ががくがくと震える。だが自分が自由に歩けることが嬉しかった。仲間が助けに来てくれたのだ、涙が出るほどありがたかった。
「塀」
漸く小七がちらりと振り返った。
「はい?」
「越えられるよね」
いつもの声だ。白勝は安堵して、思わず笑みがこぼれた。
「大丈夫です」
熱気が頬を打つ。つけ火などという生やさしい規模ではなかった。牢城一帯が灰燼と化そうとしている。囚人の群れともみ合っていた兵士らも、火の勢いに逃げ出していく。
白勝は呆れた。
「こっち! 早くしなよ」
「はあ……あの、よくここまで燃やせましたね」
この放火と脱獄劇の為に動いたのは劉唐とその麾下だろう。阮兄妹にとってはただの流れ者かもしれないが、劉唐という男はあちこちにつてを持っていた。呉用の要求にもよく応えて色々な人間を見つけてくる。背後に誰か大物がいるのだろうが、多忙な白勝にはまだ探り出せなかった。晁蓋が詮索無用と言ったのだ。
あの赤毛の大男は晁蓋に懐いているが、完全な部下とも言い難い。晁蓋に貸しを作っておけば後々都合がいい、そう見なされたのかもしれない。
「学究に貰ったやつ! 黒い油で拵えた、何だか知らないけどこれくらいのダンゴ」
小七が片手で大きさを示して見せた。
「もう臭くて。帰って手ぇ洗わなきゃ。これなかなか落ちないんだよね、服につくと。ほら行くよ」
はい、と白勝は笑った。
──いつも毅然としていた晁蓋が、
刑場から踵を返して数歩で立ち止まった。あまりにも痩せて小さな後ろ姿に白勝は何故か戸惑った。いつの間にかこの孩子を孩子と見なしていなかった自分に気づく。怜悧で、しかし表情一つ変えない冷たい男だと……。
泣きたいほど小さな体躯。
肩を並べてちらと視線を向けた。
孩子の目から大粒の涙が落ちるのを、見た。
第七章
どこか熱く軟らかな肉の壁の中にいた。
視界は定かではない。足元もぐにゃりとした感触だ。無数の太い管……舌の裏側のように血管が浮き出た肉の表面のような気がする。
彼女は眉を顰めて前方を見た。
その闇の中に息づくものが何かは判らない。巨大な、眩暈のするほど巨大な、そして危険な何か。
蝸牛が這うように、それはこちらに迫ってくる。
思わず背後の壁に身を寄せた。ぬるりとした軟らかい感覚、自分はどこにいるのか。
肉の壁が熱い。鼓動している。
まるで壁の中に呑み込まれるような感覚。だが、離れればあの闇に近づくことになる。
不意に何かが腕に触れた。肉の壁とは違う、ひどく明確な感触に驚いて目を向けると、壁から一本の腕が生えて辺りを探るように動いていた。
自分すら定かではない曖昧模糊とした視界の中、その白い腕だけがしっかりと確かなもののように思えて、彼女は腕を掴んだ。しなやかな指が彼女の腕を捉える。彼女は思いきりその腕ごと手を引いた。
壁の向こうから、ずるりと、
「楊志さん」
あの楽天的な笑顔と声が現れた瞬間、視界が転じた。
粘液めいた肉の壁が失せ、清浄な堂と化していた。楊志が生まれ育った屋敷のそれのように見える。がらんとして薄暗く質素な……暗がりの中で少年道士一人が仄かに輝くように見えた。
公孫勝はにこりと笑った。
「ありがと。オレ一人だとすんなり入れないんだよ、術がかかっていたから」
「ここは?」
「楊志さんの中。ああ、あった」
彼が指し示す方向に目を向け、楊志は再び呆気に取られた。丁寧に荷拵えられた財宝の山ではないか。太平車に積まれているので中身は見えないが、それが何であるかは一目で判った。
「意味が解らない」
「オレも良く解んないけど呉用が言うにはね、これはオレ達のイメージに翻訳してるんだって。きっとオレと楊志さんが見てるものはちょっとずつ違うよ」
更に意味の解らないことを言って、公孫勝は生辰綱への関心を失ったらしく、今まで楊志が対峙していた闇の辺りに視線を向けた。
「あれは何だ」
「何て言うんでしょう」
彼は首を傾げる。
「ひどく……危険な気がする」
「まあ別に楊志さんにとっては危険なものじゃないよ、きっと」
「どういう意味だ」
「何となく」
楊志は吐息した。だが、公孫勝の言葉に不思議と安堵させられた。
「私の中だと言ったな? お前はどうやって入ってきたんだ」
「うーんと、オレ別室で寝かされてるんだけど」公孫勝はふと顔を顰めた。「くすぐったいなあ、オレ何も持ってないって。それともこれはオレの首絞めちゃうのかな?」
「……何?」
「謝都管。オレこっちにいると身体の方寝たっきりだもん。それよりあのねえ、どうも謝道士と謝都管ってあんまり仲が良くないみたい」
楊志は彼の胸ぐらを掴んだ。
「やめさせろ」
「はい?」
「お前の身体を、勝手に他人の好きにさせておくな!」
「はあい。でも楊志さんだって同じだよ」
「な……」
彼は生真面目な顔をした。
「謝道士はずっと楊志さんの側で変な踊り踊って何か唱えてるよ。邪魔するともう一回最初からやり直しなんだけど、こうしてアタマ繋がりながら邪魔するのって疲れるんだよね。だから楊志さん、内側から術破るの手伝ってくれない?」
楊志は彼の襟を掴んでいた手を緩めた。
「どうやって」
「目を覚ませばいいの。頑張ってみるだけでも謝道士にとっては邪魔になると思うよ。その間にオレ外から何とかしてみるから」
楊志は彼を見つめた。
「何故私を助ける」
「オレ楊志さん好きだし、晁蓋さんが決めたことだし」
晁蓋。あの不敵な面構えの孩子の顔が克明に思い出された。
「だから、何故」
押し潰した孩子の指。
「そういうのに何故ってあるの?」
公孫勝はまた首を傾げた。
「あ、じゃあオレ行くね。そのうち晁蓋さん達も来てくれるから」
楊志の沈んだ表情を勘違いしたのか、彼はふと手を伸ばして彼女の頭を撫でた。
「大丈夫だよ、楊志さん強いから。でも強くても不幸になる人が多くて厭になっちゃうね、ホント。どうすればいいのかなあ」
彼は楊志の目を見つめる。目線はほんの少しだけ彼女の方が高い。
楊志の双眸は透明な水に似ていた。
この水はもっとずっと透明に深く澄むことだろう。
「簡単なことだ。もっと強くなればいい」
「あ、そうか」
彼は嬉しそうに頷いた。
「オレだから楊志さん好きなんだ。晁蓋さんと似てるよ、アナタ」
「……私が?」
「うん。あの人もずっとそう考えてるんだよ、皆を守ろうって、一番いいようにしようって。そういうことでしょ、強いって」
またね、と彼は言って身を翻す。その姿がふっと掻き消すように消えた。
楊志は踵を返して正面を睨み据えた。
あの闇がゆっくりと近づいてくる。