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蓋星水滸伝 4

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蓋星水滸伝


 
 気分の悪さで意識が戻った。眠り込んでいた筈はないが、ふっと意識が途切れたような気もする。
 松の巨木の根元に寝かせた孩子を一瞥する。痣でまだらになった顔。顎が腫れ上がっている。拳も小さい。目を閉じた彼の顔には常の面憎さはなかった。両手首を結わえた手拭いの結び目を見つめ、また目をそらした。
 右手の小指は濡らした布きれを堅く巻いた。拷問を加えた自分の方が吐き気がする。牛二を斬り倒した時は罪悪感など感じなかった。自分は今の自分以下には堕落するまい、既に最低な奴と化している。
 ──お前一人の自己満足に……。
 この仕事は最初から不愉快だった。そして無様に失敗した。そもそも引き受けるべき類の仕事ではなかったのだ、梁中書の酷政に対する怨嗟は大名府に満ちていた。なのに無言の脅しなどに屈したのは自分。
 今では楊志も、この仕事がただの書簡の護送ではなかったと悟っている。だが生辰綱とは何だ、自分は陽動おとりだろうか? それならばもっと効果的に、偽の荷車隊か荷を背負った人夫らを指揮させる筈だ。
 この孩子はどこまで知っている?
 捲れ上がった袖から火傷の跡がのぞいている。楊志は手を伸ばして彼の袖を直した。ケロイドの醜さの為ではない、痛々しかったのだ。
 正しいことをこの孩子に指摘されて血が燃えた。恥の血だ。自分は盗賊にさえ恥じている。いや、民衆は晁蓋らを盗賊とは呼ばない。暴悪な留守司を懲らす好漢と呼ぶだろう。
 自分はただの道化だな。そう考えて楊志は頬を引きつらせた。笑みにもならなかった。
 下腹部に鑿をねじ込むような痛みが走った。
 こんな時に。
 彼女は腹を押さえ、上衣を堅く巻きつけた。夏だというのに林間の夜は肌寒く、じっとりと湿っぽい。それとも熱でもあるのか。
 鈍痛を噛み殺し、身を縮める。
 月のものが滅多に来ない代わりに、来るとなればひどく痛む。死んだ母もそうだった。起きあがることすら苦痛なその身体で、まるで一番安いはしためのように働いていた。二人の妾が面白そうにそれを見ていた。
 男子を産めなかった母。
 自分は楊令公の裔だ、それが唯一の誇りであった楊志の父は殊更に嫡男を欲した。一人娘には目もくれなかった。妾の一人が男子を産んだその夜、狂ったように笑いながら急死した。強精剤として服用した中に毒物が混じっていたのだ。
 それが果たして妾の仕業なのか事故なのか、既に入軍して多忙だった楊志には判らなかった。下男の一人とその妾が通じていたことはどこからか耳に入った、生まれた男児も父の子ではないと。……妾と赤子が売り飛ばされ、事が内密裡に終わったのは、楊志の判断ではなく親類の決議であった。
 ──家名に傷がついてはならない。楊志に適当な婿を取らせれば楊家は安泰というもの。幸い丈夫な娘だ、子はいくらでも産める。ただ、この痣の醜さでは……。
 忌々しげに楊志の顔を見やったその族父しんるいを、その瞬間に蹴り出した。鞠のように階段で弾み、中庭の池に転がり落ちたその様子を、昨日のことのように憶えている。
 翌日には家を出ていた。家屋敷も何もかも処分した。後で親類どもが買い戻しに大わらわとなっただろう。
 全て捨て去ったというのに、けれど、澱のような記憶ばかりが積み重なっていく。
 
 
 ──見事な印ではないか。
 あの男は楊志の痣を見てそう言った。
 ──誰もが一目でおぬしと判る。その印に恥じぬようにしろ、楊志。
 訥弁に近い不器用な男だった。だからこそ、その一言一言に重みがあった。
 無実の罪を着せられた彼の額には流刑人の金印いれずみが薄く残っていた。高大尉の身内に憎まれ、何度も生命を狙われた。痛めつけられ、脱走し、そして梁山泊の山賊にまで落ちぶれたと……当人が語らなかったそれらのことを楊志は街で聞いた。
 あの男の双眸は静かだった。暗く澄んだ湖の深淵のように、そして最後にぽつりとそう言った。
 今はもう、あの黒い双眸を見返すことは楊志には出来ない。
 
 
ふと見上げると孩子が目の前に立っていた。
 自分は本当に眠り込んでいたのか。だが晁蓋は逃げる様子もなく楊志を覗き込んでいた。両手は自分で解いたのだろう。きつくは縛らなかった。
 すぐそばだというのに、暗さで表情が判らない。
「……おい」
 彼は怒ったような声を出した。
 楊志は黙って彼を一瞥し、目を伏せた。身動きするのがひどく億劫だった。
 さっさと逃げればいい。すぐに仲間がここに駆けつけて来るだろう、そうすれば。……だが痛めつけるよりは痛めつけられる方がまだましであると、今では解っている。
 晁蓋の痣だらけの顔が見えたような気がした。あの鋭い双眸がまっすぐに楊志を見つめていた。
 
 手にした槍よりも鋭利な黒い目。
 《豹子頭ひょうしとう》。自分を負かした唯一の。
 
「……林冲りんちゅう
 呟きは声にならなかった。
 何故同じ目をしているのだ、晁蓋とあの男が。
 
 孩子が何か言った。聴き取れず茫と座り込んでいる楊志の傍らに、彼は座り込んだ。肩がぶつかり、くらりと揺れた楊志の身体が寄りかかる形となった。
 痩せた身体が暖かかった。
「……俺がいつも甘い顔すると思うんじゃねーぞ、馬鹿女」
 忌々しげにそう言い捨て、晁蓋は黙り込んだ。
 楊志は上向いて目を閉じた。
 
 
 
 
×    ×    ×
 
 
 従卒に幾らかの小銭を与えて頷くと、索超は馴染みの酒楼に入った。女将がにっこりと微笑んで案内させようとするのを手を振って止め、勝手に一人で上がっていく。劉唐と二人で飲むのに女の酌は要らない。
「おう、先にちょっと飲ってたぜ」
 赤毛の大男が杯を手に破顔した。この男の童のように無邪気な笑顔が索超は好きだった。
「どしたぃ、くたびれた顔で」
 索超は目立つ男ではなかった。がっちりと逞しい体躯もよれよれの戦袍ぐんぷくでは不思議なほど見栄えがせず、背もかろうじて中背の域に入る程度であるからすぐ人混みに紛れてしまう。幾らか童顔なので、彼を良く知らない者はこれが大名府の正牌軍殿とは気付かない。
 彼は汗でくしゃくしゃに乱れた頭髪を掻き回した。
ぶん都監しょうぐんだよ、あンのおべっか使い」
「おいおい、こんなとこで上司の悪口言って平気かぁ?」
 索超の声はからりとしていてよく通る。早口の特徴のある喋り方で、少し熱が入れば近所中に聞こえるのだ。
「あんたと雀くらいだろう、聞いているのは」
 索超はどかりと座った。
 短気で好戦的、ついた渾名は《急先鋒さきがけやろう》。だがそれは戦場や試合場でのこと、普段の索超は愚痴や悪口さえ爽やかに聞こえるほど快活な好青年だ。ついでに言えば多弁な方で、これがよく楊志と友人づきあいをしていたものだと劉唐は思う。
「仕事もしないで梁中書のとこばっかりいそいそ出入りしてやがる。それだけならまだいいが、梁中書の私用に俺達を使うなっての。あすこの使いまでやらせられるんだぜ。てめえの牙軍イレギュラーを使えよ、禁軍せいきぐんじゃなく」
「お前、梁留守司の奥方の使いっ走りやらされたんか?」
「部下がそれを理由にちょくちょく抜けて、訓練にならないんだよ」
 索超はふくれた。際立った武芸の腕を将軍らに気に入られて抜擢されたが、まだ二十代前半の青年だ。そんな顔をすると一層少年臭くなる。
「まぁ空けろよ、飲めばすっきりするだろ」
「愚痴上戸なんて言われるの嫌なだけさ。でもなあ、俺だって愚痴るぞ、たまには」
「おう、やれやれ。聞いてやる」
 大杯にとくとくと酒を注いでやり、索超が一気にそれを干すのを劉唐は眺めた。
 大杯を置いて息をついた索超が満足そうに笑い、ふと表情を曇らせた。
「楊志もさ、もう一週間くらい前に用事を言いつかって出かけたままだろう。いまいましい奴らだ。あいつ腕は立ってもどっか抜けてるからな」
「お前が腕を誉めんのは珍しいよな、ほんと」
「一度見りゃ解るよ。癪だが俺の大斧でも互角……」彼は生真面目な顔でちょっと考えた。「いや、正直に言うと受けるのがやっと。速い。まあその分パワーで劣るが」
「俺様は見てねぇもの、お前らの練習試合。その頃まだ大名府には来てねぇよ」
「馬っ鹿だなぁ……自分で言うのも何だが、大名府きっての名勝負だったぜ」
「何度も聞いた聞いた」
 一介の浪人である楊志が軍内での武術試合に参加したのは、梁中書が楊志の腕に惚れ込み、軍人として取り立ててやるつもりだったらしいと劉唐は既に聞いていた。腕に憶えのある前科者が栄達を望むには願ってもない機会である。だが楊志はたやすく勝ち残りすぎてしまったようだ。前科者の豎子などにことごとく敗られては大名府軍の名折れとばかりに、正牌軍の索超が駆り出された。
 実を言えば、味方の情けない負けっぷりとブーイングの嵐に、業を煮やした索超自身が名乗りを挙げたのである。
「だが向こうも俺を侮ってのらくら躱していたからな……もう少し長引けば俺が巻き返していたぜ」
「ひひ、するてぇと気分は負けてたな、お前」
 劉唐が忍び笑いしてみせる。怒りもせずに索超も笑った。
 壁が向こう側から叩かれた。うるせえぞ、という怒鳴り声が聞こえる。索超はむっとして立ち上がった。
「そっちこそがたがた騒ぐなクソ野郎、せっかくの気持ちいい酒が台無しだろうが!」
「あ、おい」
 劉唐が止める間もなく索超は部屋から飛び出していった。途端に怒鳴り声と物音の応酬、皿が割れる音。赤毛の大男がにやにやと笑っているうちに《急先鋒》は戻ってきた。
「待たせたな兄貴」
「用足しよりよっぽど早ぇな」
「ま、さっぱりするのは同じさ。ああ静かになった」
 彼は何事もなかったかのように劉唐の杯に酒を注いだ。
「すぐ逃げ出すくらいなら言いがかりなんてつけるなよなぁ、つまらん」
「物足りないんかい、お前」
「張り合いないよ、楊志みたいのがいないと。皆すぐへたばる」
「あんまり兵隊をしごくなよ、恨まれるぞ。くそ真面目な軍人ほど馘になるって俺の兄貴が言ってたぞ」
「違うね、いい軍人ほど酷い目に遭う、だ。お偉方とそりがあわなきゃまともな奴ってことだよ、判りやすいだろ」
「んなこと言ってるとお前もどっかに飛ばされるぜ」
「別にいいさ、そしたら次の上司は同じように左遷されてきたいい人になるだろ? 青州がいいなぁ、名高い《霹靂火かみなりおやじ》の秦明しんめい将軍に怒鳴られてみたい! いやその前に手合わせだな、狼牙棍サボテンぶん回す相手とやったことないんだ」
 青州は兵乱が多い地域として有名だ。要所であるから優れた武将に守備させなければならない反面、左遷先としても知られている。つまり、物騒でくたびれるだけの地域に行きたがる者など滅多にいないというわけだ。
「おいおい」
「まあそれは冗談だとして。俺だってお袋を食わせないといけないし、ちっとは袖の下も通す。サボってあんたと酒も飲む。腕が鈍りそうだよ、のんびりしすぎて」
 索超は二杯目を干して笑った。
「お前んとこの兵隊かな……さっき反物担いで走ってるのを見たぜ。あれだろ、奥方の用向きってのは」
「多分な。唸るほど金あるくせにどケチだぜ、あの白粉狐女。注文しといた緞子たんものを誰かに取って来させてけちつけるだろう、仕方ないから自腹切って他のやつと取り替えてくるだろう……小説かたりものに出てくる田舎の県令けんちじの女房じゃあるまいし。張四がべそかいてたよ、あいつンとこ三人目が生まれたばっかりなのに」
「どうせお前が銭出してやったんだろ? 隊長さんよ」
「だって俺は独り身だし」
 索超はちょっと顔を顰め、照れ隠しに手羽先の煮物を口に放り込んだ。誉められるとすぐ赤面するこの男が、毎回の試合で勝利する度にどうしているのだろうと劉唐は思う。
「最悪だぜ、何たって舅への生辰綱まで護送させるんだから……あんた北京に来たばかりってことは、蔡宰相への去年の荷がまんまと奪われたことも知らないだろう。車輌が十だぜ」
「蔡って、そういや奥方の親父様か」
「そ。あすこ婿が何人もいるから梁中書も大変なんだ、舅の機嫌を損ねたらおしまいだからな。……俺なら本道なんて使わず裏道を行くね、何か別の隊商に化けて。『献賀太師生辰綱』なんて旗なんて立てたら奪ってくれって言ってるようなものじゃないか。俺だって一瞬血迷うかもしれない。あ、これ前も言ったっけ? まずいな、俺謀反の心ありってやつか?」
 彼の口振りがあまりにさばさばしているので劉唐は吹き出した。
「で、まんまとやられたのか? お前」
「俺なもんか! 俺がいたら無事だった。俺はただ、要らん口は利かないで黙ぁって見送っただけさ」
 ちょっと声をひそめてそう言い、索超はまた馬鹿笑いした。
「梁中書、俺達があんまり頼りにならないから、今年は変な道士に頼るそうだ。ほら、こないだ言った例のゲジゲジ野郎」
「謝とかいう?」
「それだ。何でも奥方の娘姨うばの亭主の義弟で……」
 劉唐は笑った。
「お前ちょっと酔ってるな。娘姨の亭主の義弟ってったら娘姨の弟だろ」
「違う。娘姨の亭主が謝都管っていうんだ、同じ謝だろう? 女房と同じ姓なわけない」
 酔っぱらいのくどさで索超はゆっくりと説明した。
「じゃあ義弟じゃなくて弟じゃねぇのか」
「いや違うさ。よくやるだろ? これと見込んだ奴との義兄弟の契りってやつ。けど奴らの場合は好漢同士の誓いとは全然違うんだ、金の縁ってやつ。あんた見たことあるか? すげぇ酷薄な顔した爺ィだぜ、謝都管って。その孫だか何だかがまたそっくり」
 彼は唾を吐きそうな顔で言い捨てた。
「義兄弟の契りは結んでも姓なんか変わらねぇぜ?」
「だからさ、あのなまぐさ処士が都管の弟って名乗って屋敷に入り込んだだけなんだ。その方が便利だからな、変な評判が立たない。近頃じゃ怪しい奴の取り締まりも厳しくなってきたから……」
 彼はゆっくりと頭を振った。
「よっぽど後ろ暗いこと企んでるぜ、あれ。ただ取り入りたいなら辻占いか何かって名乗ればいいんだ、員外だんながたはそういうの好きだからな。だが都管までぐるになってるってことは」
 彼は言葉を切って困惑したように劉唐を見やった。
「あー、何だろうな?」
「俺様に聞くなぃ、話の途中で。やっぱお前酔ってるよ、だいぶ」
「うん、そうかもしれない」
 索超は卓にこぼれた酒で落書きをしながら頷いた。
「楊志の奴心配ないとか言ってたけど、こっちの身になってみろって。幾ら腕が立つって言っても……ほんの豎子じゃないか」
 首筋がうっすらと赤い。どうにも可愛げのある男だ。劉唐は笑みを噛み殺した。
「解った解った。お前ストレス溜めすぎ」
「解ってないよ劉唐兄貴、何だか知らないがむずむずするんだ、あの屋敷。弟みたいに可愛がってた奴がある日そこに入ったきり、だぜ?」彼は少しむきになった。「何だって俺は関西か青州にでも行かなかったんだろう、こんなしけたとこで兵隊なんて。金貸しだの解庫だのやってる留守司サマだってさ、今度は妖術使いだ。へん、生辰綱なんて奪われちまえ!」
「珍しいなぁお前……もう今日は飲むのはやめにして帰るか」
 苦笑した劉唐が彼の腕を取ろうとすると、索超は酒臭い息で呟いた。
「けどな。賊がさ、ほんの十分の一でもいいから貧乏人にくれてやるってのなら、俺は本当に見て見ぬ振りをするかもしれないな」
 劉唐は思わず彼の顔を見た。索超の双眸は常のように澄んでいた。
 彼はにこりと笑った。
「冗談だって。飲み足りないだろ、あんた。うちで飲み直すか?」
 
 
 
 
「ったく面倒な女だな、てめぇは。何で拉致られた方がこんなことしなきゃならねんだよ、セーリ休暇取れ」
 晁蓋はぶつぶつ言いながら手の中で薬草を揉み潰している。常に幾らかの薬や塩を携帯しているのだ。さすがは立派に盗賊の一員というべきか、用意がいい。
 手足や顔の打ち身は一夜明けた今では黄色や青のまだらになり、唇の端には血の跡がこびりついている。が、手際よく残り火をかき立てて蒸餅むしパンの残りなど焼き直している様は、とても拉致されてきた孩子には見えない。小指の包帯をちょっと替えたきりでけろりとしている。
「拍子抜けするな……さあ今日も楽しい拷問だと思ってたら。まさか次は兎か山鳥でも取ってこいって言うんじゃねぇだろうな」
 一夜明けると立場が一変していた。傷だらけの晁蓋よりも楊志の方がよほど体調が悪いようだ。
「……何故逃げない」
「一瞬で捕まって折檻されるよりはピクニックごっこしてた方がましなんでな」
 こともなげに答え、彼は楊志の顔を睨むように覗き込んだ。
「てめぇホントにそんなんで鏢客なんてやって来れたのか? 今まで。毎月そんなになってたら普通の女はとっくに墓の中だぞ」
 楊志は背筋を伸ばして静かに座っている。一見は常と変わらないが、彼女のあの尋常ならぬ気迫がまるで失せていた。蒼白な顔の中で青い痣だけがくっきりと浮かび上がっている。
 ほんの僅かに青みを帯びた頭髪が、僅かな風にそよいでいた。
 晁蓋は粉にした薬草に白湯を注いで突き出した。
「また飲んでみせねぇと飲む気はないか?」
 軽口に答える力がないのだろう。楊志はおとなしく受け取り、ほんの二口ほどでそれを飲んだ。
 晁蓋の鋭い目がその様子を測るように見つめている。
 今の楊志はまるで深手を負った獣だ、己の体力だけで死を追い払おうとしているかのように。自覚はなかろうが、おそらく何かと戦っているのだ。婦人の病などではない、別な何かと。
 彼は楊志の双眸を覗いた。熱病患者のそれに似ていた。
「……はん、何かやられてるな、お前」
 ごく低い呟きは彼女には届かなかったようだ。
 晁蓋は思案した。麓の方角を確かめ、身動きした瞬間に背後の藪が大きく動いた。
 
 
 早めの昼食を食べ終えた白勝は証文の写しをもう一度数えた。出立前に呉用が選り分けてこまごまと注意を与え、解庫ごとに色の違う紐でそれぞれ綴じているという念の入れようだ。小七と二人でざっと目を通したが、全部は見終えないうちに大名府に着いてしまった。呉用は一刻とかけずに調べてしまった筈だ……学者先生とは凄いものだと白勝は感心した。どこの公主ひめぎみか若奥様かと見とれるような美女だというのに。
「細かいのだけでざっと一万貫かぁ……でもこっちの大口はどう始末するんだろ」
 ハシタはチャラ。晁蓋は素っ気なくそう言った。金はあるところからふんだくればいい、貧乏人には借金棒引きというちょっとした祝儀をくれてやるという意味だ。
 残りの九万貫分はありがたく頂戴するが、換金するまではただの紙切れだ。動き回る範囲が広い白勝と劉唐は今回の計画の大半を知らされているのだが、大口手形の処理方法についてはまだ聞いていなかった。おそらく呉用がうんざりするほど面倒なやり方で始末することになっているのだろう。
 東京開封と大名府は距離がある。梁中書が何か手を打つまでには時間がかかるし、小二の部下が見張っているから動きはすぐ察知出来るから、開封に赴く前に大名府での裏付けを取る時間はある。小心者の白勝としては、この手形で損害を蒙る中に正直な商人がいないかどうか、一応確かめておきたい。
 どう見ても本物にしか見えないが、これらは公孫勝が造り出した偽物コピーだ。何もないところからぱっと取り出してみせるあの技を、晁蓋は滅多に使わせなかった。厄介な問題があるらしい。本当に大変なことなのよ、と呉用は説明してくれた。
 道術といえば普通は祭壇やら呪文やら足踏みやら、大仰な準備が必要なものだ。だが公孫勝は何も必要としない。楽をすると逆に大変なのかな、と白勝はぼんやりと納得したものだ……神妖マジックものの講談に出てくる道士とはだいぶ違うらしいことだけは解った。
 彼は色のついた紙束をつくづくと眺めた。確認を取るだけなので、一目で写しと判るように薄赤い色にしてもらったのだ。さもなければ、山賊や掏摸にでも遭ったら大変なことになる。白勝が思わず青ざめたほど巨額の貸し付け証文だった。殆どは開封でも名の通った大店の主の名義である。
「何であんなに稼いで儲けてるのに、こんなの要るんだか……金持ちほど物いりってのは本当なんだな」
 彼はおそるおそるそれを懐にしまい込み、ぬるくなった烏梅水うばいすいを啜った。黒焼きの梅と砂糖を冷たい水で割った夏の飲み物だ。幼い頃はこれを一人で一杯飲むのが夢だった。今でも見かける度につい頼んでしまう。
 小七は大名府の城門にも入らずにさっさと帰ってしまった。家を留守にすると兄貴二人が汚すから、というのが最大の理由らしい。まめな人だな、と白勝は少々見当違いの感想を抱いた。おかげで旅の間ずっと清潔だった。ただ彼女の洗濯は少々荒っぽいが、文句を言う気は毛頭ない。
 久々の北京は懐かしかった。辻を曲がり、近道を思い出す度に白勝は昔に戻っていくような気がした。何度この道を通っただろうか?
 小七に告げた東平府軍属という来歴は嘘ではない。兵の流動の激しい地域で、一月と経たないうちに開封に移り、その後大名府に転属させられたのだ。こまごまと説明しようかするまいか、どうでもいいようなことに思えて結局それしか言わなかった。きちんと説明すれば晁蓋の過去にも触れてしまう。
 多分、決して人には話せないだろう。あのことは。
 
 
 
 
 白勝はほんの少年の頃にちょっとした盗みで牢にぶち込まれ、手先が器用であることを買われて従卒となった。給料もろくに貰えない最下級の兵士である。主人が開封に栄転した途端に急死し、路頭に迷って再び悪事に走ろうとしていた白勝を、第二の主人が拾ってくれた。
 それから一年ほどは幸せだった。ぶたれも凍えもしなかった。主人はいつも飢えて痩せこけていた白勝を毎日のように連れ帰っては食事を食べさせてくれた。
 ──侍衛歩軍じえいほぐん教頭しはん周侗しゅうどう
 侍衛歩軍は禁軍このえの一軍である。周侗は射芸ゆみの武術師範であり、剣を取っても名高かった。
 教頭の地位はごく低く、役付の中では最下位だ。教え子だった者達もあっという間に彼を追い抜き、敬礼される側となっていく。にも関わらず周侗を敬愛する者は多かった。磊落で、何より笑顔の良い人だった。
 その母堂の思い出も白勝にとっては周侗と同じほどの重みがあった。厳しくて滅多に微笑を見せない人であり、初めのうちは彼女の視線に晒されるのが嫌だったが、彼女が自分の好物を憶えてはよく拵えてくれることに気付いた。着物の綻びもいつの間にかなくなっていた。
 従卒から一般兵士に引き上げられた時は全く嬉しくなかった。自分はずっとお二人に仕えたい、そう訴えた白勝を叱責したのは母堂であった。
 ──壮子おとこたるもの、志を高く持ちなさい。頭を上げていなければ、見えるものも見えませぬ。
 もうこの家には出入りを禁じます、お前だけに目をかけていると評判が立てば周侗のお務めに支障が来しましょう。お前はお前、もうわたくしとも何の関係もありませぬ。
 そう厳しく言い渡されて放り出された。啜り泣きながら兵舎に戻り、そして次の日からは彼女の戒めに背かぬようにと懸命に務めた。元不良少年にそれほど素直に聞き分けさせる人だった。
 ……牌頭くみがしらの用で一週間ほど大名府に出かけ、留守にしていた間のことだった。
 
 
 ──周侗殿が逐電なされたと。
 ──お気の毒に、あの蹴鞠の大将に睨まれたんじゃなあ。
 開封に戻る途中で噂を小耳に挟み、無我夢中で帰りつくと周侗の家には誰もいなかった。暫く前から高大尉に陰湿な嫌がらせをされていたのだと、白勝はその時初めて聞いた。
 何を憎まれたのかは白勝は知らないが、想像はついた。賄賂を受け取らぬ直廉な人間ほど敵を作る世界なのだ。周侗の訓練は厳しく、恩蔭コネによって入ってきた軟弱な貴公子らにも容赦なく罰則を下したから、恨みを抱いている者は多かった。彼らの讒言によるものだろう。
 以前も周侗の同僚であった王進おうしんが高俅に睨まれて姿をくらましていた。やはり年老いた母がいたのだ。まだ捕らえられた噂はない。その記憶が新しかったからこそ、周侗も逐電する決意を固めたのだろう。
 周侗には母がいる。彼が流刑にされれば母は飢える、否、高大尉がそのままにしておく筈がない。かといって賄賂を受け取り媚びることが出来る男ではない。たとえ御母上の為に御主人が汚辱を堪え忍ぼうとしても、御母上が許さない。
 白勝は涙をこぼした。噂を聞かせてくれた牌頭がこう付け加えたからだ。
「お前も危なかったな、白。暫くおとなしくしてろよ。何か面倒起こして取り調べられて、周侗殿の世話になってたなんてばれたら、どうなるか判ったもんじゃねぇぜ」
 
 
 ……白勝は脚を止めて息を吐き出した。そしてぎくりとした。雑貨問屋街を抜け、大市いちばに出ていたのだ。不意に立ち止まった彼を芸人の一群が迷惑そうに睨みつけていったが、白勝は気付かなかった。
 ──ここで最後に周侗様を見たのだ。
 そして晁蓋さんが、
 あの時。
 
「おい、お前だ、そこの」
 誰かが白勝の背を乱暴に突いた。腕を掴まれ、振り返ると薄笑いを浮かべた数人の男がそこにいた。
 
 

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