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蓋星水滸伝2 孤吼10
──兄上の傍を離れてはいけないよ。
そう言ったのは誰だっただろう。
故郷を離れて気の向くままに旅していた頃のことだ。あの頃は兄が嫌いだった。粘土を粗く捏ねて丸めたような顔と身体、鈍感でそのくせ人が良いから何かと世話を焼こうとする、それが煩わしくて面倒で、声を聞くだけでも苛々とした。邪険に肘で振り払う弟を、しかし兄は叱らなかった。近所の者にからかわれてもへらへらと笑ってみせる、それが我慢ならなかった。
故郷を離れてしばらくは、一人でいるのを愉快だと思った。拳にものを言わせ嫌なものは蹴り倒して、喧嘩はますます強くなった。酒を飲み、女も試し、博奕をやって勝つこともあれば派手に負けることもあった。大抵の場合、すり寄ってくるやつがいて勝手に儲けさせてくれる。それらは何故か狡い目つきの痩せた小男が多かった。そんなひね媚びたやつらを見る度に兄を思い出した。兄は非力で貧弱な体躯だったが、弟の威を借りようとはしなかった。
──兄を思い出させた者はもう一人いた。
袍の上を滑る絹糸のような黒髪。変わり者だという噂を示すように、長い髪を異国風にそのまま肩に流していた。顔は憶えていない……姿形がどこもかしこも精緻で、豪奢な人形を見ているようだった。
旅の豪傑の話を聴くのが好きな変わり者の
その通りだと思った。暇つぶしに百叩きだの人殺しだのの話を聴いて面白がっているだけなのだ。そんな奴の屋敷ならせいぜい飲み散らかしてやればいい。
どうせ何も解っていねぇんだ。ひもじくてひもじくて、他人の食いかけの飯や
そんなことを言ったのは片腕のない初老の男だった。見栄ばかり張っている無頼者らも、時にはしんみりと愚痴をこぼす。そうだそうだと何人かが頷いた。
──僕もそう思う。
皆から離れてぼんやりと中庭を眺めていた武松の耳には、その小さな呟きが聞こえた。
何の気まぐれを起こしたものか、無頼者らが逗留する
彼は微笑んだ。
「早く帰るといい。兄上の傍を離れてはいけないよ」
そんなことを、何故今になって思い出したのだろう。
彼はぼんやりと少女を見つめた。子猫のように大きな目を瞠ってこちらを凝視している、まだほんの
「──あ」
先に声を上げたのは少女の方だった。
「旅の人? 水、欲しいの?」
街道を外れた藪の中から見知らぬ男がぬっと現れたというのに、怖がりもせずにそう尋ね、石瓶を譲るかのように一歩退いた。汚れた手拭いがふと気になったらしくもじもじと背後に隠している。
何故この娘はおれを怖がらないのだろう。まるで普通の人間を見るようにおれを見る。
彼女がもう一度顔を上げた時、その後ろの方に現れた男が素っ頓狂な声を上げた。
「誰だぁ、てめぇはっ!」
王二が怒鳴り声を上げると男は視線を落とした。瞬いた目が、急に疲労を感じたようにどろりと曇る。黒っぽい襤褸を恥じるかのように森の奥へと引き返そうとしたその男に向かって、王二は尚も勇ましく叫んだ。
「どこの野郎だ、この
「王二、やめなよ」
「待て、この野郎」
男に躍りかかろうとした王二が藪に足を取られてよろけ、男の袖を掴む。騒ぎを聞きつけてやってきた男らが、王二ともみ合っている見知らぬ男を見て血気づいた。
「あっ、
「王二、そいつを引きずり出せ。締め上げてやる」
数人が王二に加勢して男に掴みかかる。棒を構える者もいる。孔亮が何か叫ぶが騒然となったその場では誰の耳にも入らない。苦しげに顔を顰めた男の顔を誰かの棒が打った。
「まずは
「縄で樹に括りつけろ。何だこいつ、何も言わねぇ」
こづき回す男らを煩わしげに見やり、男は彼らを振り払った。突き飛ばされた王二が仲間の棒で強かに打たれて声を上げる。一瞬怯んだ彼らを押しのけて、男はその全身を現した。孔亮がぽかんとしたほどの大男だった。
「亮小姐、危ねぇ」
一人が力任せに棒で打ち据える。鈍い音と共に真ん中から折れたのは棒の方だった。跳んだ木っ端が男の顔を掠め、赤い線が走る。勢いづいた男らが尚も棒を振り上げた。隣の者の棒と噛み合って忌々しげに唾を吐く者もいる。
たいして抵抗もしていなかった男が突然唸り声を上げて腕を振り回した。突き出された棒を片手で払いのけ、脚にしがみついた者を蹴り飛ばす。宙を舞ったのは孔亮とさほど年の変わらない少年だった。地面に叩きつけられ、ぐんにゃりとのびたその姿を見て孔亮はかっとした。
群がる者らを蹴り散らした男が逃げ出そうとする。その脚を棒で掬った。不意を打たれて男が小川の中に転げ落ちる。勢い余った孔亮の軽い身体もその衝撃ではね跳んだ。きゃっと小さく悲鳴を上げて、彼女も小川の中で尻餅をつく。その飛沫を打ち消すかのように男の巨体が小川から躍り上がった。奇妙に鈍い音を立てて石瓶が割れる。野獣のような咆吼が轟いた。
男らが口々に怒鳴り身構えるのには目もくれず、ずぶ濡れの巨体が駆け出す。孔亮らが稽古していた中庭、その向こうは村だ。こんな巨漢が暴れては何をするか判らないと、慌てて男らが躍りかかった。
先程の面倒臭そうな態度とは一転して、巨漢の動きは獣のように敏捷だった。後ろ回し蹴りで一人を倒したその反動でまた一人。誰かが投げつけた石礫が男の額に当たり、血が流れたがそれにも怯まず、かっと目をむいて睨みつけられたその男は竦み上がったところを横凪ぎに蹴り倒された。誰もが一撃で倒れていく。
巨漢は獣のように唸り、倒れた男らを一瞥してから再び駆けだした。行く先は頭にはなかった、ただ早くこの場から去りたかった。突風のように村の中を駆け、ぽかんとしている老婆の間を抜けて街道に至り、しかしその平らかな道を避けて横道に走り込んだ。村の者が炭を焼くらしい古い炉、その向こうはまた森。誰もいない。
村の者らしい孩子が前方に現れ、その傍らをすり抜けようとした途端に左足の甲に衝撃が走って武松は倒れた。
「見映えのしねぇ雑草でも案外丈夫なもんだ、てめぇがひっかかったくらいじゃ切れやしねぇ」
枯れた草の束を二つに分けて結わえた草の罠。子供がよくやる遊びだ。
ついでに牛の糞でも塗っておけば良かった、と孩子が笑った。
「でっかい大木のくせに簡単に倒れちまうのもいればよ?」
武松を見下ろした双眸は、しかし笑ってなどいなかった。
「晁君、こんなところで何かしていると思ったら……でも、この人は?」
戸惑っているのはまた別の声だ。先程の騒ぎを知らないらしい。
めりめりと音を立てて草の罠が地面から引き剥がされた。土くれをぱっとまき散らし、孩子から逃げようとするその身体に上から降ってきた網が巻きついた。もがく巨体にますます絡む。
「そりゃ猪用だ、そう簡単には破れねぇぜ」
孔屋敷の納屋で見つけた古縄を投網の上からぐるぐると巻きつける。頭上の木の枝から飛び降りてきた公孫勝と共に、呆れるほどの手際の良さでがんじがらめにした。
武松が吼える。その凄まじい声に公孫勝が首をすくめた。
「うるせぇよケモノ」
晁蓋が眉を寄せる。
「このヒトどうするの?」
「それはこいつの決めることだ。面倒だからこのまま炭にするか? 一冬保つぞ」
「ちょ、それは困るよ、第一人は炭にならないし」
「とりあえず白勝が帰ってくるまでこのまんま? まだ何日かかかるんでしょ、オレ迎えに行ってこようか?」
「人の話を聞いてんのか」
「だって晁蓋さんいつもそう言うけど助けてるじゃない」少年道士はにこりと笑った。「優しいよねホント」
孩子は鼻を鳴らした。
「俺は生憎と人間なんでな、畜生の悩みなんざ知らねーよ。ケモノだったら自分の怪我くらい舐めて治してみやがれ」
「人に見えるけど」
「怪我してるの?」
「てめぇら二人、どっか似てるな……」
武松は体力を消耗したのか、動きを止めて彼らを見やっていた。全身が泥と血にまみれている。近寄ろうとした公孫勝の袖を孩子が忌々しげにぐいと引いて止めた。
「ケモノの餌になりたいのか? あ?」
「え! オレちょっとは美味しそうなの?」
「……何でそこで喜ぶんだ?」
「
「ちょっと待て、いつの話だ」
「あ、白勝お帰り! 早かったね」
息せき切って駆けてきたらしい青年が村の方から現れた。網と縄で誰とも判らぬ巨漢と三人を見て、白勝はぐったりと首を垂れる。
「お帰りなさい、白さん」
「一体何してるんですか……」
「御苦労。話通ったか?」
「塩の道ですか蕭さんと金さんのことですか。東京と江南には朱貴の
「お前もいい加減人の使い方憶えろよ」
「はあ……それで、その」
くたびれ果てた白勝の表情が、ふと変わった。
武松が凄まじい叫び声を上げた。
晁蓋が公孫勝を突き飛ばす。
白勝が朴刀を手に身構える。それを見た孩子が叫んだ。
「抜くな、退がってろ!」
咆吼と共に野獣が網と縄を引きちぎった。縄が生き物のように撥ねる。唸りを上げた腕に孩子の小さな身体が叩き飛ばされ、更に掴みかかろうと伸ばした手を孔明の棒が強かに弾く。吼えた巨漢の猿臂がその身体を横凪ぎに打ち据え、孔明は空き地の端に積まれていた薪に頭から突っ込んで動かなくなった。
武松は目を
少年道士を背に庇った青年は身を低くし目を細めてこちらの様子を窺っている。街道へと続く道に立ち塞がる者はいない。網の切れ端を蹴散らして、そちらに向かおうとした。身体の節々が痛い。
「今度はどこに逃げんだ、このヘタレ野郎!」
叩きつけられた樹の根元から起きあがり、腹を押さえながらも一喝したのは孩子だった。
「どこにも逃げ場なんてねぇぞ、クズ野郎。このまま一生
武松は動きを止めて彼を見つめる。
孩子は憎々しげに男を見上げた。そのまま深く息を吸い込み、ごくゆっくりと吐き出してから落ち着いた声で問う。
「言ってみろ。お前に殺しを命じているのは誰だ」
武松はだらりと両手を下ろした。
不意に胸の裡が冷たくなった。
どくりと重い鼓動が身体の中で跳ねる。
青ざめ、膨れ上がった兄の顔。目から鼻から耳から血が流れ、呻いた口の中も真っ赤に染まっている。死斑。ごっそりと抜けた髪。二哥よ、と兄が呻く。おれは苦しんだぞ。
「人間語は忘れたか? 《天傷星》」
孩子が嘲笑った。
「晁蓋さん、じゃあ──」
白勝が絶句した。
先日別れた劉唐が言っていた言葉。景陽岡で虎を惨殺したという《凶星》。晁蓋は以来ずっと不機嫌だった。
「人食い虎やどこかの悪党共をぶち殺すだけならいいが、巻き添え食った奴らはいい迷惑だ。女のヒステリーみたいな殺ししてんじゃねえよ、この
鳩尾を押さえたまま孩子は樹にもたれ、顎を上げて巨漢を睨んでいる。
武松は呻いた。指の先から力が抜けていく。そのまま地面に吸い込まれていくような感覚──否、いっそ深淵に落ちてしまえばいい。地表が再び口を閉ざした時には、自分は暗闇の中で土竜のようにもがき苦しんでいる、そうすれば、少しは。
「楽になったか」
孩子の低い、ごく低い声が聞こえた。
「殴り殺して首叩き切って臓腑抉って。それで鬼を祀ったんだろう。お前は少しでも楽になったか」
武松は暫くしてからのろのろと頭を振った。孩子の裸足の爪先が見えた。ばかに小さな足だ、小さな爪がついているのが不思議なほど。
「ならこれ以上殺したって同じだ。救われねぇよ。いくら殺しても誰もお前を許してはくれない」
孩子は咳をした。
「お前の兄は嫂と間男の死骸だけで満足しなかったのか。血と魂魄を欲しがる
「違う」
「じゃあ、何でそう殺しまくってんだよ」
武松は頭髪を掻きむしった。
空虚な胸の中で心臓が不安なほど脈打っている。なのに手足は痺れるほど冷たい。二哥、と兄が悲しげに泣く。苦しいんだ、助けてくれ。
「は、なれたんだ。おれは」
兄から。
故郷に戻って、腕っぷしを見込まれて知県に仕えることになった。都頭にまで出世して、兄の武大をからかう者さえいなくなった。兄夫婦には間借り賃としてたっぷり金を渡し、時には反物なども贈って、やっと一人前の男になれたのだと思った。散々苦労をかけた兄に報いることが出来て本当に嬉しかった。
けれど、あの女は満足しなかったのだ。
あの潘金蓮という嫂は。
──いいから、あんたは黙って横になっていればいいのよ。あたしが全部してあげるから。
× × ×
元々睦まじかったことなど一度もない夫婦だった。どこかの金持ちが気まぐれに武大に下げ渡した元
けれど、不思議なほど欲のない女でもあった。豪華な暮らしだけが望みであるのなら、夫から逃げてどこか遠い地で妾になるなり、妓女になるなり方法はあったのだ。けれど潘金蓮が欲しがったのは、ごく普通の妻としての暮らしであった。好色な男らに声を掛けられても、彼女は軽蔑したようにつんとそっぽを向いた。噂はともあれ、武松に遭う前の彼女は不貞な妻ではなかった。
──男は一人でいい。けれど、それは武大ではない。
意地悪く評するならば、それらの言い寄ってきた輩が彼女の思い描く理想から大きくかけ離れていた為かもしれない。自分の美貌に見劣りする男には用はなかった。外見だけでもいけない。ただ、彼女は自分の理想が実際どういうものかははっきりとは判らなかった。生まれつき房奴であり、例の金持ちの屋敷で接したことがあるのは主人や老いた
彼女が自分の求めていたものを知り、その激しさに驚くのは、武大の弟に出会った時だった。
──ねえ、二哥さん。あたしはね
妻の様子に兄は気づかなかったのだろうか。丁寧に施された化粧、流し目、肩の埃を払う指先のなまめかしさ。気づかなかった筈はない。潘金蓮は自分の恋を決して隠そうとしなかった。武松が迷惑そうに顔を顰め、やんわりと諫めても、彼女はちょっと唇を尖らせて拗ねるだけだった。
──ちょっとふざけただけじゃない。ひどいことを言うのね。
なのにその目は武松を追う。
緩やかにくつろげた胸元の白さよりも、卓の下で武松の脛をつつく爪先よりも、その無自覚で切ない視線が武松を離さなかった。
なのに武大は知らぬふりをする。
妻の賢さや美しさを誉め、弟の力強さを自慢し、彼一人は歪んだ家の中で幸福そうだった。
二哥、と朗らかに呼びかける兄。
本当に何も知らなかったのか? 家庭を壊したくなかっただけなのか? それとも、本当はおれを肚の底で憎んでいたのか?
まだ小さな自分の前を歩く兄が脳裏に浮かぶ。振り向いたその目は蔑みに満ちていた。兄はそんな目はしたことはなかった、そう打ち消しても冷たく睨み据えたその表情が頭から離れない。
──あんたさえ黙っていればいいのよ。
思い詰めたように暗がりのようでそう言った女。微笑む唇が震えていた。
──ねえ武松さん。あたしはあんたに出会うまでは自分がこんなに不幸だとは思わなかった。知らなかったのよ。あんたと結ばれなければあたしはいつまでも不幸なままなの。お願い、助けて頂戴。そうしたらあたしはあの人にも優しくする、皆幸福になれるの。ねえそうでしょう?
衣擦れの音と脂粉の香り。
だから、逃げたのだ。
× × ×
気がつけばべったりと地面に頽れていた。
目の前には深い目をした孩子が樹にもたれ、やはり座り込んでいる。
「初恋をそんなエログロスプラッタホラーにすんのはお前ら二人くらいだ、この大間抜けのガキ共が」
溜息をついて孩子が吐き捨てた。
「
「違う!」
武松は地面を叩いた。手に触れた枯草を掴み、握りしめた。
「違う……」
あんな女は二人といない。
あんなに恐ろしくて淫らで、あんなひたむきで美しい女は。
自分が彼女を苦しめた。絶望し、何人もの男を自分の牀に引き込んで、
だから、今も闇の中から兄が呼ぶのだ。
──お前はもっと苦しまなければなんねぇよ、二哥。
「バカだな、てめぇは」
からりとした声がそれを吹き飛ばした。
「祀っただけじゃ葬式出す意味はねぇ」
孩子が見つめている。
「葬式ってのは死者の為じゃなくて生きてる奴らの為にやるんだ。てめぇの辛気臭ェ妄想も懸想も墓ん中に埋めて、それで初めて弔いを終えたってことだろうが。やりたけりゃ一生不景気な面して墓守でもしてろ。殺すなら殺していい奴だけ選べ。殺して余計に鬱屈すんなら、どうしたら気が晴れるか少しは考えろ。てめぇそれだけ育っておきながら頭の中は毛虫以下だ、毛虫だって蛹になる為に懸命に食いまくるってのに。足りない脳みそちょっとは増やせ」
辛辣な言葉が、けれど優しい。
「解ってんのか?」
武松は頭を垂れた。
舌打ちした孩子が大儀そうに身動きした。小さな掌の感触を武松は感じた。
「お前らの飼い主は俺だ。お前らの馬鹿さ加減も何もかも、俺に預けててめぇは身軽になれ。俺のものを勝手に磨り減らすな。でないと余計に苦労するのは俺だろうが」
ぺちぺちと彼の頭を数度叩いて、晁蓋は大きく息をついた。その拍子にうっと嫌な顔をする。
「晁蓋さん?」
いつの間にかすぐ傍にいた白勝が呼びかけた。
「やべ」
「何がですか」
「アバラ」
歯を食いしばったまま彼は更に大きく息を吸って腹に触れた。ややあってから再びゆっくりと息を吐き出す。
「よし、嵌った」
「よしじゃありませんよ! ちょっと、顎真っ青ですよ」
「こんなの怪我に入るかよ」
孩子がべっと唾を吐く。血の色をしたその中に白いかけらを見つけて白勝は青くなった。
「歯ぁ折れてんじゃないですか!」
「阿呆。抜けたんだ、ちょうどぐらついていたから」
「用さんが聞いたら卒倒しちまいますよぅ……」
白勝は武松を視界から外さないまま、ちらりと孔明を見やった。まだ気絶したままだ。見たところは怪我はないし、案外丈夫な青年だから心配はないだろう。
しかし村の者が知ればただでは済まない。
「孔家の一人息子と一人娘をぶん投げたんだから見つかればフクロだな。どいつもこいつも相当頭に血が上っているから俺らもやべぇぞ。元々余所者は好かれないもんだ」
笑い声を上げて立ち上がろうとした孩子を制して、白勝はその腋下に手を入れてひょいと立たせた。肋骨を折った直後によくも笑えるものだ。
「何ですか、お嬢さんもやり合ったんですか、その人と」
「そ。コーソン、孔明起こせ。周囲の目くらましはもう要らね。白、お前こっそり屋敷行って荷物取って来い。さっさと出立した方がいい」
よろよろと歩き出した晁蓋は街道へと続く小径へと向かった。慌てて白勝はその後を追い、ふと小径の脇に小さなものが光ったのを見つけた。
「……何ですか、これ」
ああ、と晁蓋がくたびれた声で応じた。
「武松をこっちに導く為のまじない」
「……はあ?」
「ケモノを罠にかけるには罠に誘い入れる必要があるだろうが」
「……釘に見えますが」
「釘だからな」
晁蓋はそれを蹴った。地面から抜けて転がったのは錆びた古釘だった。
「何でもいいんですか?」
「風で飛ばなきゃな。少しでも救われる気があるならどんな単純なまじないにだってひっかかるんだよ。オラ孔明、いつまで寝ていやがる。そこのでかぶつ、ここの奴らにぎゃあぎゃあ騒ぎ立てられたくなかったらさっさと来い」
夢から醒めたような顔で立ち尽くしていた武松が、孩子を見つめる。
晁蓋が唇の端を上げて笑った。