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蓋星水滸伝 2

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蓋星水滸伝


 
 姓は晁、名は蓋。それ以外のことを小五や小七は知らない。呉用と同郷であると聞いたが尋ねそびれたままだ。彼女もまた過去について語りたがらないから。
 晁蓋は肌や髪に塗っていた何かを泥や埃と一緒に洗い落とし、こざっぱりとしたひとえに着替えている。まだ濡れている髪の先から滴がしたたり、肩に引っかけたままの手拭に落ちた。一瞥しただけでは色の浅黒い痩せた孩子、それだけだ。見るからに生意気で可愛げがないというのも大方の意見だろう。そこまでは間違いではない。
 だが、誰もが騙される。
 先程まで作っていた悪戯豎子こぞうの表情が消えると、まるで横たえられた鋭利な刃のような雰囲気が生じる。楊志がほんの一瞬だけ見た、晁蓋本来の顔だ。時には躁的に笑い転げ、悪態をつき、皮肉を飛ばすけれども、小五にはこの猫のようなそら静かさが晁蓋の本質だと思える。油断ならない。
 呉用が小声で今までの経緯を説明している。その間に小七は冷えた茶を淹れ直し、小五は何だか面白くなさそうな顔で晁蓋の小さな顔を眺めていた。
 押し黙った時の晁蓋は何を考えているか読めない。孩子らしからぬ孩子、しかし年齢については小五もそろそろ無視することに決めていた。やりにくい四十男を相手にしていると思えばいい。表情も口調も、あれは孩子ではない。最初は薄気味悪かったが、今ではだいぶ慣れた。
 公孫勝など、知り合ったのは仲間内で一番最後だったというのにころりと懐いている。こいつは例外中の例外だが、と小五は宙を睨んだ。
 ──晁蓋の持ちかけてきた話は悪くねぇ。あの極悪非道の梁中書から財宝を掠め取るのは痛快だ、あのデブ野郎の顔を潰してやれる。だが、あの楊志って女の方は……。
 彼は衝立の向こうを横目で窺った。
 初対面からひやりとした。自分と互角か、もしかしたら向こうが幾らか上だ。しかも女だと聞いて胸中で嘆息した。
 武術のセンスに男女差がないことは、小七を見ていればいやでも判る。だが筋力と体格ではどうしても男が勝るのだ。それを凌駕するには、並ならぬ努力と精神の強靱さを必要とする。のらくらと生きてきた自分は、あの女には勝てない。
 あの楊志という女がどんな壮絶な生き方をしてきたかなど、想像がつかない。
 暗い目だった。
 ──晁蓋は最初から知っていたのか? 何で解るんだ、あのガキには。
 冗談じゃねぇ、と彼はこっそり呟いた。
 ──『てめぇらは凶星なんだよ』
 いつか言われた、あの科白の意味が小五にはまだ解らない。
 
 
 
 
「……公孫勝、あなた梁中書の回りの洗い直し。特にその道士についてしっかり調べて来て。場合によっては作戦を手直しするから」
 晁蓋に説明を終えた呉用が柔和な声で、しかし手際よく指示した。その横で晁蓋は脚を卓上に投げだし、顎を上げ、聞いているのか否か判らない表情で黙っている。いつものことだ。
「はあい」
「その前に、さっきの書簡をもう一度見せて。写しは取ったわね?」
「うん」
「小二の別件の方が順調に進んでるから、白勝、あなたには大名府にいる小二と交替。捕盗けいさつの動きのチェックと幾つか調査をやってもらうわ」
「お、おれ?」
「大名府でも何かトラブルを起こしたの?」
「いえ……まあ、知り合いは色々いますけど」
 白勝は何かもごもご呟いているが、この男が煮え切らないのは今に始まったことではない。呉用は微笑んでみせただけでその消極的な抵抗を無視した。このような仕事に白勝以上の適任はいない。
「大名府と開封にこれからも使える情報網を作っておきたいわね、小二の手下があまりうろついていると怪しまれるし。あなたそちらのつてが色々いるでしょう? 小七、小二と劉唐に連絡を取るついでに送ってやってね」
「……あの、おれが護ってもらう方なんですね」
「当然でしょ。何言ってんのあんた」
 小七が白い目で見た。小五が苦笑いする。
「こいつの場合、出くわした山賊から金品巻き上げるぜ」
「女狙う奴なんてクズよ」
 はあ、と白勝は頷いている。
 晁蓋が公孫勝を手招きし、何やらひそひそと耳打ちしているのを小五は眺めた。歳が一番近いせいか、この二人は仲がいい。
「劉唐には続けて楊志について調べてもらうわ。言っておくけれど今のところ私はまだ納得していないわよ、晁蓋」
 呉用が晁蓋の意向に反対するのは珍しかった。常は盲従といってもいいほどおとなしい女だが、諫言することはためらわない。それでなくては軍師役は務まるまい。
「楊志は鏢客。武芸の腕だけ見れば確かに逸材ね。けれど大名府留守司の依頼なんて引き受ける鏢客に志があるとは思いがたいわ、しかも運んでいたのは生辰綱……汚い仕事よ。あなたが高く評価するのは意外と言うしかないわ」
「随分ときれい事言うようになったな、てめえも」
 孩子が鼻を鳴らした。表情は特に変わらないが、その声にどこか変化を感じたのか、呉用は黙り込んだ。
「十六で悪徳里正しょうやの妾やってた奴とは思えねぇよ。あの野郎の言うこと聞いてかんざしやら着物やら貰ってたのは汚くねえのか?」
 呉用が視線を落とした。他の一同も初めて耳にすることだ。思わず小五は声を上げた。
「……けどよ晁蓋」
「汚くねぇんだよ、そんなのは」
 晁蓋は肩をすくめた。
「自分の身体で稼いで食って何が悪い。さもなきゃ村を追い出されてのたれ死にだ。……そんなことは忘れたか? 呉用」
 最後の一言はいっそ優しげだ。呉用の耳朶が珊瑚色に染まっていた。
「だがお前はどん底を知らねぇ。生きてくのに這いつくばって物乞いする奴は呉学究のお目には止まらないってわけだ。あ?」
「私が言っているのは」
 晁蓋は頭を振った。
「データ揃わないうちにつべこべ言うと恥かくぜ、加亮かりょうセンセイ」
「……解ったわ」
 晁蓋の視線が呉用から外れた、それだけでその場のひやりとした雰囲気が消えた。
 
 
「ひそひそ話は終わりかい。なら食べな、残すと承知しないよ、餓鬼共!」
 まるで機を見計らっていたかのように、嗄れ声を上げて小太りの女が厨から現れた。卓上に大きな蒸籠ごと据えられたのは湯気の立つ巨大な饅頭の山だ。立ったままだった呉用は白い湯気の中に呑み込まれて瞬きした。
 小七が即座に湯呑みを並べて白湯をつぎ足す。阮兄妹の母親はやはり眉だけが子供らにそっくりで、丸っこい目鼻立ちも小柄な体格もまるで似ていなかった。
「おっかさん、中身は人肉か? 最近多いんだとよ、そういうグルメが」
「お前が豚で豚小屋にいるのが人間ならそうさ。つべこべ言うなら食べなくていいよ」
「俺ぁ豚の子だったんかい」
「豚は食い物にけちつけない筈だがね」
「へいへい、食うともよ」
 小五は相変わらずの減らず口を叩いているが、この肉饅頭がとびきり旨いことは誰もが承知している。忽ち会話が途切れた。
 先の口論をまるで聞いていなかったのか、何か一人で指を折って考え込んでいた公孫勝が小五を見やった。
「あのさ、小五は留守番?」
「……いや、これから訊こうと思ってたんだけどな。大役は最後に来るもんよ」
「留守番をお願い」
 にっこりと呉用が答えた。もう常と変わらない表情に戻っている。
「……はん、知ってたぜ」
「私と一緒ね」
「いやもう是非、こっちからお願いします」
「小二の連絡次第では私も出かけるかもしれないわ。一つ言っておくけど……」
「俺は前後不覚に寝てる女に手出しはしねぇ!」
「……そうじゃなくて、万が一薬の効き目が薄れてきたらこっちの薬を飲ませるの。もう少し時間を稼ぎたいから。予め水に溶かしておいて」
 首をすくめた小五と晁蓋の目があった。あっただけで、晁蓋は本物の猫のようにこちらを見返している。このガキ、と小五は舌を出してみせた。いつかこいつの泣きっ面を拝んでみせるぞ。
 
 
×    ×    ×
 
 
 目を覚ました時、楊志は飛び起きるような真似はしなかった。塗りの剥げた衝立の向こうで話し声が聞こえる。寝かされていた牀の周囲には人影はなし。そう見て取ってからそっと身を起こす。
「いいってよおっかさん、俺ぁ朝の粥の残りでいいよ」
 その朗らかな声の主が誰であるかは即座に判った。食欲をそそられる匂いが漂っている。
 衝立の隙間から差し込む陽射しが眩しかった。どこか水辺の村だ。そう察したのは空気の匂いからだ。一体どこまで運ばれたのか……黄泥岡は太行たいこう山脈の中にあるといってもよく、湖沼や海までは距離がある。川ならあるが、屋外から聞こえてくる物音は川音ではなかった。
 ──梁山泊りょうざんぱく
 楊志はぎくりとした。
 梁山泊は大名府と開封の最短路からやや東に広がる、浅く巨大な湖だ。そこかしこに出城が築かれ、堅牢な要塞と化している。追われた山賊らがそこに逃げ込めば、官兵せいきぐんさえ迂闊に入り込めないという。
 ここは梁山泊のほとりか。
 まさか、と楊志は打ち消した。黄泥岡からは距離がある。それとも自分はそれほど長い間意識を失っていたというのか……頭の芯が熱くなった。これ以上の屈辱があろうか、見ず知らずの誰かに、正体もなく無防備な姿を曝していたとは。
 彼女は奥歯を噛んだ。
 土間から聞こえてくる物音の響き具合からして、裕福な百姓か漁師の住まいなのだろう。しかし調度は質素だ。
 楊志は牀の小綺麗な上掛けを一瞥した。もしかすると、自分はこの家で最も贅沢な牀に寝かされていたのかもしれない。
 ……一体どうしたのだ、自分は。拉致されたにしては扱いが丁寧すぎる。
「何言ってんだよ、若いもんがこんな鳥の餌みたいなもん食って精がつくかね。ほら、お前が取ってきてくれた鯉、あともうちょい煮て最後にまた胡麻油を垂らすんだよ」
「おお、旨そう」
「それにしても小五」初老らしい女が声をひそめた。「あの行き倒れの人、まだ起きんのかい。あのお人にも食べさせてやんな。いきなり脂の強いのは身体に毒かねぇ」
「うん、学究が薬をくれたから大丈夫さ」
「ほんとに、いい太医おいしゃがいて良かったねぇ」
「太医じゃねぇよ、もっとずっと偉いぜ」
「おまけに別嬪だし」
「気だてもいい人だねぇ。あんたも小二も独り身だし……」
「先走りしすぎるぜ、おっかさん。俺ぁ水汲んで来るよ」
 楊志は手早く自分の身体を探り、衣服がそのままであることを確認した。窮屈な内衣も緩められていない。急病で倒れたにしてはおかしい。医者に診せたと言ったではないか。
 襟を探って彼女は苦々しく唇を歪めた。衫の内側に縫い込んでおいた書簡が消えている。手荷物は傍らの小机に置かれていたが、朴刀と短刀、それに脚絆ゲートルに隠していた投刀はなかった。
 楊志はそろりと身を移した。新たな声が耳に飛び込んできたのはその時だ。
「おい婆ぁ、土産だ」
「来たね。ちび猿め。またうちの馬鹿どもを悪さに誘いに来たのかい?」
 口調とは裏腹に女の声は愛情深く、からりとしている。容貌もさぞ息子と似ているのだろう。
「悪さするなと言い聞かせているのはこっちだぜ」
「さ、どうかね。おや、茶葉じゃないか。貧乏人にゃもったいないよ」
「てめぇのから咳に効くってんで小五に頼まれたんだ、ありがたく飲め」
「おやおや、うちの馬鹿どもは親のことなんかこれっぽっちも構わないと思ってたけど、たまにゃ孝行の一つもしたくなるのかねぇ……」
 こちらに近づいてくる気配を察して楊志は再び寝入ったふりをした。もう暫く状況を探った方がいい。あの母親は何も知らないようだが、三人目は? 聞き覚えがあるような気がするが。
 衝立がかたりと音を立てた。
 
 
 楊志は目を閉じたまま静かに呼吸していた。
 敵かもしれない相手の前で目蓋を閉じているのは辛い。気配を探ることは憶えた、しかし絶対に慣れはしない。
 数呼吸の間、相手は無言だった。まるでそこに誰もいないかのような錯覚を感じた途端、彼は低い声で楊志に声を掛けた。
「婆ぁ叩っ斬って逃げ出す気は起こらなかったか? 楊志」
 楊志はするりと身を起こし、声の主を見出して僅かに目を瞠った。だがそれは一瞬のこと、すぐに常の鉄のような表情に戻る。
 黄泥岡で出会った時よりもずっと小綺麗になっているが、きつい目つきは見違えようがない。黒っぽいうすぎぬの上衣に着替えたその孩子は人品卑しげなところがなく、武家か豪農の子弟のように見えた。
 しかしその浅黒い小作りな顔には無邪気さもない。その目に彼女は胸中の震えを感じた。怜悧で狡猾、それでいて静かな……黒い鋼の珠、或いは夜の湖の水面のような。
 自分が何に怖じ気づいているのか楊志には解らなかった。
「何故解った?」
 嗄れた声で彼女は尋ねた。孩子は軽く唇を曲げる。笑ったのだ。
「お前、寝てる時も痣の側を隠すんだな」
 迂闊だった。目覚めた時は確かにまっすぐ天井を見上げていたのだ。
「その眠りは夢も見せねぇ。そういう時は寝返りも打たないんだとよ。ぐっすり可愛く寝てたぜ、俺達がその気ならお前は今頃簀巻きで湖にドボンだ」
 ……眠り薬か。
 楊志は眉を顰めた。
 あの水樽か。だが、この孩子が開けたのはもう一つの方だ。一つ目の樽には手を触れていない。屋台の男がそちらの樽から水を汲んで手渡すのを自分は見守っていた。同じ樽の水を飲んだ人夫らは無事だったのに、自分は……飲んだ瞬間に意識を失った。
「頭堅いな、楊志」
 孩子は彼女の思考を読んだように笑った。
「正解は樽じゃなくて水椀」
「……だが、お前も飲んで」
「そうさ、俺もぶっ倒れた。何度も試したからあんまり効かなかったけどな。お前が薬に強い体質だったらやばかった」
 衝立に軽くもたれ、喉の奥で笑う孩子を楊志は見つめた。
 こいつは賊の手下か? 違う。何をどこまで知っている? その疑問はすぐに解消された。
さい宰相にはハッピーバースデーでも歌ってやるんだな。と、梁中書に伝えな。生辰綱プレゼントの十万貫は俺達がもうちょいましな使い道を考えてやる」
 楊志はにやにやと笑う孩子を凝視した。
 
 
 
 
 梁 世傑りょう せいけつ。北京大名府留守司りゅうしゅし、則ち陪都の長官である梁中書は、太師(宰相)蔡京さいけい女婿むこである。
 梁中書が舅に生辰綱たんじょうびいわいを贈るのは当然のこと……だがそれは名目、実際は公然たる賄賂であることは誰の目にも明らかだ。十万貫といえば高級役人の年収のざっと二〇〇倍にもなる。いかに大名府留守司といえどもたやすく捻出出来る金額ではない。
 だが。
 楊志は表情を変えぬよう務めながら相手を見据え続けた。相手が勝手に勘違いしているのなら、暫くそうしておいた方がいい。
 楊志に託されたのは梁中書からその部下に対する一束の書簡であった。確かに舅の誕生日に向けての下準備に関する内容だとは聞いている。舅の好みが難しいので大変なのだと梁中書は苦笑していた。
 第一、十万貫もの価値のあるものを一人で運べる筈がないではないか。証書の類ならともかく……楊志はぎくりとした。書簡、そんな、まさか。そんな莫大な金額の証書を鏢客に託す筈がない。かなり厚かったが。
「おかしなもんだよなぁ」
 腹の裡を読んだらしく、嘲笑うような独特の口調で孩子は言った。
「そんな価値のあるものを、ふらっと流れてきた?客に託すか? 目付役もなしに。それともお前、早々に目付役を始末してユーガに逃避行としゃれ込んでいたのか? だったら悪かったな」
「……お前に答える謂われはない」
 この家に今いるのはあの果物売りの母親と自分達二人だけ。あの男はすぐにも帰ってくるだろう。おそらく、その兄妹も。他に仲間は? 自分の武器はどこだ。
「その目立つ青痣じゃすぐに見つかるだろうけどよ」
 楊志の右手がぴくりと動いた。孩子は目を細める。
「お前の不器用さじゃ売りさばくことも出来ないだろうが、楊志。ホント腕だけで渡ってきやがったな、よくもまあそれで鏢客が務まるもんだ。商売にはオトモダチや頭や口八丁だって必要だぜ?」
「……お前は何だ」
「また復讐名簿リベンジリストにでもつけとく気か? 別に名乗るのはいいが、それはもうちょい後だ。お前がこの場で俺の下僕になるってのなら別だけどな」
 沈黙の後、楊志は聞き返した。
「お前の、何だと?」
「ゲ・ボ・ク」
 妙に子供っぽい口調で彼は言った。
「お前らみたいのは野放しにしておいてもろくなことにならねぇ。公共のメーワクなんだよ。だから俺が使い走りパシリにしてやるっていうんだ。楽だろ? その方がお前も」
 憤懣が腹の中に湧き起こらなかったのは、相手がほんの孩子であるせいだ。代わりに楊志は薄く笑った。
 まずは脱出。それからだ。
「面白い冗談だ」
「真実ってのは時々滑稽なもんだぜ、おネエちゃん」
「それより役に立つことを教えてやる。不相応な自信家は甚だしく滑稽だ」
「はん。もうちょいひねれよ」
 土間の方で女の声が聞こえた。息子が戻ってきたのだ。
 孩子は一瞬そちらに気を取られた。
 楊志は牀を蹴った。孩子を人質に取ることもちらりと頭を過ぎったが、間が悪い。足手まといになるだろう。
 衝立の横をすり抜け、卓の上に跳んだ。土間にいたあの青年が身構える。仕掛けてくる素振りはなかった。母親を庇ったのだ。
 楊志は窓から飛び出した。水のほんの間際であるのは予想済みだった。小径に着地し、猛然と村の出口へと駆け出す。
 湖面の照り返しが無数の点になって目蓋の裏を焼いた。茫洋とどこまでも続く水面、生い茂る葦。
 梁山泊だ。
 
 
 
 
第三章
 
 
「あっさり逃がしすぎたかしら」
 呉用が首を傾げている。晁蓋は鼻に皺を寄せた。
「ざけんな年増。こっちは突き倒されて頭に瘤だ」
「ごめんなさいね、晁蓋」
 彼女は思わず彼の頭に触れようとして手を引っ込めた。触られることが嫌いなのだ。これが白勝なら、触れる素振りを見せただけで向こう脛を蹴り飛ばされている。
「だから私があの役をやるって言ったのに」
「てめぇなら折檻されりゃ泥吐くだろうが」
「ぶたれるくらいならいいけど……」
「ばあか。ゴーモンって何されるか解ってんのか? まず指を折るだろ、爪の間に藁しべでも刺すだろ、それとも剥ぐか。藁だと簡単に膿むんだよなあ。あいつ馬鹿力だから指先を押し潰すだろ」
「やめてやめてやめて、聞いただけで嫌っ」
 呉用は丸い肩を震わせて縮こまった。
 するかよ阿呆、と晁蓋は鼻を鳴らし、椅子にふんぞり返った。小五の隣にいたその母親が卓の上に載った晁蓋の脚をぴしりと打つ。
「食べ物を載せるとこに何だい、ばちが当たるよ。このくそガキ」
「がたがたうるせぇなあ、小言言う度に皺が増えてんぞ婆ぁ……」
 ぶつぶつ言いながらも晁蓋は脚を引っ込め、宙を睨んでいる。
「悪さにうちの馬鹿共を誘わないどくれ」
「てめえが一番の役者だろうが」
「役者なものかい、あたしゃまっとうな良民だもの。いつもの通りに振る舞っただけだよ。それにひきかえお前さんは何だい、チンピラ共に行儀作法を教え込むくらいはいいけど、金持ちの家回っちゃ金巻き上げてるって? ちびヤクザめ」
「ありゃ巡回料みかじめだ、奴ら恨まれてるから敵も多い。俺がうろつきゃ押し込む奴はそういない。喜んで払ってるぜ」
「貧乏人の敵の味方してやるのかい」
「地域の治安維持への貢献。確かそう言ってたなあ呉用? トラブルが減ったんだから緝捕おまわりから感謝されてもいいくらいだろ」
「あんまり阿漕な店ならこっちが押し込むぜ、おっかさん。奴らの日頃の行いによるってわけ。解庫しちやとかは巡回料高いぜぇ?」
 何か愉快なことがあったらしく、小五は思い出し笑いしている。母親がぽかりとその頭を殴った。
「嫌なガキばっかりいるんもんだ。あたしは正直な漁師の妻だよ、よたもンの老娘ははおやじゃあないね」
「うちの親父は立派に博奕打ちだったと思うけどよ。小七にまで湖賊の仁義を教え込んでくれたし」
「お黙り。ましてや人さらいなんて。荷物置き去りにして、可哀相に。見つけたらちゃんとそのクソ猿に頭下げさせるんだよ小五」
「へいへい」
「小七はどこ行ったんだろうね、全く嫁入り前の娘が……」
 彼女はやれやれと肩をすくめ、夕餉の支度をしに厨へと戻っていく。小二と小五は顔を見合わせた。
 劉唐は大名府に潜り込んだきりだ。小二の手下からの報告によれば、強奪騒ぎが表沙汰になる気配は今のところなかった。すると梁中書は本当に楊志に見張りをつけていなかったことになる。腕利きの鏢客ほど任務に介入されることを嫌うものだが、そこまで信用されていたというのか。
「けどよ、いくら何でも若ぇ娘が道術かけられるの承知するか? 身体パンクしねぇのかよ、仕組みさっぱり解らんけど……ところで書簡って何だ、学究」
「証文。それもかなりの数の」
「へ?」
「財宝集めで目減りした身代を借金の取り立てで補うつもりだったようだわ。梁中書は東京でもいろんな名義で手広く融資しているの。中でも高利貸しは界隈の大元締めと言えるわね、店を買い取ったり部下に任せたり、梁世傑なんて名前は出てこないけれど……回収する金額の総計はざっと十万貫、つまり生辰綱とほぼ同額」
「じゃあ何、あのどケチ大臣は貸しつけの証文を舅に贈るようなもんかい?」
「証文の束を顔に叩きつけてやればいいのよ、喜ぶでしょうから」
 こんな科白を口にする時でさえ呉用はゆっくりと静かに言う。その正面で、小二はまるで居眠りしているかのように目をつぶっている。
 小二は独自の情報網を持っている。この村の保正なぬしよりも顔が広いこの男の肩書きは一介の漁師、弟妹も同様だ。だが『阮の小二兄貴』といえば近辺の村はおろか、梁山泊の山賊にさえ名前が知れているという。
 弟ほど喧嘩っ早くはないが、手合わせをすれば必ず勝つ。一見鈍重そうだが懐が深く、生まれつきの親分肌で人々に畏敬されていた。晁蓋が白勝を拾ったのと同様に、小二も何人かの掏摸や芸人の世話をしてやったことがあるから、大名府の城内を見張らせるのは難しいことではない。
 彼は白勝と小七が出立するのと入れ替わりにひょっこりと帰ってきていた。晁蓋と呉用に何か別件の仕事を任されているのだ。何やら面倒な臭いがするので小五も小七も尋ねていない。尋ねても多分、この無口な兄からすっかり聞き出すことは難しいだろう。
「あいつ知らねぇぜ。自分が何をどうやって運んでいるのか」
 宙を睨んだまま晁蓋が言った。小五が頬杖を外して眉を寄せる。
「……へ?」
「表向きの依頼は書簡の配達」
「いや、だからよ、書簡なんてあったっけ。俺が見たのはダンビラと」
「衫に縫い込んであったろうが」
「……生憎俺は側に寄るなと、皆が寄ってたかって助平扱いしたもんでね」
「事実だろ」
 身体検査を行ったのは白勝だ。掏摸すりや情報屋、盗賊と様々な裏稼業を営む白勝は便利な男だった。実は武術の腕も悪くはない。ただ、まるで覇気がないだけだ。
「書簡がなくなっていることには目を覚ました直後にでも気付いた筈よ。選択肢は三つ。一つ、大名府に戻り依頼主の梁中書に報告する」
「それやったら最低だな」
 小五が笑った。およそ手練れの鏢客が大失敗をぬけぬけと報告出来る筈がない。
「二つ、賊つまり私達の先回りをして開封に向かう。重要な書簡であることはたっぷりほのめかしてあるから、私達が当然悪用するだろうと踏むでしょう。でも楊志には経過日数が判らない。私達の一人がとっくに開封に到着しているかもしれないなら、今から追っても間に合わないと判断するでしょうね」
「更に言うなりゃ、あいつ関西かんせいの出だってあんた言ってたな、結構いいとこの。このへんに詳しくないんだろ? 分が悪すぎるぜ」
 関西とは遙か西北、異民族に接している地域だ。ほんものの軍人は関西に育つ、と言われる、荒々しく無骨な風土である。
 呉用は首を振った。
「そうとは限らないわ。武官に登用されてから南方に派遣されたことがあるというし。大名府に到るまでにはこの辺を一度通っている筈だもの」
「ほんっと歳の割には色々やってんだな」
 小五はじろりと晁蓋を見やった。当てこすったつもりが、晁蓋は視線に気付かなかったらしく宙を睨んでいる。反応がないとつまらないもので、小五はちょっとむくれた。
「そうでなくても楊志は開封までの経路を研究して黄泥岡回りを選んだ筈……あんな険しい西回りの裏道を使ったのよ、確かにこちら側より安全だもの。鏢客が地理に疎いとは考えられないわね」
「じゃあこれもパスとして。三つ目って何だ? 学究」
「……また俺の役だな」
 晁蓋は独り言のように呟いた。呉用がきっと彼を見据えた。
「駄目よ、危険すぎるわ!」
「他に適任がいるかよ。コーソンにバカ道士以上の芝居は打てねぇ。第一あいつ一発殴られりゃ死ぬな」
「だから私が」
「楊志にゴーモンされたいか? あいつ怒り心頭だからなあ、まず顔は膾切りナマスか? 次いで手足焼いて生皮剥がされるとか」
「だからどうしてそんなこと言うの!」
 あまり心楽しくない会話だが、一人仲間はずれにされるのは更につまらない。小五は晁蓋の頭を指先で弾いた。
「何の話だっ! 俺ぁ怒るぜ」
 晁蓋は彼の顔をじろじろと眺め、ふと吐息した。
「お前じゃ使えねー……」
「何ィ?」
「決まり」
 だから何なんだ、と小五はもう一度喚いた。
 
 

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