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蓋星水滸伝2 孤吼5
第二章
──
それを聞いた瞬間、玉蘭は目を瞠り、傍にいた夫人にすがりついた。刺繍道具を箱から取り出そうとしていた夫人の
「老公が? まさか!」
いち早く知らせを聞いた小娘は頬を赤くし、自分の胸を抱いて声を張り上げる。
「恐ろしい顔をしたならず者だったそうです。きっと快活林にたむろしている輩ですわ、博奕ばかり打っている……」
「それで、老公は?」
夫人の声が、自分の背をゆっくりと撫でるその手から伝わるのを玉蘭は聞いた。
「はい、腕にお怪我をなさったと……おいたわしいことですわ。今途中で休まれています。きっともうじきお帰りになりますわ。それにしても何てことでしょう。兵馬都監様が、御自分の御任地で──」
「判りました。お前はお下がり」
小娘の甲高い声を遮って、夫人は頷いた。
「軍人の屋敷に仕える者が、さほどのことでわめき立てるものではありません。お前はもちろん、忠義者だからこそ駆けつけて伝えてくれたのだろうけれどね──その気持は判りましたよ。さあ、戻って厨の手伝いを続けなさい」
不満そうに小娘が出て行くのを見送り、夫人は玉蘭の髪をそっと撫でた。
「可哀想に。そんなに怯えることはないのですよ。玉蘭、お前も房に戻って少しお休み」
「……はい、奥様。けれど奥様のお傍についていとうございます」
夫人は目を細めた。若い頃は豊麗だったと思われる、まだ幾分かその美しさを残した女だった。
彼女を見上げるのは淡紅色の襦裙がよく似合う愛らしい少女。蕭玉蘭という名の彼女は、しばらく屋敷に逗留していた旅の一座の一員であった。歌と踊りを得意としていたが、病を得て一座を離れ、この屋敷に留まることとなった。彼女の歌と美しい容貌を夫人がいたく気に入っていた為である。まもなく病は癒えたが、玉蘭を手放したがらない夫人の勧めによって、その話し相手となっていた。気分にむらがある夫人をあやすのが上手で、その割につけ上がらないおとなしい性格であるから、召使いらにも重宝されている。
夫人には娘がいない。玉蘭は派手好みの彼女のおめがねに適う美貌であるし、自分の立場を弁えている。跪いてそっと夫人を見上げるその視線は、夫人の庇護欲を満足させた。
「優しい娘だこと。いいのよ、後で薬湯を持たせますからね。──ばあや、厨に行って、あの馬鹿な娘がまだ騒いでいたら叱っておやり。老公も全く恥さらしばかり……」
彼女は溜息をついた。
玉蘭はそっと夫人の房を出た。
裏庭の向こう、厩舎の方からけたたましく騒ぐ声が聞こえる。厨房では夫人が言った通り、あの噂好きな小娘が身振り手振りを交えて、見てきたかのように報告していることだろう。夫人がいかにそっけない態度を取ったのかも付け加えて。
──失敗したか。
玉蘭は眉を顰めた。
自分の計画したものではないが、手抜かりがあったのは事実だ。
まだ機は熟していなかった。兵馬都監の屋敷のすぐ近くだけあって、この辺りは治安が良い。気を緩めた張蒙方が一人で出かけるのはそう先ではなかった筈だ……そう、護衛はいたのだ。一人だけ。
女の元に通う男が物々しい警護に囲まれるのを好む筈がない。だから張蒙方はごく目立たないなりをした男に、自分の後から来るように命じていた。女の家は裏通りにあるが、この屋敷からそこに辿りつくまでの間、ほとんどの道のりは見通しの良い表通りばかりだった。
つまり、襲撃点はごく限られていた。
そんな僅かな機会を狙う者は、この街にはそういない。快活林に行けば懐の暖かい田舎者はいくらでもいる。金銭が目当てなら、そちらを狙う。誰が好きこのんで兵馬都監を敵に回したいものか。
だが、護衛がいないと信じていたのだとすれば──機会に飛びつく者もいよう。ことに、張蒙方を殺そうと思いつめ、焦りを覚え始めていた者であれば。
──伝言が届かなかったのか。
この屋敷から外に出る機会は、実はなかなかない。夫人や娘姨の使いで買い物に出かけるくらいだ。芸人一座にいたくせに男に色目を使わない慎ましい娘だと思われているからこそ、夫人に可愛がられているのだ。下働きの豎子一人味方につけられない。
玉蘭のような立場であれば当然だが、やっかみも多い。しばしば街に出かけていたら、男を作ったのだの何だのと噂を立てられるに決まっている。
隙を見て、やっと野菜売りの老婆に尋ねることが出来た。奥様から頂いた胴衣をうっかり破いてしまったので直せないものかと──屋敷の者に知られれば奥様に聞こえてしまう。きっとご機嫌が悪くなるだろう、と。
彼女から陳婆に渡った胴衣の刺繍の下には紙切れを縫い込んでおいた。仮に誰かに発見されても、刺繍の下地だろうと気にも留められまい。文字ではなく、三人だけで決めた暗号だ。紙に空けた穴の数を数えていくと幾つかの文字の音になる。
『護衛がいる。まだだ』
解読するのが遅れたか、つい先走ってしまったか。
計画を立て直さなければならない。
──お嬢をちょっとでも窮地に陥れてみろ、陳達。羽根を毟られた鶏よりも哀れな目に逢わせてやる。
玉蘭の朱唇が、にっと笑ったのを見た者はいない。
少女芸人などではない。それはまさしく不敵な少年の笑みであった。
× × ×
肩が重く軋むたびにあの野獣めいた男を思い出す。
最悪の気分で蒋忠は張蒙方の怒りの前に頭を下げていた。
小心者によくある性質で、襲撃に縮み上がっていた兵馬都監は、安全な自分の屋敷に辿りついた途端に喚き散らし、怒りを爆発させていた。緝捕使臣らを呼びつけて犯人探しを命じ、治安の酷さについてくどくどと説教し、気の利かない召使いらを叱りつけ、そして今や当たり散らす相手に蒋忠の番が回ってきたというわけだ。
夫人はちらとも姿を現さなかった──夫の小心ぶりを彼女が軽蔑しているのは夫自身が一番よく知っていたから、それはそれで幸いであったが、彼は溜息をついて夫人の冷淡さを詰った。愚痴めいたその呟きに、蒋忠はこの拷問めいた時間が終わるのを感じた。
「それはそうと、その方、随分と酷い有様だな。臂力が自慢の《蒋門神》が」
兵馬都監は初めて彼の怪我に気づいたらしい。蒋忠は腹の中で舌打ちした。
「大したことはありませんや。それより張
張蒙方の身内には張団練という男がいる。血の繋がりなどほとんど判らぬほど遠い親類だが、実際に兵を動かせる立場にあり、張蒙方にとっては頼もしい味方だ。その張団練の手下が蒋忠である。
蒋忠は快活林で幾つかの店を出しており、安酒と粗末な肴を出しては通常の倍ほどの銭を巻き上げる。快活林に一軒しかない妓館もこの男が始めたもので、──大方はどこからか攫われてきた娘だ。中には強盗のついでに拉致られた豪農の娘もいる──妓女らの悲惨な暮らしぶりとは裏腹に、商人らを相手に派手に儲けていた。
彼は稼ぎの何割かを張団練に納めることで庇護を約束されていたが、張団練の更に上位にある張蒙方と直接の繋がりが出来るに越したことはない。兵馬都監の腹心ともなれば、快活林はおろか、孟州で幅を利かせることも夢ではないではないか。
兵馬都監の方も、この汚い仕事に慣れた男を手駒として飼うことに乗り気のようだ。権力はあるが今一つ知恵が足りない張団練よりも便利であることに気づいたのだろう。
──こいつの力を借りれば、あんな小娘……。
彼女が大した経営手腕を持つわけではないが、蒋忠の酒店がさびれ、施恩の酒店が繁盛しているのは確かだ。別にとびきり料理がうまいわけでも、酒が良いわけでもない。ごく普通の酒店だ。
自分の店がどれほど劣悪かは蒋忠とて承知している。そこに客を呼び戻すには、施恩の勢力を潰さなければならない。
施典獄の力はこの街では大きい。その娘である施恩には、張団練とて正面きってめったな真似は出来ない。だから蒋忠が嫌がらせをする程度しか出来なかった。だが、張蒙方が後ろ盾となるなら……。
──施恩。あんな、思い上がった小娘など。
肩が軋んだ。
蒋忠は唇を曲げる。散乱した皿と卓を、あの巨漢の底知れぬ双眸を思い出す。
白痴のようにも見えた。ごく知能の低い、臂力だけの男だろう。施恩は自分を殺す為にあの男を雇い入れたのかもしれない。否、おそらくそうだ。
──あの売女。
痣になった頬骨の辺りがかっと灼けた。
「背の高い、がっしりとした大男であった……それ以外は分からん。何しろ、咄嗟のことであったからな」
きまり悪そうな、それを虚勢で隠そうと努めた声が耳に入ってきた。
蒋忠は頭を上げた。内心の声が通じたかのように思えた。
「──心当たりがありやすぜ。兵馬都監様を敵に回すような馬鹿な奴が、快活林におります」
売女め。
見ていろ。