HOME 小説INDEX 水たまりINDEX
1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.
蓋星水滸伝2 孤吼3
孟州の東門から延びる幅広の街道は
田舎者らしく日焼けした、しかし小狡そうな顔つきの男がぶつぶつと呟きながら遅い昼飯を取る向こうの席では、見るからに逞しく鋭い目をした男達が酒を呷り、牙のような犬歯で煮込み肉の塊を引き裂いている。河を利用して材木を商う者達だ──彼らは独特の
酒家の前で立ち話をしているのは遙か西の解州から訪れた塩商人だ。一見ごく静かな、何の特徴もない男達であるが、半眼に開いたその双眸は常に油断なく周囲を眺めている。
官制品である塩を売るには
「酒を貰おうか。つまみは何がある」
取引か、或いは官の情報を交換しあったのか。座りながら一人がそう告げると、店の男がへいと唸るように頷いた。
「家鴨がちょうど煮えたところで。牛肉も上等のやつがあります」
「家鴨を貰おう。あと何かさっぱりしたものを」
騒ぎも起こさない上等な客と見て、店の男は口元をほころばせた。店の奥に引っ込んで注文を他の者に言いつけるその背に、裏口から頭を覗かせた豎子が大声で呼びかけた。
「旦那、酒運んで参りやしたぁ」
「おう──おい、新入り。酒瓶下ろして、店の裏にきれいに並べときな」
隅で身体を小さくしていた男がのっそりと立ち上がり、出て行く。後に残った男達はにやにやと笑った。
酒瓶といっても商売用の巨大なものだ。逞しい男なら1つ2つは一人で片づけられる。だが、このいつも繁盛している酒店には週に二度、十数もの瓶が届くのだ。腰を抜かすか、泣きついてくるか。どの男もこの悪戯の洗礼を受けている。
「幾つ片づけられるかね」
そばかすを散らした小柄な男が、客が残した肉をつまみ、ぺろりと指先を舐めながら言った。少年じみた顔立ちだがこれでも一番の古株だ。幾つも店を持っている主人の代わりに、事実上この店を取り仕切っている。
「ずば抜けてでかい奴だからな、3つ4つはいくんじゃねぇか?」と、これは煮上がった家鴨を手早く切って盛りつけている男。
「じゃあ俺は6つに賭けよう」
「まさかぁ。おおまけにまけたって、せいぜい3つでしょうよ」
「てめぇは最初のやつを持ち上げられもせずに落としてぶち割ったっけなあ」
くくと喉奥で笑いながら、注文の皿を取り上げて一人が出て行く。恥をさらされた男は憮然としつつも笑みを浮かべ、替えの酒を手にしてその後を追った。
「しかし、お嬢さんは何だってあんな奴を……」
飯の皿を幾つか作り、やっと手を休めた料理人が呟く。
「
「確かに見ためはえらい男っぷりだが、ちょっとコレなのさ」
そばかすの男が自分の頭を軽く叩く。料理人は唇を曲げた。
「まあ、そんな感じもしてたけど……喋らないもんな」
「門神代わりに置いとけば、こないだみたいな奴らも入りにくいだろうってね。小叔宝とでも呼ぶか?(※)」
料理人は頭を振り、火加減を見るために背を向けた。
門神どころか、と彼は思う。疫病神にならなければいいが。確かに一言も口をきかないが、おとなしい男だとは思えない。
店先の方でどっと笑い声が上がった。まとまった小銭を手にして浮かれた豚売りだ。酒が醒めれば青くなるに違いない。掏摸にやられないうちに、そろそろ一度勘定を払わせた方がいいだろう。
戸口がふと翳った。裏口は狭く小さいので、背の高い者は屈まなければ額を打ちつけることになる。新入りのこの男もいつも窮屈そうにしている。
「おう……終わったのか」
料理人の声に彼はこくりと頷いた。そばかすの男が目をむいた。新入りを突き飛ばすようにして外に出、呆れたような掠れ声を上げている。
料理人はちらりと新入りを見た。再び所在なく樽の上に座り込んでいる。
店に出ればつっ立っているだけで喧嘩を売られるだろう体格と雰囲気であり、かといってその太い指は切った野菜を奇麗に皿に並べることも出来そうにもない。力仕事以外には何も役に立たない、使えない男だ。
──こいつに包丁なんぞ握らせてたまるかい。
料理人は内心でそっと呟いた。
主人の父親は牢城の
主人がどのような算段でこの男を雇い入れたのかは知らない。が。
料理人は顔を顰めた。いい予感はしなかった。
──あたしを助けて頂戴。
色素の薄い、猫のような双眸だった。透きとおったその瞳には何の曇りもない。隠すことなど何もないと……黒々と目蓋を縁取る睫毛。色の白い顔立ちはまだどこか幼い。目尻に差した朱は艶やかだが、子供の晴れの化粧のように愛らしい。
武松の手を取った両手は、ばかばかしいほど小さかった。
──このお店が大切なの。あたしに出来ることはこれしかないんだから……あたしは、このお店を守る為ならどんなことでもするわ。
猫のように僅かに細まる双眸。
──悔しい。あんたみたいに立派な身体を持った男なら、あたしは父の誇りになったのに。でもほんとうのあたしはこんな、ちっぽけな娘なんだから……でも商売ならじょうずにやれるの。だから。
助けて。
あの女も、そう言わなかっただろうか?
慄然とするほどのあの媚態。赤い舌がのぞく。
──助けてくれるわね?
× × ×
店先がふと、騒がしくなった。
先程の調子に乗った笑い声ではない。卓上の皿や杯を払い落とす音、砕け散る器。椅子が倒れる音。
「しけた店だな、どいつもこいつも辛気くせぇ面しやがって」
忌々しげな怒鳴り声が聞こえる。
「一番上等の酒を持ってこい。ここには気の利いた女一人いねぇのか? 貧乏臭ぇ店だ」
椅子を蹴り飛ばす音。
そばかすの男はちっと舌打ちし、戸口で目を丸くしていた使い走りの豎子に一言二言言いつけた。豎子がぱっと身を翻して出て行く。
そばかすの男は新入りをちらと横目で見た。判っているのか、いつものぼんやりとした表情のまま、しかし樽から立ち上がって壁にもたれている。
「来な」
そばかすの男が顎でしゃくると、彼はうっそりと身を起こした。見上げるほどの巨躯が戸口からの陽射しを覆う。無表情だが、対峙する者をどことなく不安にさせる目つきだ。
「俺が命じるまでは何もすんな。訳ありの奴だ」
また器物を壊す音が聞こえた。そばかすの男は舌打ちした。
※唐初の武将である秦叔宝・尉遅敬徳が門神として広まったのは明の『西遊記』から。なので実際はこの時代にあだ名として使われる筈はない。ちなみに門神としての先輩、神荼・鬱壘(しんと・うつるい)は(後漢時代の?)『山海経』には載っていたらしい。今のテキストにはなし。