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蓋星水滸伝2 孤吼2

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蓋星水滸伝2 孤吼2


 

×    ×    ×

 いつか、なんて時は来ない。
 自分でその時を決めなくては、向こうから来るものなんて何もない。


 新しく送られてきた囚人の中にお誂え向きの男がいる。
 施恩がその噂を耳にしたのは、残暑がぶり返したように暑い日の昼下がりだった。

「普段はおとなしいやつなんですがね」
 男は箒で掃く手を休めて施恩の顔を見た。
 牢役人上がりで、膝を痛めてからは施恩が経営しているこの店で下働きをしている趙という男である。元はかなりの大男であったが、脚が思うように動かなくなってからげっそりと痩せ、見る間に老人と化した。何か病んでいるらしく顔色も良くない。
「罪状は」
「殺しでさ」
 施恩は首を傾げた。その囚人は東平府から送られてきたと聞いている。殺人は死刑に相当するが、何らかの理由で刑を軽減されたのだろう。
「元は陽穀県の都頭様だったのが、あによめを殺して金印を彫られたんですよ。死んだ兄の位牌を祀るのを、兄と折り合いの悪かった嫂がケチつけてケンカになって、争ってるうちにうっかりと──書類の上ではそうなってますが、お嬢さん、知らねぇんですか? 武都頭の仇討ちの話を」
 趙は舌なめずりした。いかにも誰かに話したくてたまらない、その蜥蜴のそれに似た目がそう物語っている。施恩は正直言えばこの男を見るのも嫌いだったが──相手の方も施恩に好かれていないことを知っているが──、牢城やよそ者の噂話を仕入れるにはお誂え向きなのだ。
「知らないわ」
 施恩の呟きに趙は口を歪めて笑った。
「武都頭の兄ってのは、その嫂に殺されたんですよ」



 ──誰か。
 助けて、という声は喉の奥から込み上げてきた血の中に消えた。迸る血。白い喉を胸を顎を見る間に染めていく。ぶ厚い脂と肉の中に指をつっこみ、めりめりと音を立てて左右に割くと何本もの肋が赤い櫛のように現れた。折れた骨の先端が指に刺さる。ひくひくと蠢く肉と内臓。口を開いたまま凍りついた表情、胸を裂かれた時女はまだ生きていた。
 ──ねえ、二哥じろうさん。あたしはね、
 どくどくと動いている肉の塊を掴み、喉元をもう片手で、腹を片膝で押さえて引きちぎる。生き物のように跳ねた心臓から噴出した血が顔と腕を濡らした。熱かったそれが冷えていくにつれ、内臓と血のむっとする臭いが強くなっていく。
 ──じゃああたしよりも三つ年上なのね。
 あれほどよく動いた唇。先のつんと尖った、女にしてはやや薄いその唇が動くたびに表情がめまぐるしく変わった。なまじ造作の整った顔立ちや目よりも印象的だった。
 だらしなく長く伸びた舌は血の気が失せ、不気味な色に化している。紅の代わりに鮮血がその顔を半ば染めていた。ごわごわと濡れた髪。
 ──死んだのよ、あの人は。あんたが出かけて十日ばかり経った頃……。
 悲しそうにそう語った女。
 顔を背けて泣き噎ぶ、その首筋から立ち上っていた匂いは白粉と、
 ──もう悲しくって……どうしたらいいのか。
 たった今まで別の男と媾合まぐわっていた、その跡をありありと残しながら、潘金蓮というその女は赤く染まった目で見上げた。

 あんたのせいよ。



 二十五歳と聞いていたが、やや俯き加減に立っているその姿はその年齢よりもずっと年下に見えた。
 急激に痩せたのか、それとも誰かの古着なのか、よれよれの着物は寸法が合っていない。それでも尚、逞しい大男であることは見て取れた。
 のび放題の前髪の間にちらりと見えたのは二行の金印。
「病気だっつんで仕置きは免除されました。大抵はああやって、でかい孩子みたいにつっ立っているだけでさぁ」
 趙から金を握らされた番卒は、施恩に気づいた数人の囚人らを罵声と共に蹴りつけておいてから、話を思い出したように頭を振った。
「殺威棒を免除されるほど厄介だということ?」
「こっち来てからはおとなしいもんです。東平府からの道中も別に何もなかったって聞いてます。ただ、目がいけねぇ」
 牢役人というのは皆似るものなのだろうか。趙と似た嫌な目つきで、その男は施恩を見つめて唇を歪めた。
「お嬢さん。あたしらは嘘つきのチンピラや仕置きでおかしくなっちまった野郎を何人も見てるんで、あれが狂言かそうでないか、一目見りゃわかるんすよ。あれは駄目だ、完全にいかれてる。そんな奴をちょっとつついて逆に暴れられたら大事でさ。だから、あたしらは誰もあれに近づかねぇんです。見なせぇ、新入りがぼけっとつっ立っていたら、普通だったら酷い目に合わせられますぜ。でもあいつにはどの囚人やろうも何もしねぇ。藪ん中で眠っている老虎を誰が起こしたいもんですかね」

 飄然と。
 立っていたその囚人が、こちらを見たような気がした。
 垢じみた、ごく若い顔の中の双眸が施恩を一瞬捉え──過ぎ去った。
 きれいに澄んだ、黒曜石のような目。まるで少年のような瞳だった。すぐ前にいる番卒や趙のそれとはまるで違う。
 なのに、誰もが言う。
 「狂ってるんですよ。完全に」
 番卒が平坦な声で呟いた。
 「あたしは止めましたぜ、お嬢さん」


×    ×    ×

「言っておくけどねお嬢、僕は止めたんだよ、そもそも」
 歯切れの良い口調は訛りがなく流暢で、生まれも育ちも東京みやこだと名乗っても十人が十人信じることだろう。そんな風にまくし立てられると、楊春は彼の言葉を理解するのに少し時間がかかることがある。幼い頃は聴いている途中でわけが判らなくなり、彼は一人で癇癪を起こしたり髪を掻きむしったりしたものだ。
「じゃあ──」
「相手は一応世間的に地位も権力もあって従って敵も多いの。僕らと同じ境遇にいる人々はまあ彼の兵馬都監という肩書きからして半月に一家族単位で増えてるだろうね、そんなパンピーが仮に一致団結してあのデブオヤジにリベンジしたとしてもあの腹の皮一枚傷つけることは出来ないの、何故なら張蒙方はこの孟州の軍の長官であり護衛がダース単位でついているからさ! そんなのを相手にして虚しい復讐心に燃えるよりお嬢あんたの美貌に磨きかけて玉の輿狙うなりどこか田舎で地味に幸せになるなりこの僕の頭脳を活かして陶朱公の如く金満家になるべく努力するなりした方が建設的だと僕は言ったよね、何たって楽しいしさ」
 どこで息継ぎしているのか判りにくい喋り方でそう言って、彼は芝居じみた動作で溜息をついた。
「でもまあお嬢がそうしたいというから僕はこうしてこんな孟州くんだりまで着いてきて奴の身辺調査まできっちりやって一芝居打っているんじゃない。それをやめろと言うわけあんたは?」
「恩着せがましい野郎だな。お嬢さんに何て口ききやがる」
 炊きあがった飯と焼いた肉の皿を手に戻ってきた陳達が鼻を鳴らした。
「事実を陳述しただけじゃない。あのね陳達、あんたも甘過ぎ。あんたらなめてんでしょ現状を。ここであんた達が躊躇して何かとんでもないことをすればヤバいのは僕なんだよ、それは理解してる?」
「解っているつもりよ朱武、ただわたし、貴方が危険なんじゃないかと──」
「そんなの初めから解ってたでしょと言いたいんだけどね僕は」
 朱武はがっくりと頭を落とした。彼の挙動はいつも軽快で、他人が言えば嫌味にも罵倒にもなる科白がそうならない。尤も朱武に言わせればそれが悩みの種なのだが。
「堂々巡りじゃないこれじゃ。いい? お嬢、何日か僕から連絡がなかったくらいで呼び出さないでくれる? こっちもあのうんざりするほど趣味の悪い屋敷内を探るだけで手一杯なんだから」
「大丈夫? 朱武。無理していない? ちゃんと御飯は食べている?」
「大丈夫じゃないし無理もしている。ちゃんと食べてるけどあと一ヶ月あそこにいたら僕肥るかも。一度ワイルドなサバイバルに慣れちゃうと油っぽい宴会料理ってうんざりなんだよね」
「そうかよ。お嬢さん、こいつは飯要らねぇそうだから二人で食いましょう」
「陳達」
「食べる食べる。あんたの粗食美味しいから」
 朱武はもう一度溜息をついてからにやりと笑ってみせた。その笑みに漸く納得したように、楊春も微笑んだ。
「陳達の御飯は美味しいものね。さあ、たくさん召し上がれ。ごめんなさいね、朱武にばかり苦労させて……陳達にもね」
 年上の男は無造作に肩をすくめた。
「今更水くせぇことはなしですぜ、お嬢さん」
「まったくだよ」
 けろりとした顔で朱武は箸を取った。
「これからあのブタオヤジの首をかっ切ろうっていう凶悪な三人組がさ。今更の話だよ」

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