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蓋星水滸伝2 孤吼

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蓋星水滸伝2 孤吼


 

第一章

   暗がりに獣が吼える。
 声を聞けば血を流す。氷原の風のように、身を斬りつけ血が滲む。
 それを聞くのはしかし、獣だけだ。
 己の声に血を流し、尚も吼え続ける。
  ──軋む
 喉は渇き、血の味が伝う。ざくりと、己の声で縦に切り裂いたように。
 音無き闇に。
  ──身を切り苛むだけでは足りない。血を流し尽くすだけでは足りない。
 やがて闇にちろちろと浮かぶ炎。
 灼熱の舌に照らし出されたのは、猛禽のそれのように宙を掴み、そのまま凍りついた手。瓜のような丸い物体。ちぎれ飛んだ、汚物めいた塊。
 ぽっかりと空いた眼窩に溜まる黒い液体。
  ──涙が流れるものなら、その身を溶かし尽くしているかもしれない。もし、獣に涙があれば。その心を空虚が満たしていなければ。
 廊下に倒れているのは身ごしらえもきらびやかな女達。艶やかな化粧は見る影もない。衣装にたきしめられていた芳香も、内臓や血の強烈な臭いに覆われて消えた。贅を尽くした夜の宴の名残はごわごわと重く濡れた髪に挿された銀の簪のみ、それも炎に燻られて見る間に黒く焦げていく。
 ──たましいが軋む。このままでは、爛熟した葡萄がぼたりと地に落ちて腐臭を放つように、暗黒へと沈むだろう。あれほどまでに黒く、血と怒りと悲しみで黒く染め尽くされた、
 炎に照らし出された青白い顔。黒い双眸に炎と死者達の顔が浮かぶ。だらりと垂れた手には襤褸のような何か……足元にのびた、この屋敷の主であった男の腹から掴みだしたそれ。
 獣がのろのろと背後を振り返る。
 部屋中が黒く汚れたというのに、その壁だけは家具か人体が血飛沫を遮ったのか、のっぺりと白い。
 獣の手が上がる。
 掴んだそれを壁に押しつけ、それが義務であるかのように、最初の一画を。
 『殺』、
 憑かれたように、
 半ば開いたままの乾いた唇。
 『殺人者ころしたのは』、


 牀の上に起きあがった身体は冷たい汗に濡れていた。
 汗で貼りついた絹というのは心地よいものではない。ぞくりと震えながら暗がりの中で周囲を見回し、自分の肩に触れ、手を握りしめた。
 絹の寝具の中から抜け出して、大きく息をついた。
 今日も、自分はあの獣ではなかった。
 凄惨なあの光景に立ち尽くしていた、あの星ではなかった。
 それに安堵する自分と、悲鳴を上げる自分がいる。
「あれは……いつだろう」
 茫然と呟く。
 喉の渇きを覚えて、水差しや杯は何処にあったかと周囲を見回そうとした時、隣室に控えていたらしい男が音もなく姿を現した。もう一人の、身の回りの世話をする筈の小者は熟睡しているだろうに。
 彼の顔を見るなり男は眉を上げた。
「ひでぇ顔」
 何と返せば良いか解らず、彼は曖昧に微笑んだ。他の者であれば大騒ぎになる。憔悴した主の為に医者を呼びつけ、薬を飲ませ、祈祷師まで呼ぶかもしれない。それは幼い頃から繰り返されたことで、彼もうんざりしている年中行事だった。
「あんた髪どうにかしたら? 病みやつれた女みたいだ」
 普段、屋敷の者にはおしではないかとさえ思われている劉唐は、屋敷の主人と二人になると途端によく喋る。遠慮のないその口ぶりを彼は気に入っていた。自分に向かってこうぽんぽんと喋る者は滅多にいない。
 だが今は、微かに笑いを作って首を振るのが精一杯だ。まだ動悸が静まらない。
 牀に腰掛け、額に手をあてて俯いた彼を劉唐は暫く無言で見下ろしていた。
 土耳古トルコ石と銀を象眼した牀は先王朝時代から伝わるものだ。豪奢な夜着と靴、傍に置かれた卓の上の小瓶に至るまで、天子の寝室もかくやという──現帝・徽宗もまた、高雅な趣味で知られている──それらの調度に生まれながら囲まれて育ったその主もまた、息をして人語を話すのが不思議なほど高貴な容姿を備えていた。
 先王朝の末裔殿下。
 絶世の佳人と謳われたその母親をそのまま男にしたような、と、都の宴席で老人達が評したという。言い換えれば女のように無力ということだ。生まれつき天子による特別な庇護を受け、何の官職にも就かず、ただ優雅なばかりで何の才能も示さぬと──面と向かって皮肉られようと、困ったように微笑んでいるだけの歯がゆい男だと、そう評されている。
 その通りだから仕方ない、と、彼は後で友人に言った。激昂したのは友人らであり、当の本人はにこにこと笑っていた。
 ──僕はそれでいいんだよ、誰の為にも。
 常はそうして微笑んでいる男が、今はがっくりと項垂れ、深い溜息を洩らしている。
 つっ立っていた大男が飾り棚に手を伸ばす。ややあって明かりが灯った。
 よほど強烈な夢であったのだろう、握りしめた両手の親指の爪が青ずんでいるのを劉唐は見て取った。彼は夢に同調するのだと、ここに劉唐を預けた男は嘗て言った。ほんの幼い頃から彼は星の夢を見ていたのだと……。
 ──面白おかしい夢ばっかりなら、いいのによ。
 《凶星》が平穏に生きる筈もない。


「言いな、ダンナ」
 やがて、赤毛の大男は言った。
「あんたはまだ、何もかも一人で胸ン中にしまい込んでへらへら笑ってられるほど強かねぇんだ。意味ねぇしな。だから親分は俺様をここに寄越したんだろう? だったら、俺様に仕事をさせな」
 項垂れていた男が、ゆっくりと頭を上げた。ぼんやりとした顔に微笑みが生まれる。髪はくしゃくしゃ、黒目がちな双眸は赤いけれども。
「それがねえ、いつか、どこかも判らないんだ」
「ンなのいつものこったろ」
 劉唐の口調が可笑しかったのか、彼──柴進は困ったように笑う。
「暗くてね。ああでも割と大きな屋敷だった。廊下の欄干の細工、あれは都風だねぇ。僕の好みからすると少しけばけばしかったけど。窓の形はちょっと野暮ったかった。あれは西の方の特色かな? ほら、こんな風に弧を描いた……」
 彼は白い指先でそれを描いてみせた。
「ちゃんと見てんじゃねぇの。感心感心」
「月が出ていたんだと思うよ。さぞ綺麗だったろうに──室内は暗くてよく見えなかったよ」
「俺らの兄弟はどんなだい」
 饒舌だった柴進の声が一瞬途切れた。その漆黒の双眸がふっと虚ろになり、再び微笑を湛える。
「李逵より怖いかもしれないねぇ」
 その名前はだいぶ前に聞いたことがある。劉唐は顔をしかめた。
「最悪って言葉は何回使えるんだい、ダンナ」
「あ……一つ思い出した」
 柴進は房内を照らし出す炎を見つめた。可愛らしい小さな明かり。けれど、あの獣の瞳に映っていたのも同じ色の炎だ。
 怖いなと柴進は胸中で呟いた。恐怖が消えてしまった、それが繰り返されるのが怖い。もしかしたら、自分はいつか何も感じなくなるのだろうか。
 ──辛ェな? 柴進。
 あの深い深い双眸が自分を覗き込んでくれなければ。
 自分に最も近しい痛みを持つ者がいるのだと、知らなければ。
「侍女の一人の簪。花海棠にね、小さな小鳥をあしらった……あれ、つい最近都で流行りだしたものだ。夏に開封に出かけただろう? あの時なかなかいい声で歌う歌い手を見てね、彼女が特別に作らせたものだとか。その詩がまた洒落ていてね──」
 のんびりと話す柴進の無駄口を、劉唐は特に渋い顔もせずに聞いている。
 隣室の小者が漸く起きだしたらしく、ばつの悪い顔で熱い茶を捧げてきた。真夜中に突然起きだして話し込むような気まぐれな主人は寛容だが、先代から仕えている厳格な都管しつじはそうはいかいない。主人が起きだしたことにも気づかず寝こけていたと知れれば厳しく咎められるだろう。
「申し訳ありません、老公だんなさま……あの」
「ごめんね、こんな夜中に。ああ、いい香りだね」
 都管には内緒、と主人は悪戯っぽく指を唇にあててみせる。小者は安堵の吐息を洩らし、それから赤くなった。
「他に何かあるかなあ、もう少し思い出せればいいんだけど」
 お喋りに戻った主人の下座には赤毛の大男が神妙な顔で座っている。老公も本当に変わっていらっしゃる、と小者は考えながら引き下がった。主人は客をもてなすのが好きだが、如何物食いとでもいうのか、恐ろしげな人相の大男やら小汚い身なりの流れ者やら──およそ世界が違う者ばかりを贔屓するのだ。こればかりは誉められた趣味ではない。どうせなら地元の名士や都からの高貴なお客だけにすれば良いのに。
 この劉唐という男も見かけはやくざ者だが、幾分礼儀は知っているようだし、こうして主人の気まぐれにつき合う感心な男だ。主人の使いでよくどこかに出かけていくが、頼めば小間物なども買ってきてくれるので結構ありがたがられている。素性の知れぬ馬の骨には違いないが。
 ──老公、早くお休みになってくれないだろうか。
 小者のささやかな願いは叶えられなかった。夢を見た夜、柴進は二度と眠らないから。

「だから、あれはごく近い未来だと思う」
 諦めを憶えた声が、ぽつりと告げる。

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