[PR]テレビ番組表
今夜の番組チェック

蓋星水滸伝 12

HOME 小説INDEX 水たまりINDEX
1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12.(end)

蓋星水滸伝


 
第十章
 
 
 断金亭は昨日以上に賑わっていた。
 山塞では数日はおろか一週間もぶっ通しで宴が催されることなど珍しくない。片づいた仕事が大きければ大きいほど宴も豪勢になる。十万貫の大仕事を果たしてきた晁蓋らを祝うのには吝嗇ではならなかった。……たとえその後に口実を設けて彼らを追い出すのであっても、だ。
 王倫は満面の笑みを浮かべて劉唐と酒を酌み交わしていた。力自慢なだけのがさつな大男というのは知識人に弱いものだ。王倫がちらりと口ずさんだ詩に感心し、図体の大きな童子のように口を開けて笑っている。この大男は昨日の武勇伝ですっかり人気者になった。最近鼻につくようになりだした花青虎かせいこと入れ替えるのもいい。
 花青虎か。王倫は腹の中で苦々しさを噛みつぶした。大名府に行かせ晁蓋らの仕事を妨害させた男なのだが、昨日の宴の後に呼びつけても病気と称してやって来なかった。少しでも知恵があれば当然だ。そんな生意気な奴らから生辰綱を巻き上げるなど造作もないと、あれほど大口を叩いていたのに。くれてやった金は何に遣ったのだ。
「如何なさいました? 塞主様」
 甘い声と共にふくよかな香りが漂ってきた。盃の中から視線を上げると、婉然と微笑む美女が立っていた。画の中から抜け出てきた仙女のようだ。
「おう、呉用殿ではないか」
 王倫は鷹揚に微笑んでみせた。この美女が何故この一行に加わっていたのか当初は腑に落ちなかった。劉唐や阮小五の愛人ではなさそうだ。驢馬にとびきり上等の羊肉を与えても無駄というものではないか。だが、劉唐の様子からして察しがついた。この美女は十万貫の宝物と同様、自分への貢ぎ物というわけである。
「今日も麗しいことよ。まるで牡丹の化身のようではないか」
 ならば昨夜のうちに儂の元に寄越せば良いものを、と王倫は内心舌打ちした。成程愚かではあるが、劉唐らもこちらの様子を窺っているのだろう。
「塞主様から賜りました翡翠ですわ……私などには勿体のうございます」
 豊かな黒髪に挿されている簪は確かに昨日王倫が贈ったものだった。濃桃と紺の襦裙によく映える。彼は満足して頷いた。
「何の。そちのような佳人にこそ相応しい」
「姐さん、どうぞ」
「ありがとう劉唐……さあ、一献」
 呉用が少し身を屈めるとまた甘く香しい匂いが漂った。王倫は謹厳な表情を崩さぬよう努めながらも脳髄がくらりと痺れた。
 呉用の向こう側で赤毛の大男がにやにやと笑っている。
 
 
 彼らとは最も遠い末席の方ではまた別の愉快な事態が生じており、衆目を集めていた。……当事者の片方にとって愉快かどうかは定かではないが。
「オレ本物の豹と会ったことあるけど、確かに似てるね。頭とか肩とか。髪こんなに短くしているから余計に」
 感心して林冲の後頭部に触れているのは無論、公孫勝である。
「あはは、触り心地いい。林冲もしかして木の上で午睡ひるねしたりする?」
「……いや」
「あれ結構気持ちいいよ。飛ばされないように帯の端を枝に結んでおくの。一度飛び降りようとしてそのままぶらんとぶら下がっちゃってねえ……豹って木の上で寝るんだ、時々得物を引っ張り上げて食事もしてた」
 周囲の男達は半ば青ざめ、こっそりと彼らの様子を窺っている。第四の頭領がいつ激昂するか、それとも席を蹴って立つかと息を詰めて見守っているが、林冲は少年道士に差される酒を淡々と口に運んでいた。実を言えば林冲を宴席に引き留めたのもこの少年だ。さもなければいつものようにひっそりと姿を消していただろう。上席ではなくこんな隅にいるのが林冲らしいと言えるが。
 ふと彼の方から口を開いたので一同は飛び上がりかけた。
「おぬしは如何にして晁蓋殿と知り合った」
「沓落としちゃって、それが晁蓋さんの頭に当たった」
「そうか」
「オレ会った瞬間にもう怒られてたんだっけ、そういえば」
 不意に公孫勝はしょんぼりと肩を落とした。
「こないだ時々殺したくなるって言われた。オレもしかしたらあの人に嫌われているのかな?」
「そうは見えんが」
 本気なのか否か、公孫勝は唸って考え込んでいる。その子供っぽい仕草と賞金首の妖人としての有名ぶりとの落差に、周囲の男達は笑いを抑えながらも狐精に化かされたような顔をしている。
 
 
 宋万は手下らから次々と注がれる酒を空けながら杜遷の様子に注意していた。中央の王倫と晁蓋を挟んだ反対側である。昨日ちらりと物騒な気配を見せた優男、阮小五が杜遷の傍らで何かまくし立てていた。
 芝居の下手な奴だ。宋万は肚の中で苦笑した。阮小五は見た目には線が細いが触れば切れる。この場にいる面々で彼の危険さに気づかなかったのは王倫くらいだろう。何しろ阮小二の弟だ、まるきり似ていないが。
「なあ、《短命二郎》」
 盃でちびちび飲むのが面倒になり、大盃を持ってくるよう命じて、宋万は横の巨漢をつついた。
「あんたの弟と妹、どっちが強い?」
 晁蓋の脇に座っている娘と小五を指さす。側にいた手下が一斉に笑った。冗談だと思ったらしい。
 劉唐が昨日語った武勇伝は意図的にかなり手が加わっていたから、小七や呉用、勿論晁蓋の名前はまるで出てこなかった。男達の目に小七が携えた朴刀が飾り物にしか見えなかったのは無理もない。
 阮小七は一見なかなか可愛らしかった。身につけているのは湖色の男物だが、胸も腰も若い娘らしくはち切れんばかりだ。帯だけ女結びであるのがかえって色っぽい。仙女のような呉用は間違いなく王倫のものとなるだろうが、あの娘も悪くない、と男達は密かに囁き合っている。実を言えば気の強そうな顔は宋万も好みだったが、獰猛な山猫に迂闊に手を出せば肉まで削がれる。
「あーん? 何か言ったか?」
 耳ざとく小五がこちらの声を聞きつけて大声で呼んだ。
「おう、お前と妹どっちが強いんだ? 《立地太歳》」
 小五は思わず目を丸くして小七と目を合わせた。妹がにっこりと笑う。
「何ならひとつ勝負しよっか? 二哥」
「俺は余興で手足もがれたかねぇぞ、おい」
 男達はどっと笑った。
 何割くらい本音なんだろうな、と宋万は笑いながらも考えた。あの娘は昨日も晁蓋の側を離れなかった。女だから警戒されにくい為もあろうが、あの孩子の警護を任せられているのだ、少なくとも兄と同等に近い腕の筈だ。
「私もひとつ、余興をご覧に入れたく存じますわ、塞主様」
 その声は大きくなかったが、酔った男達のどら声の中を銀の針のようにするりと通った。
 淑やかに王倫の前に立っている女に誰もが目を奪われた。
「ほう、呉用殿。舞いか、それとも歌かな」
 ほろ酔いの王倫が相好を崩しかけている。宋万は大盃になみなみと注がれた酒を受け取り、浮かべた冷笑を隠すように口に当てた。
 
 
 呉用は艶やかに微笑んだ。
 王倫にまるで武術の心得がないことは知れている。腰掛けているのはがっちりとした手すりと背もたれが身体を囲んでいる靠背椅。逃しようがない。
 女でも軽い剣なら扱える。故郷を発ってからの三年間、あちこちと旅をした間に白勝から手ほどきを受けた。師としては優しすぎる性格が欠点だが、教え方は要領が良かった。
 弟子も熱心だった。白勝一人で女と孩子を守るのは限界がある。まして当時の晁蓋は瀕死の重傷が癒えてから間がなく、歩くのが精一杯だった。それでも白勝に朴刀や小柄の使い方を教わる彼を見て、自分の不甲斐なさに涙をこぼすのはやめた。
 筋力はないが頭を使えばいい。足が遅いのであれば相手が逃れられぬようにすればいい。閨で殺すのは簡単そうだが、こちらも視界が利かないし、女を使った姑息な殺し方……と後に晁蓋が非難を受けるのは明白だ。満場の席で刺し、王倫の非を唱えなくては。
 外しにくく致命的な急所は。
 ──首は案外大変なんです、と白勝は言った。
 ……ひどい血が吹き出ますから、一撃で仕留め損ねるとこっちの目が見えなくなってまずいことがあります。ここの骨で刃が折れるかもしれないし。ちょっと刺せばすぐ通る心臓が楽です。革甲よろい着た相手には難しいですが、逆にぴったり接していれば躱しにくいです。もし外しても、ここからこう突き上げると即死はしませんが絶対に死にます。
 そんな風に淡々と彼は教えてくれた。
 最初に教えを請うたのは自決の仕方だ。そして最後の締めくくりは。
 ──用さんは手が小さいから短剣でも扱いにくいでしょう。これはどうですか? いつでも身につけていられますから。
 彼が指し示したのは簪だった。
 細いが折れもせずに深く貫ける。
 
 
 
 呉用の視界の端で黒い影が立ち上がる。
 彼女ははっとした。女達の手をすり抜け、黒袍の裾を翻してにこやかに歩み寄ってきたのは晁蓋だった。
「じゃあ俺も」
 王倫や一同を見やって孩子らしく微笑んでみせる。酔った男達が喝采した。美女は無論のこと、名前だけとはいえ主賓が自ら余興を見せるとは面白いではないか。この孩子がどんな芸を披露するのか?
「晁……」
 ほんの半瞬、晁蓋の強靱な視線を受けて呉用は竦んだ。
 孩子は目を細め、にやりと笑った。
 
 
 常のふてぶてしい表情に戻った瞬間、その小柄な身体が飛鳥のように跳んで王倫の靠背椅の肘掛けに飛び乗った。
 一同は言葉を失った。
 愕然と硬直している王倫の上に仁王立ちになった孩子の黒い姿、その手に忽然と握られているのは見るからに鋭利な短剣だ。晁蓋の小さな身体にはまるで普通の長さの剣のように見える。
 静まりかえった場に哄笑が響いた。孩子のものとは思えぬ低く落ち着いた笑い声だ。彼は短剣を王倫の喉元に突きつけたまま半身を向けて一同を振り返った。
「お前ら、面白いもの見せてやるから覚悟しな」
 表情も口調もまるで違う。
「ふ……ふざけんな、このくそガキ!」
 席を蹴って孩子に駆け寄ろうとした手下がその瞬間に朱に染まり、天を仰いで倒れた。女達が悲鳴を上げる。
 朱に染まった朴刀を握って鼻を鳴らしたのは小七だ。
「うちの頭領がせっかく余興見せてやるってんだからおとなしくしてなよね。二度とないよ、こんなサービス」
 晁蓋の横に立ち、男達を睨み据えたまま長い髪をさらりと払って、彼女はにんまりと笑った。
「あたしはいいよ別に?」
 再び飛び出す者がいれば斬るとその笑みが明言している。
 宋万の横で手下が凍りついている。宋万は軽く目を細めたが、大盃は置かなかった。
 晁蓋が愉快そうに喉を鳴らした。視線を王倫に戻して覗き込む。塞主は助けを求めて目を動かしたが、劉唐はけろりとした顔でこちらを見ていた。
「だ、誰か」
 応える者はいなかった。
 黒袍の袖の蔭から向こう側の杜遷がちらりと見えた。常と同じように厳しい顔をした副塞主は、鉄のような眼差しでこちらを睨んでいる。
 王倫の喉から息が洩れた。
 
 
「まずは少し長い口上だ」
 愉快げに孩子が言った。
「俺がこの爺ィに書簡を遣ったのは二ヶ月前だ。梁世傑が蔡京に贈る生辰綱を手土産にしてやるってな。それが出来たら俺達をこの梁山泊に迎えてやる、十万貫が身元引き受けの条件だ。なあ? 《白衣秀士》」
「……両月ふたつき前?」
 宋万が思わず呟いた。そんな話は聞いていない。
「あたしが証人ですよ」
 静かな声に一同はそちらを振り返った。万事控えめな第五の頭領朱貴が立ち上がっていた。
「書簡をお届けするのはあたしの役目ですから。塞主は事前から晁蓋殿のお働きを知っておいででした」
「嘘だ、作り事だ」
「吝嗇のくせに欲深なこの鯰野郎は考えた」
 抗弁を無視して孩子は続けた。
「俺達がもし本当に十万貫の財宝を手に入れたなら、そいつを奪ってやろうと。俺達は漁師の小せがれにどっかの馬の骨の博奕打ちにけちな泥棒、おまけに女とガキ連れだ。これだけじゃハナから成功はしないと誰もが思う。──だが最後の一人、公孫勝って名前はこの爺ィも聴いたことがあった」
 末席の辺りで異彩を放っていた少年道士がきょとんとこちらを見ている。
「天下に名だたるホンモノの道士だ。実際会って驚いたか? てめえがこいつの天然ボケぶりを知っていれば迷ったかもしれないな……開封を閙がせた妖人・公孫勝の術があるなら生辰綱強奪なんてちょろい。そう算盤を弾いたてめえは手下のけちな野郎を使ってあちこち探らせた。花青虎……とか言ったな」
 晁蓋は短剣の先で王倫の肥えた頸元をつついた。
「え? そうだろう、塞主」
「あ、あ奴が何を探ろうと儂は知らん!」
「奴は蔡夫人の都管の係累で李大って豎子を手懐けた。あのガキは今頃どうしてるかなぁ?」
 孩子は喉の奥で笑った。
「生憎と花青虎なんてチンピラには用はなかったんでな、俺達もうっかり気づかなかったぜ。うちのドジな奴が花青虎と李大に捕まって拷問受けたが、その程度で口割るような根性なしじゃねえ。奴らが手こずっている間に助け出したけどなぁ……」
 彼は笑みを収めた。
 王倫は喉を鳴らした。
「鯰爺ィ。お前殺威棒受けたことがあるか? 俺達をハメて財宝掠めようと企んだのは上出来だが、俺は自分の下僕がてめえみたいな豚野郎に痛めつけられたのを黙って見過ごすほど甘くはねぇよ」
 いっそ優しい声だ。
 彼を見上げ、王倫は死にものぐるいで口を開いた。
「か、花青虎は姿をくらました。全てあ奴が一人で企んだことだ。儂はただあれに相談を持ちかけただけだ」
「へーえ」
 気のない相槌を打って晁蓋はちらりと視線を外した。
「白、引きずって来い」
 大声で命じた途端に扉が開き、突き飛ばされた若者が転がり込んできた。後ろ手に縛られたまま逃げだそうとしたその若者を白勝が掴み直す。付近の男達が思わず身を退いた。
「昨夜のうちにあいつは吐いたぜ」
 晁蓋はそちらを顎で指した。派手な身なりのその若者はどのように白状させられたのか、しきりに白勝を気にしながら怖じ気づいた顔で頷いた。
 白勝が静かに囁く。
「もう一度言いな」
「そうっス、王倫様の命令スよ、李大には十両くれてやったしあいつの仲間にはそれぞれ五両ずつ、それと」
「嘘だ、儂は知らん!」王倫は絶叫した。「杜遷、儂を助けよ。何故黙って座っているのだ、宋万!」
「……見苦しいぜ、王倫」
 大盃に酒を注ぐよう手真似で命じながら宋万が唾を吐いた。
「あんたにはいい加減愛想が尽きた。こんな奴の下で何年も暮らしてたのかと思うと嫌になるよ」
「貴様……この恩知らずっ!」
 宋万はそれきり視線も向けようとせず、機嫌の悪い声で酌を命じている。王倫は逆側の杜遷に目を向けた。
「杜遷、この口巧者共に騙されるな。儂は李大とやらは知らん。白勝を捕らえよとも命じていない。皆の者、塞主が刃を突きつけられているというのに何故動かぬ!」
 杜遷の眉間に深く刻まれた皺が更に深くなった。
「王倫」
「おお、杜遷……」
「捕らえられたのが白勝だったというのは、俺は初耳だが」
 王倫は凍りついたように瞠目したが、直ちに怒鳴った。
「一目見れば判るではないか、刑を受けたからこそ青白き顔をしているのだろう。貴様まで何を言う、杜遷!」
 しかし、今まで半信半疑の面もちであった者達もひそひそと囁きあっている。
 花青虎を引き出した白勝は確かにまだ顔色が悪い。しかし王倫と杜遷の応答にあった微妙さが男達の心証を変えた。
 無愛想で厳格な杜遷は梁山泊の誰にも煙たがられていたが、同時に一目置かれている存在だ。ある意味では塞主王倫よりも畏敬されている。その杜遷にまで見離されたのでは、誰が王倫を救おうか。
 王倫は晁蓋に視線を戻し、青ざめながらもへつらうように口を歪めた。
「これは何かの間違いだ。晁蓋殿、儂はそちら一行をこのようにもてなしたではないか。受け入れるつもりがなければ関門より内に入れはせぬ」
 晁蓋はにこりと笑みを返した。
「一度受け入れた奴に毒盛るのもてめえの得意技だもんな。誰が信用するか、外道」
「なっ……」
 末席の方で一人の男が立ち上がる。誰も声を立てたわけではないのに、人々はそちらを振り返った。
 蛇矛を手にした男が進み出てくる。常のようにその顔には表情がない。
「うへ」
 小五が思わず顔を顰めた。その男の牽制役だった筈の少年道士は興味深そうな顔でただ見送っているではないか。
「勘弁してくれよ……誰だよ、あのおっさんは動かねって言ったの」
 林冲だった。
 庁の中央に立ってこちらを振り返っていた花青虎と白勝の前まで歩み出、そこで止まる。花青虎が血の気が失せた顔でわなないた。
「《豹子頭》……あんた仲間だろ、頼む、助けてくれ、林教頭」
 林冲は白勝の冷たい硝子めいた目を見つめた。
「受けた恩は忘れていない」
 低く乾いた呟きが洩れた瞬間、その手元が動いた。
 花青虎が恐怖の叫びを上げる。しかし恐ろしい勢いで突き出された蛇矛は彼を襲ったのではなかった。
 白勝は身じろぎ一つしなかった。
 蛇矛の穂先がかすめたとも見えなかったというのに、その上衣の背が大きく裂けている。一同は低く呻いた。青白いその背は生々しい痣と瘡蓋で奇怪な絵のように彩られていた。
「酷ぇ……あの兄ちゃん、モロやられたのか」
 誰かが呻いた。哀れみではない、むしろ敬意が込められた声だ。殺威棒をまともに受けて立ち上がれる者は少ない。
 この場にいる者の大半は何らかの形で刑罰を受けたことがある男ばかりだ。殺威棒に耐え、金印いれずみを見せ合う。それは彼らにとって自慢であると同時に痛みである。無実の罪で刑を受け、そのまま転落した者も少なくない。白勝の無惨な傷跡はその痛みを思い出させた。
 林冲の顔に初めて微かな表情が浮かぶ。その手の中でじりと蛇矛が震えるのを公孫勝は見た。
「痛みを知らぬ者に梁山泊の主である資格なし」
 低い声で言い放つ。
 王倫が声にならない悲鳴を上げて晁蓋を突き飛ばそうとした。孩子の軽い身体がよろける。否、自ら跳んだのか。靠背椅を蹴って立ち上がった王倫の胸に、唸りを上げて飛んできた黒く長い蛇矛が突き立った。
 誰一人身動きすることも出来なかった。
 花青虎が腰を抜かしてその場に頽れる。蛇矛は彼と白勝の僅かな間隙をぬって王倫を貫いたのだ。
 塞主は血走った目を見開いた。物静かに佇む《豹子頭》が彼を見つめている。
 呪詛のような呻きを上げた王倫の喉から血泡が吹き出した。
 
 
 
 晁蓋は息絶えた王倫をちらと覗き込み、顰めっ面で林冲を振り返った。
「せっかくの余興を横取りか」
 林冲はにこりともしない。軽く眉を寄せ、疲れたように踵を返しかけた。
「おい。どこに行く」
「……俺は不義の輩だ。恩義ある王倫を弑した今、ここに留まってはおれぬ」
「おい、待てよ教頭!」
 血相を変えて宋万が立ち上がった。
「俺はあんたを担いでいるんだ、あんたが山を下りるんなら俺もついてくぜ」
 賛同する声が口々に上がる。林冲は憮然として晁蓋を見やった。
「新しい塞主はそこにいようが」
 孩子は片方の眉を上げる。
「ざけんな丸刈り野郎。横から手を出してブッ殺しておきながら言えた口か。それとも俺を徹底的に道化にしたいのか」
「……晁蓋殿」
「ばっくれてんじゃねぇ。こいつら何の為に王倫への義理捨てたんだ? お前を信用してるからだろ、《豹子頭》」
 彼は目を細めた。
「皆が捨てた梁山泊をてめえが拾え。さもなきゃてめえは好漢じゃない」
 林冲は黒袍の孩子を見つめた。杜遷や朱貴、宋万、固唾を呑んで見守る仲間達を見、やがて諦めたように息を吐いた。
「真の器がそこにいるというのに……」
 晁蓋がふと笑った。孩子のような、それとも壮漢のような、ひどく暖かい笑みだった。
「負け惜しみ言うんじゃねぇよ、洟垂れ豎子。呉用を貸してやるから完っ璧に造り直せ。幸い軍資金もたっぷり出来たしな。こんなボロい山塞、青州軍が攻めればひとたまりもないぞ」
 美女が跳び上がりかけて彼の袖を掴んだ。
「どういうこと、あなたどこかに行くつもりなの?」
「さーあな、あちこち」
「私も行きます!」
「ふざけんな年増。お前の頭をここで活かさなくてどうすんだ」
「私はあなたの軍師です、他の何者にも仕えません!」
 孩子は彼女の手を振り払った。
「罰だ罰! 勝手に特攻仕掛けやがって。てめえみたいな危なっかしい女連れて歩けるか」
「そんな……」
 呉用がしおたれる。二人のやりとりに小五が馬鹿笑いした。
「さすがダンナ、潔いぜ。そんじゃあさっさと帰り支度するか」
「阿呆。お前ら兄妹はここの水塞と水路どうにかしろ。あんな中途半端なもん役に立たねぇんだよ」
「何ィ? ちょっと待て」
「大体てめえら婆ァ連れだろうが。呉用より邪魔だ。せいぜい孝行しな」
「待て待て待て!」
 小五が腰を浮かせる。その場の男達はぽかんとして成り行きを見守っていた。
「ここ《豹子頭》のおっさんにくれてやったんだろ? 俺らここに置き去りかい」
「お前ら手配されてここから一歩も出られないだろ」彼は林冲を見やる。「この頭悪ィ奴ら宜しく頼むぜ。こき使っていいから」
「うわあ、勝手に宜しく頼むな!」
「幸い俺はどこにも面割れてないからな」
 しれっと晁蓋は言った。
「まだ外でやること色々あるんでな、ホント腐るほど。こんなところで燻っていられるかよ。ああ朱貴、塩と茶の密売ルート作って官価の半値で売ろうぜ、つてがある」
「出ていく大将が何故仕切る!」
「そのうち帰ってくるからさ。当たり前だろ」
 小五と晁蓋のやり取りをまるで聴いていないかのように、林冲は孩子の双眸を見つめていた。
「……ではその間ここを預かろう」
「まだ言うか、しつこいなお前」
「俺がここを去らなかったのは、ここである人物を待てと柴進に言われたからだ」
 晁蓋は笑みを消した。
「……またその話か」
「その時は信じていたわけではないがな」
 林冲はうっすらと微笑んだ。
 そして太く力強い声で言い放つ。
「新たな梁山泊は《鉄天王》晁蓋を塞主とする。その代理であれば喜んで務めさせて貰おう。……誰か異存はあるか」
 宋万が頭を振った。
「どっちも頑固だ、あんたら。好きにしろよ」
 
 
 
第十一章
 
 
 山塞の裾の方から賑やかな鎚音とかけ声がこだましている。俄か人夫と化した山賊達がまず外壁の補強を始めたのだ。どのようにして連れてきたのか本職の棟梁らもいる。
 出立は人々が最も忙しい昼過ぎだった。仰々しい見送りを避けたのは言うまでもないが、どうやら呉用がまた附いていくと駄々をこねないようにという配慮らしい。その場に居合わせたのは白勝と、うまく仕事をサボっていた小五だけだった。後で小七さん達にとっちめられるだろうなと白勝は一人で悩んでいる。
「なあ劉唐。よく名前は聞くけど柴進ってどんな奴だ?」
 馬を引いてきた小五が尋ねると、唯一人晁蓋につき添うことになった赤毛の大男はのんびりと首を捻ってから答えた。
「あのダンナは百発百中の正夢を見るんだ」
「はあ?」
「俺ら全員の夢。俺様は柴大官人が見た夢を探りに行く役目だよ。見たのがどれくらい先のことか分からない時の方が多いけどなあ……面白ぇぞ」
 小五は難しい顔になり、さっさと馬に跨った晁蓋をじろりと睨みつつまた尋ねた。
「大将から凶星の話聞いたか?」
「うん。最初に会った時飯奢ってもらいながら」
「柴進ってのも凶星なんかい」
「そうだよ。親分言わなかったっけ」
「あんなうつらうつらしてる馬鹿殿のヨタ信じてんじゃねえよ」
 晁蓋のすげない言葉に、劉唐は太い腕を組んでかぶりを振った。
「だって俺様も柴大官人も親分の元の姿知ってるもの。親分は憶えてないって言うけどなぁ……考えてみりゃ、昔ったってたった十年ちっと前ぐらいだろ? ショーゴ、昔の親分は俺様よりでっけえ男だったんだぜ、わはは、仙人っていうより大熊だったなあ」
「……晁蓋、あんた俺に何てったっけ」
「白、さっさと治して追いついて来いよ」
「はい、じきですから! すぐですよぅ」
「無視してんじゃねぇ! ああ憎ったらしい、このクソガキ!」
 晁蓋はにやりと笑い、小五の肩をぽんと蹴った。
 二頭の馬が駆け出す。
 
 
 小二が金砂灘の改修を指示しているのが遠目に見えた。無口なくせにひどく慕われる男だ。男だけではなく漁村出身らしい女も何人か働いており、小七がその先頭に立っている。
 阮兄妹の母親まで工事の様子を見物している。その手を引いているのは翠玉だ。まるで実の母娘のように睦まじい。
 杜遷が振り返ると、常のせかせかした早足でやってきた宋万と出くわした。
「何だ杜遷兄貴……ああ、あいつらか。あのおふくろ元気だな」
 宋万は悪戯っぽく笑う。
「惜しいことしたな」
「何のことだ」
「あの娘が気に懸かっていて嘘までついたくせに。ったく、あんた歳取るにつれ余計頑固に」
「宋万」
「翠玉の許婚斬ったの王倫だろうが。今のうちばらしておかねぇとずっと恨まれるぜ」
 返事をせずに行きかけた杜遷の背に向かって、宋万はまた言った。
「嘘だよ。とっくに俺がばらしちまった」
 思わず杜遷が振り返る。宋万は生真面目な顔で長身の男を見据えた。
「あの娘が好いてるのはあんただ。あんたと目が会うと動転するからいつも逃げてたけどな。王倫とあんた以外は誰だって知ってたぜ、《摸着天》」
「……何を」
「あんまり突然言ってあんたが血の道上がってぶっ倒れると困るから、こっそり言ってやっているんだ。今に小二が兄代わりになってあんたに貰ってくれと申し込みにやってくるぜ、よく知らんがそういう約束したらしい。覚悟しなよ」
 そこまで言うと宋万の顔が人の悪い笑顔と化した。最近この男はよく笑う。
「歳食ってから若い新人よめさんってのもいいなぁ」
「馬鹿なことを言うな」
「へいへい。ああ、俺も忙しいんだった」
 慌ただしく出ていく宋万を見送り、杜遷は茫然として額に手を当てた。
 
 
 半身遅れてついてくる劉唐が不意に、うわ、という笑い声を上げた。劉唐の馬が驚いて嘶いている。何となく予感を感じて晁蓋が振り返ると、ちょうどこちらに飛び移り、覗き込んできた公孫勝の目とぶつかった。
「あはは、目測ちょっと狂っちゃった」
「……いい度胸だな下僕」
「え? オレちゃんと下僕でいいの?」
 目を丸くした瞬間にその袖が風をはらんで膨らみ、吹き飛ばされそうになる。晁蓋は慌ててその腕を掴んだ。
「あのさ、晁蓋さん!」
「頼むから状況を判断しろ」
「オレ皆の居場所が見つかってホント嬉しいんだけど、やっぱり晁蓋さんの連れがいい」
「俺の腕ちぎるつもりか! 自分で掴まれよ、このアホ道士!」
「はあい」
 劉唐が愉快そうに笑っている。晁蓋はじろりと一瞥した。
「勝を置いてけぼりにしたって無駄だって俺様言ったぜぇ、親分?」
「ああそうだな、全く」
「あはは、じゃあついてっていいんだ? 良かったぁ」
「その代わり帰った時皆につるし上げられるぜ、お前。特に姐さん絶対恨む」
「劉唐だってそうだよ?」
「うーん……やべえな」
 二人は真剣な顔で悩んでいる。晁蓋は正面に視線を戻し、げっそりとした顔で吐息した。
「こいつといると一番目立つのに……」
 
 
 范陽帽を通して差し込む陽射しは晩夏のそれだ。
 楊志は頭上の梢をちらと仰いだ。見え隠れする空は黄泥岡に辿り着いた時と同じように青く烈しい。
 ふと自分の手に視線を落とした。先程別れを告げた時に見た晁蓋の親指には、まだ血色の痣があった。
 苦く笑う。
 ──またジメジメしてんのか、お前。
 あの孩子は軽蔑した口調でそう言うだろう。
 だが、自分が醜態を曝し、もしかしたらずっと暗い汚辱の中に転げ落ちていたかもしれないことは頭から離れない。
 次に会う時には、自分は少しは強くなっているだろうか。
 
 
 蛇行した道の手前で振り返ると、苑子城は木立の間にちらと見えた。
 視線を落として再び歩き出す。
 道を曲がり、ふと顔を上げると、一番会いたくなかった男がそこにいた。こっそり出てきた筈なのに。
 帽子を取って見据える。あれは真冬だったと、ふと思い出した。どちらも手が凍えかけていた。
「今はまだお前に負ける」
 楊志は言った。
「だが次は負けない、《豹子頭》」
 
 林冲は蛇矛の石突きで地面を軽く突いた。
「俺はとうにおぬしに負けている」
「……何」
 男の顔に梢の影がちらちらと映っていた。
「柴進が言ったのだ。雪の夜、ある女が俺を救うだろうと」
 それが一つ目の予言だと彼は低く言った。
「俺は世を憎んでいた。あらゆるものに倦み果てていた。正直言えば、あの時の俺はおぬしに殺されたかったのだ」
 ──お前の得物で戦え。
 朴刀を弾き飛ばし、そう言って蛇矛を取らせた女。
 彼は微かに苦笑する。
 楊志の少年めいた髪が風にそよいでいる。目蓋から頬にかけての鮮やかな痣。透明な眼差し。この女は氷よりも清冽だ。
「俺も次は負けぬ」
 静かにそう言い終えて、林冲は楊志とすれ違いに梁山泊へと戻っていく。
 楊志は振り返らなかった。
 背後の気配が消える前に彼女は再び歩き出した。行く手には遙かに道が続いていた。
 
 
(終)

PAGE-TOP HOME