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蓋星水滸伝 11

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蓋星水滸伝


 
 殺風景な房だった。牀が置かれている隣房へと通じる扉の逆側に腰掛けと卓が据えられ、棚に愛用の武具が並んでいる。それだけだ。兵営と変わりない。
 代わりに展望が良かった。庭などないが裏の林に面しているので清閑な空気が入ってくる。断金亭の賑わいもここからは遠く聞こえるだけだ。
 ──婦女子が男子の私室に入ってくるとは。
 林冲の憮然とした表情はそう窘めているように見え、楊志は唇の端を歪めて背後の扉を閉じ、漸く范陽帽を取った。呉用が丁寧に挨拶すると林冲も黙って会釈し、二人に腰掛けを指し示して自分は窓縁に腰掛けた。腰掛けが足りない為というよりは距離を隔てたいらしい。
「無言の行でもやっているのか? 林冲」
「……おぬしまで来るとは思わなかった」
「下僕だそうだからな、私は」
 どこか愉快げにそう答えて、楊志は口を噤んだ。会話は呉用に任せるという意味だ。
 美女は生真面目な顔で口を開いた。
「楊志はあなたと面識があるそうだから、仲介を頼んだのです。先程お目に掛かりましたが改めてご挨拶申し上げます、林冲教頭。私は東渓村の呉用。晁蓋に仕える者です」
 柔和な美貌と声に反して、きっぱりとした事務的な口調だ。
「これは丁寧に」
「阮小二を先にこの梁山泊に向かわせたのは私の考えです。この山塞の空気を読み、どこから着手すべきか調べておくようにと。勿論、その前に《旱地忽律》の朱貴と誼を通じるのも彼の役目でした。朱貴が大義を知る人であったことに大変満足しています」
 よどみなくそう告げて、呉用は林冲の目を見据えた。
「林冲教頭、無礼を承知でお尋ねします。あなたは梁山泊に満足していらっしゃいますか?」
「科人であるこの身を受け入れてくれたことに感謝している」
「それは過去のこと。私は今そしてこれからをお訊きしているのです」
「……着手すべき、とは?」
 林冲の声は低く静かだ。訓練時には火のような口調で命令を下し叱咤する男とは思えない。
 彼の問いに呉用はにっこりと微笑んだ。
「注意深いのですね。ええ、住み心地の悪い土地に故なく我慢して暮らす者はおりません。出来ることなら住み心地良くしようとするものです。窓の外の藪を切り払って採光を良くし、畑に害を為す獣がいれば追い払うでしょう」
「ここに留まるおつもりか」
「大名府と東京は今大騒ぎですわ。尤も梁中書はあまり大ごとに出来ない事情もおありですけれど……梁山泊に入れば彼らも諦めます」
 梁世傑が妖人謝光を屋敷に出入りさせていたのは事実だ。しかし、その証拠隠滅が終われば全ての罪を晁蓋らに被せて討伐命令を下すことだろう。
 ただし、盗賊らの巣窟である梁山泊を攻撃すれば、官軍も相当の損害リスクを覚悟しなければならない。たかが十万貫の生辰綱を奪われた程度ではそれは出来ないのだ。手形と引き換えに巻き上げられた銀を勘定に入れても、軍を動かす理由には足りない。
 小七らが牢城に火を放ち、囚人を解放し、押獄や土兵みんぺいらにかなりの死傷者を出させたのは事実だが、梁世傑がこの事件と生辰綱の強奪事件の犯人が同一であると公にするかどうかは怪しいところだ。晁蓋らには牢獄破りをする理由がない。そこにいなかった筈の白勝を救出する為なのだから、梁世傑が謝光に惑わされて白勝を捕らえ、拷問させた……という一連の事情が暴露してしまう。調停は妖人の出現に敏感だ。何としても謝光の名前を出さずに済まさなければならない。牢城を破られたのは管営の責任、梁世傑自身は余計な口を挟むまい。何か言えば彼自身の失点を増やすだけだ。蔡京の女婿とはいえライバルは多いのである。
 従って、晁蓋らは梁山泊に身を落ち着け、ほとぼりが冷めるのを待てば無事に済む。
 呉用は経緯を手短に語った。断金亭では劉唐がもっと面白おかしく尾ひれをつけて語っていることだろう。幸か不幸か、呉用の利き手は講談まがいの武勇伝には興味が乏しいようだった。
「勿論これは私達の事情です。こちらが受け入れて下さらなければここを出るしかありませんけれども……梁山泊は好漢を歓迎する処だと巷では申します」
 呉用のその言葉に林冲はしかし表情一つ変えなかった。
「事情が些か変わったらしい」
「それはあなた御自身の時からですわね、林冲教頭。朱貴から聞き及んでいます。あまつさえ、あなたは今も嫌がらせを……いえ、生命すら狙われているとか」
 今まで気配さえ消していた楊志の目が氷のように光った。
「あなたはそんな屈辱に堪え忍んでまで、ここで暮らしたいのですか? 争い事は好まぬと、あくまでそう仰いますか? 仮にそうだとすれば、私の目は曇っていたことになりますわ、《豹子頭》」
 優雅な口調のまま呉用は言った。
「私は嘗てとある老人の妾となって母を養っていました。それを恥じてはおりません。けれどこの身一つであればむしろ窮死することを選びますわ。幸い今私が仕えている主は、志を捨てた私などに用はないと言ってくれました」
 
 
 ……呉用が晁蓋と再会したのは、晁家が焼かれてから一年後のことだった。埃まみれの、乞食のような風体ながら孩子は誰よりも堂々として見えた。
 母を看取り一人きりになった。人に勧められるがままに再び嫁ごうとして、騙されたと判った頃だ。妻ではなく妾としてだ、嫁資じさんきんのないお前のような石女など誰が……そう面罵され、悔しさのあまり家を飛び出して道を歩いていた。
 見覚えのある小さな顔を見た途端に抱きついてわんわん泣くと、孩子は憮然とした声で連れの青年に言った。
「お前、こいつをおぶって歩けるな?」
「はあ……」
「なら何とかなるか」
「あの、この人どこかお悪いんですか?」
「腹減って動けなくなったら、だ。こいつは飢えにも凍えるのにも歩くのにも慣れてない。おい年増、泣く暇あったら自立しろ。爺ィの伽したくないなら代わりに何か芸を身につけろ。さもなきゃ死ね」
「ちょ、晁蓋さん」
「やだやだ言ってるだけの女なんぞ俺は知らね。呉用、お前今それだけ馬鹿なら今以上に悪くなることはないから安心しな」
 口ではそんなことを言いつつ、呉用が泣きやむまで待っていてくれた。自分達こそ、三日も何も食べずに歩き通しだったのに。
「──お前は頭がいい。激貧でも国のことを憂える余裕すらあるしな。お前がそういう馬鹿でいるうちは面倒見てやる」
 そう言ってくれた。
 ──汚くねぇんだよ、そんなのは。
 浅ましい道に落ちかけようとしていた楊志をそう言って庇いもした。
 結局、彼はどんな者でも赦してしまうのかもしれない。
 
 
「ここで朽ち果てるのならむしろ死んでおしまいなさい、林冲教頭」
 呉用は林冲を見つめた。
「晁蓋はあなたがどのようになろうとも惜しむでしょうが、私は彼のような仁の心を持ち合わせておりません。仮にも私は晁蓋の軍師。あなたが仲間として相応しくない人ならば、私にも覚悟があります」
 柔弱な白い指を膝の上で硬く組む。その儚げな姿を林冲は凝と見つめた。
「軍師と言われたか」
「女が軍師では滑稽でしょうか」
「いや。晁蓋殿をどのように導こうというのか聞きたい」
 呉用は微笑んだ。
「私はただ必要な時に助言をするだけです。導けるものではありません。晁蓋は既に道を知る者です。……漢の高祖曰く、吾は万軍を率いること韓信に如かず、帷幄の裡で謀を巡らすこと子房(張良:劉邦の軍師)に如かずと。私には私の役割があります。あなたにもございましょう」
 再び生真面目な表情に戻り、彼女は武人を見上げた。
「私は王倫を排除するつもりです」
 背後で楊志が微かに表情を変えた。呉用がこれほどはっきりと殺意を告げるとは思いも寄らなかった。
「当初はただ追放しようと考えましたが、梁山泊の防衛設備がこれほど杜撰であることを知った以上、仮想敵を放つわけにはゆきません。歓迎してくれた恩義を忘れた畜生と誹られましょうが、全ては私の一存。そのことをお忘れなきよう、《豹子頭》。もしあなたが王倫にまだ恩を感じるのであらば、それに報いるのは彼を排した後にして下さい。仇はこの私一人に」
 林冲の表情には変化は表れなかった。
「死士に軍師は務まらん。呉用殿」
「成功率と適性を計算しただけのことですわ。私よりもこの役に相応しい者がいれば、その者にやらせたでしょう。けれど王倫が警戒していないのはこの私だけですし、好漢にとっての汚名も軍師の手にかかれば計略となるのです。今や晁蓋に欠けているものは拠点だけ。ここを手に入れれば私の役目は終わります。幾つか必要な手は打ち、新たな軍師として相応しい人物も選んであります。心残りはございませんわ」
 呉用は大輪の白い牡丹が花開くように微笑んだ。
「先程は失礼なことを申しました。お許し願えればいいのですけれど。後はあなたが私の期待に応えて下さる人物であることを祈るだけ……」
 彼女は立ち上がる。楊志も滑るようにその影となった。
 林冲の背後の森林から、濃緑に染まった風が吹き込んできた。
 
 
 
 
 夜になって導かれた客殿ゲストハウスは関門の外にあった。まだ王倫は晁蓋らを迎え入れると決めたわけではないのだ。というよりも、受け入れを拒む可能性が高いと呉用は推察した。
 林冲との会見が淡々と終わったことを報告しても、皆は落胆した顔はしなかった。そういう男だと聞かされていた為もあるが、別のことで話が盛り上がっていたのである。
「だってね学究、二哥いきなり喧嘩売ろうとしたの、あのエセ大人に」
 小七は憤慨した風でもなくそう言った。
「あいつが晁蓋のこと、何だっけ、遠回しにちびザルとか空威張りとかウザいとかエロガキとか言ったんだよね」
「……聞いたのとだいぶ違わねぇかい」
腐儒うんちくヤローの言葉なんて解んないもん。あたし晁蓋の側にいたから遠かったしさ。まあとにかく、そんなのによく仕えてるよね大変だねーとか言ったのよ。したら二哥、嬉しそうににやあっと笑っちゃって、てめえうちの大将にケチつけんのかよ?って」
「小五。俺様のせっかくの演技を無駄にすんなよ」
「いやいやガキ担いでるってっても当然だろそれくらい。自分とこのオヤをけなされて黙ってちゃ男が廃る。なあダンナ、何であの場で殺っちゃならんかったんだ?」
「お前、呉用や白が何やってたと思ってるんだ?」
 晁蓋は榻に寝そべったまま不機嫌に唸った。
 皆がゆったりと集まることの出来る広間はあるというのに、阮家の居間に慣れていた為か、一同は自然と晁蓋の房に集まっていた。この客殿の調度は上等なのだが、どことなく手入れが行き届いていない。小七の評価によれば設えは全て「王倫のおさがり」らしかった。
 孩子の榻の隅に膝で乗っていた公孫勝が彼の匂いを嗅ぐ。
「晁蓋さんいい匂いするね」
「うるせ。湯使っても紅白粉の匂いが取れなかったんだよ!」
「いいじゃない。呉用みたいだよ? あ、髪もサラサラ」
「勝よ、頼むからそれ以上親分を怒らすなよ……」
 公孫勝は晁蓋や小七からさほど離れていない席に座っていたくせに、女達の襲撃は受けなかった。彼がまるで酒に酔わないのを面白がった連中のおもちゃになっていたので、荒くれ男達を怖がった女達が寄りつけなかったというのが実情らしい。
「でもよ、色々工作する必要なしに気持ちよくばっさりやれたぜ、あれ」
 残念そうな小五に呉用がかぶりを振った。
「駄目よ。あの場の全員に聞こえるほどの声で侮辱されたのならいいけれど」
「劉唐のバカ声で皆には全然聞こえてなかったもんねー」
「俺様のせいかい」劉唐は髪を掻き回した。「あいつは蔭でねちねちいびる性格だから、もし俺が静かにしてたらそんなこと言わんかったぜ、なあ親分」
「まあな。こいつが短気起こしてたらその後俺がショーゴを斬って王倫の霊に供えてめでたしめでたし、だったが」
「ああひでえ……ウソ泣きして馬謖を斬る、かい」
「たりめーだ。あの野郎、お前の恫喝に縮み上がりやがった。明日はもっと用心しているぞ」
「ねえ晁蓋」
 小七は首を傾げた。
「杜遷のあれってわざとだったよね。結局あのおじさんどっちにつく気なの」
 小五が朴刀に手を掛ける寸前に杜遷が盃を割ったのだ。その小さな騒ぎのせいで、王倫が口を滑らせたことは周囲の者にも忘れ去られてしまった。
 少年道士が孩子にじゃれつきながら小首を傾げた。
「どっちって、何と何?」
「コーソン……お前時々頭いいのか悪いのか判んなくなるな、ホント」
「オレ頭悪いよ?」
 公孫勝は悲しげな顔をした。
「だから晁蓋さんにもよく怒られるじゃない」
「杜遷の図式は王倫と俺とは限らねえよ」
 晁蓋が言った。
「俺に王倫を片づけさせて林冲を据えるって手もある」
「……俺が悪かったよコーソン、馬鹿は俺」
「え? 何で?」
「でもそれならあの場で二哥が王倫やっちゃえば儲けもんだったんじゃない?」
「まだ迷っているのだと思うわ」
 呉用が考え深げに言った。
「杜遷が一番微妙なの。王倫と一番親しいし、少なくともこちらと積極的に接触を図ろうとしていない。朱貴によれば林冲に傾倒しているようだけれど、王倫を排除するところまで心が決まってはいないと思うわ」
「そうだ学究、そっちの無口なおっさんどうなのよ。さっきの言い方だとまるで脈なしみたいだったぜ」
 呉用は何も言わずに楊志を振り向いてみせる。相変わらず寡黙な鏢客は出入り口の側に腰掛けていた。窓際から離れようとしない小二と同様、不意の敵襲に備えているのだ。
 彼女は冷ややかに答えた。
「ならばあの場で私が斬り捨てていた」
「あ、そう。俺なら早とちってたな、やべぇやべぇ」
 小五はけろりとして笑った。
「ふんじゃ《豹子頭》は邪魔しないとして」
「杜遷と宋万には直接接触しない方がいいわ、王倫はあの二人の動静に敏感でしょうから。朱貴に説かせているけれど、やむを得ない場合は杜遷も一緒に」
「ぎりぎりまで粘れ」
 一言、晁蓋が命じた。覗き込んでくる公孫勝の視線を手で追い払い、榻の上に座り直す。
「あの頑固爺ィの馬鹿っぷりは惜しい」
「馬鹿ってな何だよ大将」
「昔ちょっと世話になったからって普通、何十年もあの鯰髭に尽くすか?」
「それが馬鹿かよ……ひねくれガキ」
「そう言うと思っていたわ」
 呉用は苦笑した。
「白勝、そちらはどう?」
「あ、はいっ」
 房の隅にいた青年が頭を上げた。小五がふと怪訝な顔をする。
「お前さ、色々手柄立てたりしてんのに何でそう小さくなってるわけ」
「すいません、あの……隅っこの方が落ち着くんです」
 注目を浴びて白勝は青くなり、ますます身を退いた。
「まあまあ、あんまり苛めんなよ」
「俺がいつ苛めた劉唐」
「お前と逆だよ、隅っこにいって座ってろって言われたらどうするよ」
「もっちろん拳にもの言わせらぁ。まあいいや、で、白」
「はい……口割りました。李大の言った通りでした」
 朴刀を磨き始めていた小七が、うふ、と笑った。
「ねえ、それ杜遷にチクろうよ。きっと幻滅するよ。しなかったらあのおじさんも同罪」
「そうしたいところだけど問題はね」
 呉用が柳眉を顰めた。
「杜遷にそれを告げれば、私達の意図が杜遷に伝わってしまうということなの。つまり彼に暴露した時点で彼をこちらに引き込めなければならないのよ」
「いいじゃん。即・肚決めなきゃその場で殺しちゃえば。そこで杜遷がまだ躊躇したら人間終わってるよ、そんな奴要らない」
 ねえ? と小七は白勝に笑ってみせた。微笑と呼ぶにはあまりにも殺伐とした眼光だ。自分が標的になったかのように白勝は竦み上がった。
「で、でも、杜遷は王倫の長年のダチだし、全然躊躇ないってのも逆に人間終わっているような」
「あんたが被害者でしょ! 何でそんなにけろっとしてるかな。ああもう」
「……あれだけ派手に暴れといてまだ足りないんですか、小七さん」
「そういう問題じゃない!」
「はいっ」
「俺が手を打つ」
 低い声に彼らは窓際を振り返った。
「ふえ」
 小五が目を光らせ、にやりと笑う。
「長哥の声を聞いたの久々って気がするぜ」
 小二は晁蓋に視線を向ける。常と同じ、巨大な石のような表情だ。
「杜遷は俺に任せてくれんか」
「いいぜ」
 間髪を入れず応えて、孩子は目を細めた。
「さっさと言やいいのに。俺はもう寝る」
「おいダンナ、ちょっと」
「子供は寝る時間なんだよ。てめえらダベんならよそ行け」
 彼はうたた寝しかけていた公孫勝の額を指で弾いて榻の上から追い出し、ごろりと寝転がった。
 ぞろぞろと一同が出ていく。常のように最後になった白勝が振り返った。
「……晁蓋さん」
「てめえは早く治せ」
「はい。おかげさんで、もうだいぶいいです。……あの、王倫はおれにやらしてくれませんか」
 晁蓋は目だけ動かして彼を見やった。
「おれにも権利あると思いますけど」
「却下」
「……でも」
「お前は呉用を見張れ。いいな」
「用さん? が何か?」
 そう問い返しながらも、白勝も腑に落ちないものを感じていたところだった。先程の呉用は常のように落ち着いていたが、どこか変だ。晁蓋を除けば呉用と一番長くつき合ってきたのは白勝であり、気心も知れていた。
「お前と呉用の共通点、解るか」
「……はあ?」
「てめえを過小評価しすぎるってことだ。そのうち計算狂うぞ」
 白勝は当惑して孩子を見つめたが、寝返りを打った晁蓋はそれきり何も言わなかった。
 
 
×    ×    ×
 
 
 王倫は阮小二の身の回りの世話をさせる為の女をよく入れ替えた。彼がどの女にも触れようとしなかった為だ。女嫌いというわけではなさそうだが、ひどく身綺麗なのか、それともどの女も気に入らなかったのか。王倫はそれを待遇への不満と見なした。
 とにかく、この男を懐柔しなければ林冲の歯止め役になれそうな者がいない。焦った王倫は遂に寵愛していた翠玉を向かわせた。そして彼女の報告によれば、阮小二は翠玉が気に入ったようだった。
 幸い阮小二と林冲は勝負が引き分けに終わった後も親しくなる様子はなかった。しかし金品を贈ってみたが受け取ろうとしない。林冲と自分の不仲をいいことに高く売りつけようというのだろう、と解釈した王倫はひどく機嫌が悪かった。翠玉でなければ嫌だと、暗に要求した阮小二の居丈高さが憎かった。
 しかし女一人くらいくれてやるのは仕方ない。今は急を要する。
 ──あの豎子共がまさか生辰綱を奪うのに成功するとは。あ奴め、何をしていた。
 あ奴、あ奴と王倫は翠玉の前で繰り返していた。用心深いこの男も無力な女の前では警戒心が緩む。妾ではないか、主への情もあろうと考えていたのかもしれない。
 翠玉らがどれほど蔑んだ目で自分を見ていたのかを彼は知らなかった。
 
 
 王倫が罵っていた「あ奴」が誰を指していたのか、翠玉は阮小二が経緯を語るまで取らなかった。
 阮小二の声を聞いたのは初めてだった。想像していたそれよりもずっと控えめで優しい。更夜だからだろうか、周囲に響かぬ静かな声だった。
 言われてみれば、思い当たることは幾つかある。
 王倫の元に出入りしている若い男。胸に派手な牡丹の彫物を入れているので《花青虎いれずみトラ》と自称していた。王倫の目を盗んで女達をつまみ食いし、何度か翠玉にも言い寄ろうとした嫌な男だ。露見すれば忽ち追い出されるだろうが、不思議なことに王倫に告げる者はいなかった。
 女達や召使いを同じ人間だと考えていない王倫よりも花青虎の方がまだましだ。妾達は暗黙の裡にそう示し合わせていた。花青虎は下々には受けがいい。こっそり出入りする際に口止め料をくれるし、ひどく殴られた者もいない。多少気取るくらいなら構わない、王倫がまんまと妾を寝取られるのは痛快ではないか。
 そう自分を納得させなければならない境遇だった。
 だが翠玉は花青虎が嫌いだった。
 粋がっているがてんで腰抜けだと宋万がいつか鼻で笑っていた。意気地なしのくせに粋がる男は嫌いだ。死んだ恋人は武術の心得などまるでなかったが、勇気はあった。閨房に引きずられていく翠玉を見て王倫に跳びかかろうとし、そして殺されたのだ。……杜遷がそう言った。
 ──斬ったのは俺だ。
 厳めしい顔のあの頭領はそう告げた。翠玉の父ほどの年齢だろうか。溌子ならずものというよりは落ちぶれた読書人のように生真面目で、王倫にもよく煙たがられている男。
 ──俺が憎ければ耐えろ。仇を討て。
 そう言われたから翠玉は生き延びたのだ。
 
「この話を杜遷に」
 物静かにそう言われて翠玉は阮小二の無骨な顔を見上げた。
 本当に強い男は優しいのだろう。
「……あの人はここの法です。王倫の為ならどんなことでもするんです」
 吸い込んだ息を吐けないような気がして翠玉は目を閉じた。花青虎を蔑みながらも翠玉には王倫に刃向かうだけの勇気はない。それに気づきたくなかった。
「花青虎にそんなことを命じたと知れ渡れば、塞主は面目を失います」
「杜遷の法は王倫の為にあるのか」
 咎めるのではなく、ごく静かな声だった。
 翠玉は俯く。
 杜遷が自分の恋人を斬ったと自分に告げたのは……。
 翠玉は肩を震わせた。
 耐え続けるだけでどうしろというのだ。ここから逃げ出すことなど出来ない。大勢の見張りの目を盗み、浅瀬を渡れたとしても、辿り着ける処など自分にはない。女の義を示すのであれば、捕らえられた時に自決するしかなかった。
 杜遷の一言でそれが出来なくなった。
 怒りや悲しみが次第に諦めへと変化していくのを翠玉は醒めた目で見つめていた。王倫に身を汚される度に自分という女は消えていくのだと……そんな女はとうにいないのかもしれない。ここにいるのは山賊の妾、ただの翠玉。
 杜遷、あんな男。
 涙が落ちぬように、翠玉は小二を睨み上げた。視線が合えばこの男をも憎んだだろう。しかし巨漢は窓の外にひっそりと息づく闇を眺めていた。
 この人は汚れまい。
 嫉妬めいた痛みが胸を刺した。
「……分かりました。杜遷の元に行きます」
 自分でも意外なほど落ち着いた声が出た。
大哥あなたに一つお願いがあります」
 男の視線が動く。翠玉の紅唇が微笑んだ。
 
 
×    ×    ×
 
 
「……そう頭領に告げろと、阮小二さんに言われました」
 しろい月光に照らし出された翠玉の顔は玉のようだった。この娘がこれほど清楚に美しく見えたことはなかった。
 杜遷は翠玉をつくづくと眺めた。
 王倫の眉が顰められただけで怯え、女達の嫉妬や陰口に泣いていた娘が、睫毛すら震わせずに杜遷を見上げていた。
「何かお返事を?」
 いや、と杜遷は重い口調で答えた。翠玉の白い首筋をちらりと見て、彼は胸の奥が年甲斐もなく疼くのを感じた。阮小二は何度この娘を抱いたのだろう。
 あの男がこの娘を変えたのだ。
 翠玉は杜遷を見上げたまま僅かに首を傾けた。
「一つお訊きしたかったんです。頭領。……何故私にあんな事を言ったんですか」
 杜遷は答えなかった。
 暫く凝としていた娘はやがて音もなく房から出ていった。
 
 
 ありゃあ何だ、と宋万は空になった酒瓶を放り出しながら尋ねた。
 この二人には宴席での鯨飲もまだ足りなかったらしい。房の隅には他にも幾つか酒瓶が転がっていた。
「あれって何だ?」
「とぼけるなよ鶏子くそったれ。あの孩子だ、目が合うと首筋がちくちくする」
「俺様の親分さ」
 こともなげな返事だ。宋万の方も笑い捨てる様子はなかった。この若さで梁山泊第三の頭領にまでのし上がった男だ、ただの腕自慢ではない。
「昔一度だけ聞いたよな」
 宋万はちろりと劉唐を見やる。赤毛の大男は床の上に長い手足を伸ばし、半分眠り込んでいるように見えた。
「お前にはもう親分がいるって。生涯ついていくんだと」
「うはは、そんなこと言ったっけな」
「聞き出すまでえらく手間がかかったぜ。お前が酔いつぶれたのは後にも先にもあれ一度きりだ。……その頃あの晁蓋という孩子は幾つだ? 四つ五つだろう」
「親分は歳よりちょい上に見えるからな、せいぜい三つだ」
「ぬけぬけと」
 呆れて呟き、宋万はふっと笑った。
「そうか。俺にはさっぱり分からんが、気を変える様子はなさそうだな。お前と林冲殿を引き合わせたかったんだが、それでは仕方ない」
「お前はいい男だなあ、宋万」
「……何だ、いきなり」
「索超と似てるよ、酒の強いとこも」
「誰だ、それ」
「《急先鋒》。……うーん、俺様は別に隠してるわけじゃねえ。ただ説明しにくいだけだ」
「いいさ、別に」
 劉唐は目を上げた。
「宋万。俺様はついてく相手を替えてねぇぞ。むかぁし昔、ガキの頃に決めたことだけどなあ、間違ってなかった」
「……ますます分からんから言うなよ」
「その頃は晁蓋って名前じゃなかっただけだ」
 訝しげな顔の宋万を眺め、劉唐は大きな口を開けてにやりと笑ってみせた。
「あの孩子は十歳そこらだと、お前今自分で言ったばかりだぞ」
「はは、そうさ」
「……もう話は聴かねえよ。だが劉唐」
 宋万は表情を引き締めた。
「晁蓋も謎だがお前も謎だ。随分と顔が広いじゃないか。あの阮兄妹はこっちに靡かないので知られていたんだぜ、それを」
「あいつらは親分のつてだ」
「またそっちと繋がるのか」宋万は眉を顰めた。「なあ、劉唐……お前まだ誰か後ろにいるだろう。お前のとこの小所帯には今回の仕事は大きすぎたぜ?」
 赤毛の大男はにやにやと笑った。
「何でそんなこと訊くんだ?《雲裏金剛》」
「十年来のつき合いだろうが……くそ、はきはきしない奴は好かないんだよ」
「小五ならとっくに痺れきらしてたなあ」
 劉唐はむくりと起きあがり、首をぐるりと回した。
「滄州」
 ただ一言。だが宋万は眉を開いた。
「……《小旋風》柴進か。お前の後ろは」
「何だ、驚かねえな。つまんねえ」
「それなら納得がいくさ。朝廷にすら顔が利くからな、亡国の末裔殿下だ。成程な」
 呟いて、宋万は厳しい表情に戻った。
 柴進は歴とした貴族だ。それでいて《小旋風つむじかぜ》の二つ名で呼ばれるほど好漢の間で知られた人物だ。パトロンとしてだけではなく、渾名までつくとは些か度を超したかぶれ方である。
「……悪党め」
 宋万は劉唐をちらと睨んで鼻を鳴らした。
 柴進からは王倫も何度か恩を受けている。嘗て渋々ながら林冲を受け入れたのも柴進の紹介状があった為だ。つまり劉唐が一言言えば、王倫は生辰綱などというおまけなしで晁蓋ら一行を梁山泊に迎え入れた筈なのである。
 劉唐はそんな素振りはちらりとも見せなかった。つまり。
「お前ら、王倫に正面から喧嘩売りに来たな?」
「当たり前さ」
 劉唐は赤毛をぼりぼりと掻きながらにやりと笑った。
 
 

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