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蓋星水滸伝 10
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12.(end)
蓋星水滸伝
× × ×
《旱地忽律》朱貴の酒店は存外に広々としていた。一行が通されたのは寝泊も出来る客房つきの水亭だ。梁山泊がよく見渡せる。夕映えを眺めながらの酒は格別だと朱貴が言った通りだった。
物腰の柔らかな男だった。愛想は乏しいが出すものは旨い。酒も上等だ。くたびれ果てていた男達は痛飲し、一人二人とつぶれて客房に引き取った。阮氏は早々と寝入っている。
最後まで飲んでいたのは小五一人だった。
もう宵の入りだ。水の上を渡る風が月光の下で葦を撫でている。
「学究、大将を寝かすなら客房の方がいいんじゃねえの?」
晁蓋は案外これでうるさいところがあるらしい。荒仕事続きでぐったりしていたのはさすがに子供の体力だが、てめえらゲボクを野放しにしたらここの亭主がメーワクだろうと、客房に引き取らず、榻の一つを占領して寝息を立てている。到着した時に朱貴とほんの数語言葉を交わしたきり、また寝入ってしまったのだ。
主賓が先に姿を消しては礼に反する……知己の間の礼だ。ただの酒店じゃねえってことかい、と小五は胸中で考えた。ここの亭主は一応敬意を払う相手というわけだ。
「眠り浅いのよ、晁蓋って。動かしたら怒られるわ」
「さっきまでのあの騒ぎの中でも寝てたけど?」
「騒いでいる間は皆生きているもの」
成程な、と小五はまた盃を空けた。
「あのさ学究」
「なあに?」
店には明かりが灯っている。明日の仕込みをしているのだろう。小二が手がけている仕事の全貌を聞いたわけではないので、朱貴がその中でどのような役回りを果たしているのかが小五にはまだ判らなかった。
とりとめのない男だ。朱貴に対する第一印象はぴんと来ない。《旱地忽律》という名を以前聞いていなければろくに注意もしなかっただろう。晁蓋とのやりとりはごく簡単だった。孩子の名乗りを聞いた時もその表情は変わらず、慇懃に案内しただけだ。
だが……小五は榻の隅に置いた朴刀の鞘に触れた。
まだるっこしい奴だ、腹ん中で何を考えてるか読めねえ。確かに長哥向きの仕事だ。
「ダンナの話、あんたどこまで聞いた?」
どこか愉しそうに呉用は微笑んだ。
「生い立ちのこと?」
「うんにゃ……」
──張真人。竜虎山。一〇八の魔王。
小五は頭を掻いた。自分もその一人だと言われたが、こうして静かな水亭で語るにはあまりにも荒唐無稽な物語だ。
「仁宗なんて天子いたの?」
「ええ、勿論。四代前よ。小説やお芝居によく出てくる包龍図が東京開封を治めていた頃の皇帝」
包拯は名裁判官として後世に長く敬愛される人物だ。公案ものの中では悪人のトリックを破って大活躍する。
「へえ。その頃何か変なことあった?」
「そうねぇ、対外的な問題としては」
「あ、いや、そういうんじゃなくて」
呉用は悪戯っぽく微笑んだ。
「洪信が伏魔之殿を解いた話?」
「知ってるじゃねえか。学究、人が悪ぃぜ」
「眉唾な話は幾らでもあるわ。名君の下に逸材が揃い、道に落ちているものを誰も拾って盗もうとしないくらい素晴らしい時代だったと小説では言うけれど」彼女は肩をすくめる。「叛乱も戦争も続いていた時代。当時の貝州が恩州と改称されたのは大きな叛乱があったせいよ」
貝州でのその騒ぎは小五も講談を聞いたことがある。妖人や道士が大活躍する面白い物語だった……だがそれが実際に起こった事件を元にしていたとは。
「洪大尉という人は確かにいたわ、とりたてて目立った功績もないけれど。彼が竜虎山に勅使として赴いたのも事実よ」
「難しい本で読んだのか、それ?」
「記録を読んだだけ。けれどね、この人のことだけは素直に信じられたわ」
ふと彼女は言った。
「私は晁蓋と同郷だと言ったでしょう。この人、生まれたばかりの頃から一人前の喋り方をしていたわ。考え方も。不思議な子だって、阿娘が……晁蓋の阿娘は里正のところに働きに来ていたから、むしろ阿娘と親しかったわ。その頃。頼もしくていい人だった」
彼女は孩子の髪を微かに撫でようとして手を止めた。起こすと思ったらしい。
──俺は間違えられた。
黒く深い淵のようなあの目を小五は思い出す。
謝道士が楊志の中から目覚めさせようとしていたものは、本当に洪信が暴いたという伏魔殿の一〇八の魔王だったのだろうか。
それを追ってきた大仙・洞玄──晁蓋が、それに間違えられる。皮肉なことに。
孩子の身体に残っていた怖ろしい傷跡。
「こいつ仙力とか使えねえの? ナントカ真人って道教のトップなんだろ?」
「ええ、けれど多分、使わないでしょうね」
「何でよ。こいつ殺されかけたんだろ? 誰かに」
「そのせいで──」
「うるせぇ」
呉用の静かな声を不機嫌な唸り声が遮った。
晁蓋が顔を顰めながら起きあがる。
「人の頭の上でつまんねー話してんじゃねえよ」彼は呉用を一瞥した。「美容に悪いぜ年増。さっさと寝れば?」
まるで後ろめたい話をしていたかのように、呉用の顔が赤らんだ。
「ごめんなさい」
「少しは見かけに気を遣え。お前の器量は持ち腐れってやつかよ」
晁蓋は寝惚けた声で呟いて、猫のような大欠伸をする。呉用はまばたきした。
「あ?」
「……いいえ、お休みなさい」
まるで少女のようにはにかんで、呉用の優美な姿は客房へと消えていった。その後ろ姿を怪訝そうに眉を寄せて見送ってから、晁蓋は小五をじろりと見やる。
「ほほう。あんたの口からでもちっとは誉め言葉に近いもんが出てくるんだな」
「誉めてねえ。あいつの顔はコーソンの術みたいなもんだろうが。生まれつき天稟備えてるくせに当の本人が一番解ってないし使いこなしてない」
「ああ可愛くねえ、その性格どうにかしろって。いいじゃねぇかよ、学究はあれがいいんだよ。ま、一度うんと派手に着飾ったところも見たいかなー濃い紅さしてさ、ひひひ」
「くだ巻くな酔っぱらい」
晁蓋は榻の上に座り直した。ずっと眠り続けていたからさすがに腹が減ったのだろう。小五は呉用が晁蓋用に取り分けておいた皿をそちらに押しやり、自分はまだ残っていた酒の瓶を傾けた。
「んでよダンナ」
「何だ」
「間違えられて、何があった」
「斬られて焼かれた。言っただろ」
彼は魚介類の炒め物を小皿に取りながら面倒くさそうに答えた。
「村の私刑?」
「官兵」
「……いくらクソ憎たらしくて小賢しいガキだからって、いきなりそりゃないだろ」
「旱続きであの年不作だったしなぁ」
「おい」
「そのちょっと前に近所の女が頭二つあるガキを産んだ」
彼は冷たくなった酸辣湯を一口啜った。
「こっそり産んで赤ん坊の頭を叩き割って、埋めに行くところを発見されて、俺に孕まされたと言い出した」
「ちょい待て。そん時あんた幾つだ」
「五歳」
「誰が信じるかい、そんなの」
「妖術って言えば何でもアリだろ。ま、そのヨタを皆が信じ込んだほど俺は気味悪い孩子だったわけだ」
彼はあの表情の読めない双眸で小五を一瞥し、また食事に戻った。
「普通のガキのふりするほどまだ知恵ついてなかったからな」
「その女どうしてんの」
「知らね」
「な……」
「無理に嫁がされる前から出来てた男がいて、俺の事件の直後にそいつと逃げたと呉用が言ってたが、違うな。あの野郎、びびって女バラして一人で逃げたんだろう。そういう奴だった」
小五の拳が卓を叩きつけた。
「何だそりゃあよっ!」
晁蓋は頬杖をついてゆっくりと遮る。
「皆が女の話を信じ込んだ、というのは違う。あの頃に起きたヤな事全てが俺のせいだった、だから俺を片づければ全て丸く収まる。……そう信じ込みたくて、そうした。どうしようもなく貧しいとそういうことはよく起こる。だが奴らは死ぬまで忘れねぇよ、俺達を焼き殺した日を」
呻き声。一番下の妹は斬られはせず、火がついたように泣き喚いていた。
すぐ下の弟のまだ暖かい肉体。
外は気味が悪いほど静かだ。それとも鼓膜が破れただけか。
炎に包まれる小屋を見守る人々の視線を感じる。
炎が爆ぜる音が聞こえるのに、手足は冷えていく。
「あんたが殺されかけたんだぞ!」
「俺はこの通り生きている」
ひっそりと呟いて晁蓋は視線を落とした。
「俺が生まれたのは東渓村だ。ショーゴ。あの村がどうなったのか憶えてないか」
知らぬ筈がない。東渓村は石碣村からさほど離れていない農村だ。何か事件があればすぐに伝わる。
「……落雷でひでえ火事に遭ったって」
のろのろと言って小五は晁蓋を見つめた。
「旱続きだったからな、あの頃。さぞ良く燃えただろうよ。ま、それは俺のせいじゃないが」
「じゃ、あれが……」
晁三なる人妖が東渓村の民を惑わし、退治された、と。
「あんた、今、俺達って……」
殺されたのはその晁三という孩子だけではなく、一家全員だった。孩子を奪われまいとした母親が真っ先に斬られ、誰かが家に火を放ったのだと、饒舌な流れ者が賭場で喋っていた。
──したら次の秋にあの火事だろ、しかも雷母がお出ましになったとよ。晁三が祟ったんだぜ。村の連中すっかりびびって村はずれに石塔なんぞ建てたそうだ。へ、良民面しやがって。やるこた俺らよりよほどおっかねえじゃんかよ?
……落雷は天が罰するのだと言われている。晁一家を殺した人々は天によって罰せられた、と。
「俺を突き出せば助かったんだ。兵士共もさっさと庁に連行すりゃ良かったのに、びくつきやがって」
晁蓋は箸を投げ出した。
「……怒るぞ。おふくろさんがそんなこと黙ってさせとくもんかい」
「違う」
──可哀相だけど三郎。お前が憎いわけじゃない、おなかを痛めた子だもの。だから今まで我慢してたんだ。でもこの子達のことを考えておくれよ。今まで育ててやったんだから祟るんじゃないよ。
母はそう言った。
それも仕方あるまい、自分を産んだ為にこの女はひどく不幸になった。夫が遊蕩の末に姿をくらましたのも薄気味悪い三男のせいでないとは言い切れない。よく働き、懸命に子の世話をした。やつれ果てた顔で、こちらを見ようとはしなかった。
母を憎む気はなかった。
兵士が顔を顰めて刀を振り上げる。
だが、その時兄が帰ってきたのだ。
「日頃は俺を半殺しにしてた二哥が、斬られた俺を見て暴れたせいで騒ぎがエスカレートした。……おかしな話じゃないか」
兄は何故あんなことをしたのか。
息を吹き返した時、自分の上に覆い被さっていたのは兄の屍体だった。偶然か、庇ったのか。もう殆ど息をしていなかった弟の為に?
兄は真っ黒に焼け焦げていた。
「けっ。俺に仙術なんてものが使えるならおふくろもバカ兄共も生きてる」
周侗やその母も。
誰にも、手は出させなかった。
晁蓋は顎をぐいと上げ、いっそ殺伐とした笑みを浮かべて小五を睨みつける。
「お前、あんな出まかせいつまでも信じてんじゃねーよ。はん、真人だって? そんな力あったらもうちょい楽してるさ」
唇が冷たく歪んだ。
「それとも俺がクソ仙人の生まれ変わりでもなければガキの下につく気になれないか? 生憎だったな。俺は貧乏晁家の三郎に生まれた太歳だ、関わるとマジ不幸になるぞ」
ふと伸びた手がその頭の上に置かれた。孩子を覗き込んだ青年は微かに目を細め、笑おうとしているようだった。
「俺だって《立地太歳》だぜ、ダンナ」
晁蓋の冷笑が消え、視線がそれる。
「洞玄だか何とかの話、俺にはでかすぎてどうでもいいよ、正直言って想像つかねぇしな。俺らを顎でこき使ってんのは大昔のえらい仙人じゃなくててめえだろ、くそガキ」
彼は晁蓋のくせのない髪をくしゃくしゃにした。
「兄が弟の為に身体張るのは当たり前だ。あんただって散々やっただろ、でなきゃ誰が憎ったらしい豎子の手下やるかい」
晁蓋は答えずにそっぽを向く。
小五はふっと笑った。
「あー良かった。お前ちゃんとガキだわ、今ちょっと実感した」
「……何だよ」
「いや、『仕方ねぇ斬られてやっか』ってあたりでちらっと、こいつマジ人間かなぁって気がしたんだけど。ひひ、見たぜ見たぜ、お前目ェ潤んでたぜぇ、声かすれて」
「……あっそ。お前そこの梁山泊で溺死したいか」
「水虎の阮兄妹が水の中で死ぬかい。それはいいとしてなダンナ」
「何だよ、触んな酔っぱらい、酒臭い」
「やっぱ真人とか何とか、ありゃ嘘っぱちかっ! てめえよくも次から次へとあんな出まかせ出るよな、ちょっと本気で信じちまったじゃねぇか!」
「騙されるのがどうかしてんだろ、首を締めるな、馬鹿力」
「うるせぇ痩せっぽち」
小五は楽しげに大声で笑い、手を離して座り直すと息をついた。
葦が風に揺れる音が聞こえる。
「でよ、亭主。いい加減盗み聞きはやめろよ。間男待ち伏せてるみてぇだぞ、あんた」
店側の飾台の蔭から影のように朱貴が現れ、丁寧に会釈した。
「邪魔してはいけないと思いまして、暫く声をお掛け出来ませんでした」
憮然とした顔で襟を直している晁蓋はまだそちらに顔を向けない。朱貴はひっそりと苦笑した。
「御加減はどうです。晁蓋さん」
「ああ。久々によく寝た」
「それは何よりでした。東京で大層なお働きをしなさったそうで」
「王倫は嫌がるだろうな」
晁蓋がいつもの顔でくすりと笑う。小五が目を瞠った。
「へ? 大将王倫と知り合いか?」
「そりゃ、本当に十万貫を拵えて来るお人がいるとはあたしも驚きましたね。何故太行山あたりに向かわなかったんです? あそこだって官兵も諦めましょうに」
太行山は開封の北に位置する山脈だ。梁山泊と同様に悪名高い地域である。
晁蓋の黒い双眸が薄暗がりの中で光った。常の皮肉げな笑いがその声に戻っている。
「十万貫で梁山泊を売ると言ったのは王倫の方だ」
初めて朱貴の顔に何らかの表情が現れた。
「晁蓋さん、それは何かのお間違いでしょう。売るなんて乱暴な」
「太師への生辰綱を強奪する以上の仕事を王倫がしたことあるか? 俺達が梁山泊入りすれば自然に順位が入れ替わる。奴も承知の上で吹っかけたんだろうが」
「おいダンナ。王倫といつそんな賭けをしたんだよ、あんた」
「賭けじゃないですよ、小五さん」
朱貴は青年を見やった。
「林冲殿の時もそうでしたが、梁山泊は人が増えすぎて困っているから、よほどのお人じゃなければ受け入れられない……そう断った《白衣秀士》に、晁蓋さんが申し入れたんですよ。十万貫の生辰綱ならどうかと」
小五は眉を上げた。
梁山泊を乗っ取る。開封を出た晁蓋が言ったのはそれだけだ。その準備段階で小二がどんな働きかけをしていたのかを小五は知らなかった。晁蓋が穏当な申し入れをしていたとは初耳だ。
「林冲は一人ぽっちだったんだろ? 俺らだってついて来たいって奴ら含めても二十人に足りねぇよ。王倫てのはけつの穴小せえこと言いやがるなぁ」
朱貴は曖昧に笑った。
「王倫が恐れているのは晁蓋さんより小二さんでしょう。何しろあたしでさえ、晁蓋さんに直接お目にかかったのは今日が初めてですから。失礼ながら、見事な字をお書きになりますね」
「ああ、ダンナは文通が趣味だからな」
「柴進様とも、そうやって?」
どこかで聞いた名だと小五は首を傾げる。
流れるような動作で朱貴が淹れた茶を受け取り、晁蓋は首を振った。
「いや。あいつは元宵節だ清明節だといろんな口実作ってはよく開封に来るからな」
「そうですか……」
ふと朱貴は表情を改めて孩子を見つめた。見返す孩子の視線に耐えきれなくなったかのように、ふと頷く。
先程までの、丁寧だが試すような雰囲気が消えた。
「小二さんは林冲殿に接触出来たようです。あんたのお言いつけ通り、具体的にはまだ何もやっちゃいません」
「林冲の反応は」
「それはまだ。あたしが見たところ、あのお人は一番上にはなりたくないようです」
「だろうな……そんな気がする」
宙を仰いで晁蓋はふと憮然とした。
「権力志向マイナスの奴ばっかりだな」
「晁蓋さん。二度も同じことお訊きするのは何ですが、あんたはどうして梁山泊に来たんです?」
孩子は朱貴の顔に視線を戻した。物静かな男の双眸には物静かな力が湛えられている。それを見て微かに笑った。
「いくら俺みたいなガキでもな、朱貴」
「は」
「何年か旅すりゃ家が欲しくなるんだ。お前もそうだろ?」
朱貴は返事をしない。小五が目を上げて彼を見やると、亭主は相変わらず表情のない顔で口を硬く噤んだまま晁蓋を凝視していた。
やがて彼は口を開いた。
「……そうです。ここは、あたしにとって何より大切です」
朱貴はそれ以上何も言わず、下がって丁寧に会釈してから水亭を出ていった。
林冲の影を見つけた小二は、しかし呼びかけようとはせずにその場に佇んで彼の一人稽古を眺めていた。
蛇矛が空気を薙ぐ声は、他の者に稽古をつけてやる時のそれとは明らかに違う。
闇が悲鳴を上げる隙さえない。
張りつめた空気の中に何を視ているのか、筋肉が隆々と盛り上がったその身体は汗で黒く光っている。
突き。
石突きで見えざる刀を払い、絡め、
猿臂が蛇矛の一部と化して敵を襲う。
上半身が頽れたようにふと縮み、突き上げては翻る。
相手の手の中で閃く白刃。それが小二にも見えたような気がした時、林冲の動きがふと止んだ。
闇に向かい、武人らしい無言の挨拶をしてから衣服を直して小二に向き直る。
まるで痩躯であるかのような印象を受けるのは、見事に絞り込まれた肉体である為だ。頭髪は地肌が見えるほど短く刈られており、その豹を思わせる頭が余計に小さく見える。
偉丈夫ではない。むしろ逆だ。薄い唇や眉骨と頬骨の突き出た輪郭は酷薄な印象を与えても不思議ではないが、この無表情な男のそれは石を思わせた。愛想がなく、朴訥としていて硬い。
だが、この石は見事な璞だ。泥にまみれ、磨かぬまま放り出されていても名玉だと誰もが判る。
「梁山泊は変わる」
小二がぽつりと言った。
「おぬしは晁蓋を待っているのだろう」
林冲は無言で彼を見返した。訝しむ様子も肯定する様子もない。
小二は踵を返した。ゆっくりとした足取りで房へと戻っていく。
その背後の闇の中で、林冲がどのような顔をしていたかは誰も知らない。
第九章
金砂灘から知らせを受けた宋万は物見櫓に駆けつけた。街道に面する第一門の付近には既に黒だかりが生じている。何人かの頭を突き飛ばして物見櫓に駆け上ると、押し分けられ、罵声を上げかけて振り返った男達は彼が誰であるかを知って口を噤んだ。梁山泊の第三席に着くこの男は荒事を好むことで知られている。
「おかしら」
まだ年端の行かない見張りの少年が宋万を振り返った。
「おかしな奴らです。女や孩子まで混じってら。それにあの幟」
「見りゃ判る」
街道から水を渡って苑子城やこの金砂灘に到着するには、ぼうぼうと生い茂る葦の中につけられた水路を辿らなければならない。少しでも間違えればそこかしこに仕掛けてある弩弓から矢が襲いかかり、銅鑼が打ち鳴らされるのだ。水路を熟知しているのはここに集う者の中のほんの一握りしかいない。ましてや岸辺の街道側からこちらに渡ることが出来るのは、梁山泊第五位の朱貴だけと決まっていた。彼が苑子城と岸辺を行き来するのは、糧食の搬入を除けばごく僅かだが、朱貴が先導してこちらに渡ってくるのであれば、その人物にまず間違いはない。
荒稼ぎ以外に外に出ることが滅多にない男達は暇つぶしになるなら何にでも飛びつく。朱貴の口添えで阮小二が滞在している今であってもそれは変わらなかった。
舟は四艘。
重い荷を積んでいるらしく、ゆっくりと進んでいる。先頭の舟の舳先に立ち、葦の中を漕いでくるのは見覚えのない青年だ。堂に入った棹の使い方からして、腕に憶えのある船頭だろう。その側に朱貴が座っている。
「うわ、凄ぇ別嬪」
目の良い少年が口を開けた。
容貌は定かではないが、朱貴の傍に腰掛けている女の白い顔が宋万にもちらりと見えた。
「子連れだろ」
「うにゃ、違ぇよおかしら。あ、婆ァもいらぁ。何だあ、ありゃ家族か?」
「幟には何と書いてある?」
「うん……と……太師……生……」少年は目を丸くした。「都の太師への献上品か何かだぁ、大変だ。あ、判った、生辰祝いだ」
宋万は目を凝らした。二艘目か三艘目が葦の間にちらりと見えた。幟の下に黒衣の孩子が一人、ちょこんと座っていた。
今頃になって銅鑼が鳴り響いている。敵ではなく出迎えの意味だ。宋万は物見櫓から飛び降り、苑子城に向かって浅瀬の中の道を走った。
『打魚一世蓼児洼、
不植青苗不植麻。
酷吏賍官都殺尽……』
小五の戯れ歌が途切れた。梁山泊の中に浮かぶ苑子城が間近に迫ってきたのだ。
「何だ、割とぼろっちいな」
彼の呟きは水音と銅鑼の音に掻き消されて誰にも聞こえなかった。
悪名高い盗賊の巣窟だが、いざ近づいてみれば粗末な小屋や塀が並んでいる。水際に植えた柵は無数の錆びた剣や槍を逆さに突き立ててあるだけで、怖ろしげというよりはみすぼらしい。蹴り飛ばせば折れそうだ。正面の関門は巨大に作られているが、土壌が軟らかいので基柱が今にも傾げそうに見える。内部は堅牢なのかもしれないが、外側がこれでは官軍が押し寄せてくればひとたまりもないだろう。
小五はずらりと並んだ男達を見返し、浪子らしく大仰に挨拶してみせた。
「豪儀な出迎え感謝するぜ、兄弟がた。俺は《鉄天王》晁蓋の第一の子分、《立地太歳》の阮小五ってもんだ。宜しく頼むぜ!」
肌脱ぎになった半身にはくっきりと鮮やかな豹の彫り物。危なげなく舳先に突っ立って棹を岸についてみせたこの青年に、どっと歓声が降り注いだ。
朱貴が無造作に桟橋に降り立つ。小五は片手を呉用の細腰に巻きつけて軽々と降ろした。立ち上がっただけでも危なげだったのだ。彼女の容貌にどよめいた男達を後目に、杜遷に言いつかった男達が猿のような身軽さで舟に飛び乗り、積荷を降ろし始めた。見る間に舟が空になっては移り、二艘目が着いた。
「また女かよ?」
宋万は思わず目を剥いた。ごく若い、気の強そうな娘が棹を操っていたのだ。
宋万の隣に立っていた杜遷の目は、しかし娘ではなく、積荷の上から飛び降りた黒袍の孩子に向けられた。その傍に立っていた淡い色の道服の少年とひどく対照的だ。
少しも物怖じすることなく周囲を睥睨している孩子が、ふとこちらを見上げる。
──何故。
杜遷はぎくりとした。いつか官兵との交戦で敵の大将と遭遇した時でさえ、たじろがなかった自分が。
突き刺すような孩子の視線。
にやりと彼は笑った。
あれだ。
何故かは自分でも判らぬまま、杜遷はその孩子が晁蓋なる人物であることを悟った。
彼はちらりと王倫を振り返った。塞主は君子然としてゆっくりと扇を動かしていた。
人だかりの喧噪がふと静まる。代わりに生じたのは戸惑いの呟きだ。
舟に乗っていた屈強そうな男達がずらりと並び、赤毛の巨漢と先頭にいた青年、それに美女や少年道士らがその前に立っている。彼らを従えてその中心にいるのはやはり、あの孩子だった。皆が戸惑うのも無理はない。
孩子はぽかんとしている男達を見回した。にこにこと得意げにそっくり返っている。先程杜遷がちらりと見た不思議な眼光はどこにもない。
「俺が晁蓋だ、梁山泊のアニキ達。古今東西、俺みたいなガキがこんな野郎共の上に立ったことはあんまりなかったと思うけど、事実なんだから仕方ないや」
ほんの少し孩子らしく声を作っている。痩せて浅黒いが顔立ちは悪くないので、生意気だがなかなか気の利いた童子に見える。
塀の上から身を乗り出していた下っ端の少年達が囃し立てた。
「襁褓してても勤まるのは天子様くらいだぜー、ガキんちょ」
「るっさいなあ、こいつらがだらしねぇから俺が仕切ってるだけじゃないか」
「何ィ、てめえ!」
小五が小突くと晁蓋は跳んで逃げ、笑いながらまた続けた。
「開封と大名府で少しばかり名を売ってきたんだ。梁山泊は誰でも受け入れる処だと聞いたから来てみたんだけど……挨拶代わりにちょっと嵩張るものを見繕ってきた。大名府の梁世傑から蔡京宛ての生辰綱だってさ。良さそうな酒もある。受け取ってくれよ」
男達がどっと湧いた。
──蔡太師への生辰綱!
晁蓋が不敵に笑ってみせる。その小さな体躯が逆に功を奏したらしく、感嘆と歓声で辺りは騒然となった。
「うっそぉ……あんなちっこい親分は初めてだぜ、なあ宋万アニキ?」
生意気な手下が腹を抱えて宋万を見上げた。皆が口々に遠慮のないことを言っている。
「何でまた、あんなガキが?」
「二代目か何かじゃねぇのか。先代が誰だか知らねぇが」
「はん、義理堅い奴らだね」
「梁中書からだって?」年配の盗賊が目を細める。「ふうん、一体どれほどのお宝なんだ。まあ見せろや」
「こんな痛快な話があるかい。あのクッソ生意気なガキ見ろよ、マジにあいつが奴らの頭領なのか? あの横にいるの阮小五だろ? 対岸の賭場で会ったぜ」
「客人の弟じゃねぇか」
「ああ……」
騒ぎは収まりそうにもない。
晁蓋は笑みを浮かべて彼らを眺めたまま隣の巨漢に尋ねた。
「劉唐」
「あの鯰髭の奴が王倫。その手前が杜遷。宋万は……うん、こっちに来るわ」
劉唐の言葉通り、三人の頭領が皆の中から進み出てきた。
宋万は他の二人と比べてかなり若い。三十歳にはまだ手が届くまい。荒々しい目をした端正で厳しい顔立ちだが、どこか愛嬌が残っている。彼は射すくめるように小五と劉唐を見つめていた。技量を値踏みしているのだろう。小五がにこやかに笑ってみせると、面食らったらしく眉を開いた。
杜遷はずっと年長だ。ひどく背が高いので若い頃から《摸着天》と呼ばれているのだと劉唐が以前言っていた。白髪混じりの鉄色の髪を硬く撫でつけ、こわい顎髭を生やしている。皺の多い顔は無表情だが、のっぺりとした雰囲気の朱貴とはまた違う。
彼らを従えた三人目の人物は中背の、どちらかといえば痩せぎすに近い文人型の男だった。まるで化粧を施したように滑らかな顔の中で、目だけがぎょろりと大きい。彼は完爾として笑い、進み出た。
「《鉄天王》晁蓋殿の御高名はかねてから聞き及んでおります。私がこの山塞の主、王倫と申す者。よくぞ参られました」
晁蓋がほんの孩子であることに驚いた様子はおくびにも出さず、恭しげな態度だ。
晁蓋はにっこりと微笑んだ。
「ありがとう、王倫アニキ。その鉄天王とかいう大それた名前、俺が名乗ったわけじゃないぜ。晁蓋でいいよ、ただの三郎でも。名高い梁山泊の《白衣秀士》の前じゃ、ホントただのガキなんだから」
「何を仰る。晁蓋殿のお働きに相応しい名ではありませんか」
「俺は何もしてないもの。こいつらいいことも悪いことも俺の名前でやるんだから」
「これはご謙遜を。好漢同士、年の上下などありませんぞ……や、まずは皆さんにあちらに足をお運び頂き、その上でゆっくりと」
小五はこっそりと胸をなで下ろした。あと数秒でも彼らの会話が続いていれば耐えきれず、爆笑するか水の中に飛び込むかのどちらかだっただろう。実に気色悪い光景だ、晁蓋が孩子のような顔で和やかに誰かと挨拶するというのは……それ以上に気色悪いのは王倫の方だが。
「《豹子頭》の姿が見えないわね」
寄り添うように側に立っていた呉用が小五にだけ聞こえるように呟いた。
「やたら地味なおっさんだというからな……ま、宴席には出てくるさ」
数人の女が晁蓋を取り巻いてあれこれと料理を勧めている。下働きの人々が暮らす集落ならともかく、山塞の断金亭で小さな孩子を見かけることなどないので珍しいのだ。小さな手足を伸ばしてふんぞり返った孩子の姿は滑稽というより愛嬌があり、遠目にそれを見た劉唐は危うくむせるところだった。
「怖ぇよ、親分きっと肚ん中でめっちゃギレて悪態ついてるぜ。呉用姐でさえいつも邪険にされんのに、うわ、あの女あーんとかやってるぜ」
白勝は視線すら向けらず、顔を強ばらせて笑うしかなかった。もし晁蓋と目が合ってしまったら後が怖い。
「そっそれより例のあれ探さないと」
宴は既に無礼講と化していた。君子を自認する王倫がいる場ではあまり羽目を外せないものだが、今日に限っては当の塞主が相好を崩してあちこちと動き回っているのだから、若い手下達などは特に喜んでいる。
「ああ、さっき見っけた。塀んとこにいたガキどもの中にいたわ」
「え? もう?」
「李のやつが言った通り、派手に牡丹の彫り物入れてる奴。上衣脱いで見せびらかしてんのがいたろ?」
「……何人かいましたけど」
「そん中で一番狡そうな奴。ここの若い連中は大体宋万ファンだろ。喧嘩っ早くて面倒見がいいからな。けど宋万は使えねえ奴にはとことん冷たい。あぶれた奴が残る──おう、飲め飲め白! 怪我なんて酒で治すのが一番だぜ」
のんびりと世間話でもするかのように喋っていた口調がいきなり変わったのは、白勝の後ろから酌をしに数人の男達が寄ってきたからだ。たった今名前が出たばかりの宋万だったので白勝は内心ぎくりとした。
「《八尺腿》兄貴、《白日鼠》兄貴。さあ飲ってくれ、こんな小せぇのじゃなくて。おい、誰かもっとでかい盃を持ってこい! 気が利かねぇ奴らだ」
「あはは、樽貸しな」
劉唐は宋万の手下から酒樽を軽々と引ったくり、やおら掲げると口をつけてごくごくと飲みだした。既に出来上がっている男達がわっと歓声を上げる。
「り、劉さん、水じゃあないんですから」
「うへえ、旨ぇ!」
樽に僅かに残っていた酒を頭から浴びて、劉唐は大きく息をつくと破顔した。空の樽を投げ出す。
呆れて見ていた宋万が口元をほころばせた。
「とんでもねぇ人だ。あんたにかかればこの城の回りもすぐ干あがっちまう」
「水の方が怖えぞ。俺様達が黄泥岡で楊志に飲ませたのは酒じゃなくて水だからなあ」
「お、誰だいそりゃ!」
見る間に劉唐らの周囲に人だかりが生じた。生辰綱を強奪した武勇伝が聞きたいのだ。よっしゃ、と劉唐は酔った足取りで立ち上がった。男達が囃し立てる。
「んじゃ話してやろうかい。俺様達の活躍ぶりをよぅ。まず登場するのはこの《八尺腿》、この俺様が旅すがら、ちょっとばかし面白そうな話を聞きつけたとこからだ……」
多少危なっかしい足取りで彼は上席の方へと歩き出した。ぐらりと揺れては卓に躓いて盃や皿をひっくり返し、踏み潰しながらも、彼は上機嫌で喋り続ける。
「そこにおわすは《鉄天王》晁蓋、俺様の親分だ。何でこのでっけぇ俺様がちっこい親分の下にいるかって? そりゃあ大層な恩義があるからよ。ま、それについては聞かねえでくんな……この劉唐、一度受けた恩は三世過ぎても忘れねえんだ」
女達の手で甘く抓られ、髪を引っ張られていた晁蓋が劉唐を見やった。巨漢がにやりと笑う。その怖ろしげな風貌で笑うとまるで威嚇しているように見える。
間近まで来ると劉唐はくるりと振り返り、一同を見回した。
「話はこうだ。大名府の留守司、梁世傑って悪党が舅の生辰祝いに大層なものを贈る。毎年やってることだが、ここ数年はしょっちゅう途中で消えちまう。だから今年はちょっと奮発して何と十万貫だ、お天道様だって買えらぁ。こいつはどうしても届けなくちゃなんねえ……」
白勝はそろりと動いた。皆の視線は劉唐に釘付けになっている。
断金亭を出ても劉唐の声はよく聞こえた。下っ端の連中がそこかしこに座り込んで宴会の相伴に預かりながらそれを聞いている。白勝は用足しにでも行くようなふりをしてその場から離れた。
呉用が席を外すのは白勝ほど楽ではなかった。質素ななりをしていても目立つというのに、今日は朱金の糸を織り込んだ真紅の襦裙をまとい、艶やかに化粧している。酌をして回る女達も皆着飾っていたが、匂い立つような気品すら備えたこの女は誰よりも人目を惹く。天子様の後宮はおろか、月の姮娥も嫉妬するよ、と誰かが誉めそやした。
「呉用様、少しお酒が過ぎたのでは?」
「ええ、少し風に当たりたいわ」
阮兄妹に随ってきた若者達の中から范陽帽を被った少年が立ち上がり、控えめに手を貸した。通りすがりの酔漢らは呉用の艶姿に見入るばかりだ。歩く度にふわりと芳しい香りが漂った。
ふらふらとしながらも呉用は少年の助けを借りて何とか宴席を抜け出した。その足取りがふと常のそれに戻る。
「嫌だわ、本当に暑い」
呉用は困惑して袖で顔を扇いだ。
「のぼせたか」
「あまりお酒は飲めないのよ。あなたはまるで平気なのね」
「水ではないからな」
呉用は苦笑した。
俯き加減だった少年が頭を上げると、范陽帽の下からちらりと青い痣がのぞく。
「阮小五が目をつけられているようだが」
「妥当なところでしょう? 次は劉唐の番ね。……小五は別に演技させているのではないけれど、元々陽気で派手だから王倫の気に入ると思ったわ。見たところ、今のあの人の派閥には大した人材がいないもの」
聚義庁の奥はまるで小宮殿だ。苑子城周囲のみすぼらしさとは裏腹に、朱門の塗りも美しい。
楊志は先導して歩きながらちらりと彼女を見やった。
「わざと王倫にそう仕向けたのか」
「これは布石よ。他に幾つか方法を考えてはいるけれど」
呉用は微笑んだ。
「大の男達が十歳の孩子にごく自然に従っていては違和感があるわ。どうしてあんな孩子を? と皆が訝しがるのは当然。見張りの誰かが言ってくれたわ、大変な恩義のある人の遺児だから仕方なく晁蓋に従っているのではないかと。皆それで納得したようね。白勝がそれを報告してくれたから、逆に利用してみたの」
あえて嘘を塗り重ねたわけではない。演技してみせたのは小器用な劉唐一人だ。ほんの一瞬のいまいましげな表情や孩子を小馬鹿にしたような目つきだけ、しかし多くの者は推測を確信に変えた。
誰が好きこのんで孩子の配下になりたがる?
小五や白勝には何も手を打たせなかった。配下が全てあからさまな態度を取れば不自然になる。最も態度が大きい劉唐一人が王倫の前でそう振る舞ってみせれば充分だ。
「劉唐達のおなかの中は不満だらけ……王倫は当初からそう推測していたようね」
「だが、そもそもここに来たのは誰の発案だと?」
「あれほど大きな事件を起こせば逃げ込む先はまず、太行山か梁山泊。ここに向かうことを私達が揃って晁蓋に勧めたとしても全く不自然ではないでしょう」
「つまり、晁蓋の麾下に軍師はいないと王倫は見る」
呉用は朱唇をほころばせた。
当然だ。このたおやかな美女が一行の参謀格だと、誰が見破れよう? 王倫のような男は、この美貌の下にそれ以上の何かが隠されているなどとは夢にも思わない。否、大抵の男ならばそう信じ込んでしまうだろう。
これは呉用の武器だな、と楊志は胸中で頷いた。晁蓋の幼さにしろ呉用の容貌にしろ、常は逆に作用してしまうものだが、今は役に立っている。
「私達はただの寄せ集めなのよ。頭を使って丸め込む必要などない。そう信じさせて、王倫を安心させてあげなくてはね。──ほっとした彼は今度は懐柔に取りかかる。林冲に小二をぶつけて力を削ごうとしたことからも、彼が劉唐か小五を手懐けようとするのは間違いないわ」
「奴らを唆して晁蓋を追い出す……か?」
或いは──十歳の孩子が一人消えたとしても、ここでは話の種にもならないだろう。
「この辺りだろう」
召使いの大半は宴席でのもてなしと料理運びに大わらわらしく、奥はがらんと静かだった。
大きな屋敷は造りが決まっている。梁山泊の主立った面々はこの屋敷内に便宜的に房を与えられているが、王倫とその女達の他に寝泊まりしているのは妻帯していない若者ばかりだ。攫ってきた女達を妻や妾にする者が多い中、林冲は屋敷の外れに一人で住んでいるのだと白勝が既に探り出していた。
彼は先程の宴にもちらりと顔を出しただけで、酒が回り始めると引っ込んでしまった。彼の愛想のなさは有名らしく、皆は気にも留めていなかった。あれは無粋な男なのだ、と王倫が酌をしてやった呉用に苦笑してみせたほどだ。
「あれでよく部下が懐くな」
楊志も同じことを考えていたのか、ぼそりと呟いた。
「あなたは軍人だったものね。……そういえば気になっていたんだけれど」
「どうやって性別を誤魔化したか、か」
楊志は声を立てずに笑ったらしい。
武挙は簡単な筆記試験の他に実技、そして体力や健康状態を調べられる筈だ。男装した少女が出征する物語はあるが、実際にそれが通用するかどうか。
「家医に作らせた測定書を出して通した。時には疑う者もいただろうが、私の他に子がいないことは知られていたからな」
関西の楊家には男子が必要だったのだ。楊志が女であれば将軍職を継ぐ者がいなくなる。それは惜しいと誰もが考えたのだろう。ましてや楊志には天賦の才があった。
「親類から男の子を迎えれば……」
「父は男子を儲けられなかったとは信じたくなかったのだろう。私は父に女と呼ばれたことはない」
しかし、『子』として省みられたこともなかった。彼は楊志に武芸の師をつけ、軍に入らせたが、直接命じたことはなかった。誉めることも叱ることも。罵倒されたのは母だけだった。
「おかげで父が生きていた間は婿を取らされずに済んだ」
「今のあなたはあなた自身が望んだ姿なの?」
楊志は再びちらりと呉用を一瞥する。どこか面白がっているように見えた。
「そうらしい」
「そうらしいって……」
「一時は迷ったが、ふと気づくと元の道に戻っていた。あの晁蓋に罵倒されるのはもうこりごりだ」
常の淡々とした口調のまま、しかし黄泥岡に辿り着いた時の荒んだ雰囲気は消えていた。ちらりと見えた楊志の硬質な横顔を呉用は美しいと思った。
「羨ましいわ」
美女の吐息は静寂な廊下の中で霧散した。
「私は……どうしたら晁蓋に嫌われないでいられるか、どうしたら誉めてもらえるか、そんなことばかり悩んでいるのに」
先程の悠然とした策謀家の表情はかけらもない。
楊志は一室の前で立ち止まり、不思議そうに彼女を見やる。呉用は戸惑った。
「あの?」
「……いや。『可愛い女』とはこういうものかと思って」
ひどく真面目にそう言って、楊志は房内をちらりと窺い、呼びかけた。
「──《豹子頭》」