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蓋星水滸伝
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蓋星水滸伝
第一章
黄泥岡の休憩所は賑わっていた。
陪都北京大名府から、西回りの街道を経て帝都東京開封へ向かう旅人が休憩するに頃合いの場所だ。あちらでは商人と荷運びの男達が木陰に腰を下ろし、こちらでは少年が二人、何やら口論している。
街道に意地悪く照りつけていた真夏の陽射しは涼しい梢に遮られ、ちらちらと顔に当たるだけ。楊志は思わず小さい吐息を洩らしてしまった。人々の談笑や物売りの呼び声はのどかだ。険しい山道と淋しく危険な地域を抜けてここまで辿り着いた旅人には、見知らぬ人々のさざめきすら心楽しいものである。
緩みかけた気を引き締めて、楊志は人々から離れた木陰に腰を下ろした。黄泥岡は決して安全な場所ではない。否、北京から東京に到る街道はどこもかしこも物騒なのだ。山林には山賊が住みつき、湖水には湖賊が待ち構える。紫金山、二竜山、桃花山、今まで抜けてきた街道筋は野盗が横行する地域として特に知られていた。安堵するには早すぎる場所だ。
こんな土地に休憩所をこしらえようとする者が堅気である筈はない。楊志は巡礼らしい老人に果物を売りながら調子よく喋っている青年を観察した。やや長めの髪を気障にかき上げる癖のある優男だ。素人目には足払い一つでたやすくひっくり返りそうに見えるだろう……だがほっそりとした顔にちらと浮かぶ鋭さは、軟弱そうな外見がただの見せかけにすぎないことを物語っている。鍛えられた拳をしている、と楊志は胸中で呟いた。ひょろりとした痩躯は以前手合わせをした男に似ていた。──比類なき槍棒の達人、あの男も山賊に身を落としていた。理不尽なことに。
果物売りの青年の横の屋台で酒を売っているのは、むっつりと無愛想な大男と生意気そうな娘だ。くっきりと濃い眉や日焼けした肌がよく似ているので、この三人は兄妹だと容易に判る。娘が目踏みするような目でこちらを眺めていた。さらりと長い髪、若い川魚のような身体。濃い化粧をしているがまだ十五、六歳だろう。応対は突っ慳貪だが巧く客をさばいている。楊志はこんな少女が少々苦手だった。
長兄らしい大男は妹の無頓着な態度をたしなめる風でもなく、黙々と酒を計ったり樽の残り具合を見たりしている。最も用心するべきはこの男だ、といつの間にか敵に差し向かっているような心構えになっている自分に気付いて、楊志は苦笑いした。大名府の軍でも滅多に見かけないような、見事な体躯だ。雰囲気にも凄味があるが、殺伐としたものではなく静かな……虎が悠然と横たわっているかのような凄味だった。チンピラではない。賊だとすれば、かなり上の。
「うるせぇなあ、まだごちゃごちゃ言ってんのかよ、しみったれ野郎」
少年の声に物思いからさめて、楊志は思わずそちらを見た。走り回っている少年達のうち、片方はせいぜい十二歳くらいの孩子だった。汚いなりにぼさぼさの髪、むき出しの腕や頬は湿疹だらけだ。この辺りの農民の子か乞食だろう。
「あのねえ、人の水筒空っぽにしといてその言いぐさは何?」
「お偉い道士サマなんだからぱっと出せば?」
孩子にしては低い声だ。ちらと見た顔は手のつけられない悪たれそのもの。黒い目を煌めかせ、孩子はへっと笑った。
「ついでにそこらの連中に振る舞ってやりなよぅ道士サマ。ここらの酒売り果漿売りのがめついこと、水も金取るんだぜ。幾らでも汲んでくりゃいいのに」
憎まれ口を叩かれ、憮然としている方は道士見習いらしい少年だった。おやと誰もが見直すほど品の良い、華奢な体躯の少年だ。良家の出かもしれない。
「あーあ、また喉乾いちまったなぁ」
大げさに呟いてみせ、孩子は笑い声を上げて飛び退いた。少年道士が襟首を掴もうとしたのだ。ひょいひょいとあちこち跳び回っていたその足が楊志のそれにひっかかり、孩子は声を上げて草の上に転がった。
楊志はじろりと彼を見やった。爪先を引っ込めて避けてやったというのに運悪く、後ろを見ていなかった孩子は引っ込めた方に跳んできたのだ。
「痛い」
「おいらのせいじゃねぇよ、あのバカ道士のせいだよ」
派手に打った頭をさすりながら孩子は楊志の顔を見上げ、ふと目を細めた。まるで猫のようだ。孩子に似合わぬその一瞬の表情に違和感を覚えるまでもなく、予想していた反応とはどこか違っていたことに楊志は気を取られた。
楊志の右目蓋から頬にかけて、生まれつき目立つ青痣がある。竜の形だと誉めた易者もいれば、獣の斑だと嘲笑った者もいる。好意的な者でも気の毒そうに目を背けることが常だ。だがこの薄汚い孩子の視線は好奇や同情のそれではなかった。……何か別の。
だが次の瞬間、彼は意地の悪い笑みを浮かべて楊志を覗き込んだ。
「それ失敗した彫り物かい? 兄ちゃん。それとも染物屋の店先でひっかけられた?」
楊志は言葉では答えなかった。代わりに片脚でその孩子を藪の中に蹴り飛ばしたのだ。彼は鞠のようにぽぅんと宙を飛んだ。乱暴ごとには慣れているだろう人々も思わず会話をやめ、ぽかんと口を開けている。憎たらしいとはいえ、いたいけな孩子ではないか。
「痛ぇ!」
藪の中から孩子の元気な声が上がった。傍目にはごく無造作な動作だったが、楊志はごく慎重に蹴ったのである。怪我はしていない筈だ、せいぜい棘に引っ掻かれた程度だろう。人々はほっとして、再びそれぞれの談笑に戻った。
「ちょっとからかっただけじゃんか、乱暴者……やぁなヤツ」
ぶつぶつ言いながら出てきた孩子は、しかし楊志とは目を合わせようとせず、すごすごと屋台の裏の方に姿を消した。一人取り残された少年道士が立ち尽くしている。
何事もなかったかのように汗を拭っている楊志に、果物売りの青年が声をかけた。
「いい薬さ、あいつには。あんた一人か? 兄さん」
「……ああ」
こちらに構うなと雰囲気が物語っていることに気付かないのか、青年は気安く楊志に話しかけてくる。梨と瓜をあらかた売り終えて暇らしい。大抵の女なら思わず微笑み返したくなるだろう、気持のよい明るい笑みだ。
「あんた見たとこ身軽だし、一人っきりで東京まで? 度胸あんなぁ。どこかの山の親分の使いか何かってぇなら判るけど」
青年は楊志の朴刀を一瞥した。朴刀とは青龍刀に似た、ごくありふれた刀の称だ。鞘のない、山賊や傭兵がよく使う廉価品である。小柄でいかにも少年じみた楊志の体躯に、それはいささか無骨すぎた。
「似たようなものだ」
楊志は無愛想に見上げた。
「ここで商売やってるなら、伝令に根ほり葉ほり聞くとろくなことがないと解ってるだろう?」
きつい一睨みに青年は首をすくめた。
日よけ帽の下の楊志の顔は陶磁を思わせた。青年よりも少し年下だろう。無精髭などまるで縁のなさそうな輪郭に整った顔立ちだが、眼光が冷たかった。若いくせにこんな目をしている者は危険だ、簡単に人を殺す。だが楊志の雰囲気はまたひどく静かでもあった。刃向かわなければ何もしないと、その沈着が語っている。
「そうみてぇだな……悪かったよ。何か買わねぇか? 少しは安くするぜ」
かぶりを振っただけの返事に青年は苦笑した。誰にでも通用する愛嬌が、この無口な少年にはまるで意味をなさない。とっつき悪いなぁ、とぼやきながら、彼は空になった屋台を片づけ始めた。少しばかり残った棗は籠に入れ、兄の屋台の店先にぶら下げる。
──やたら運の悪い奴だとよ。
彼らに今回の話を持ちかけた男はそう言った。
──名前は楊志。武挙に受かって軍人になったがドジってクビ、都でうっかり人斬って前科者。はん、歳の割に経験豊富じゃねぇか。何故か解るか小五?
晁蓋の不敵な笑いを思い出して阮小五は思わず頭を振った。インチキ算命先生に騙されているかのような気がする。あの晁蓋という男の言葉を小五はまだ完全に信用したわけではなかった。知り合ってからまだ一年足らず、今回ほど大きな仕事は初めてだ。
ふと兄の小二と目が合う。解ってるよ、と小五は目だけで答えた。慎重でなかなか首を縦に振ろうとしない兄が、晁蓋とは初対面から何故かうまが合った。あれほど似ていない二人だというのに。
だが、小五が晁蓋を信用するにはそれで充分なのである。
× × ×
「ダンナぁ、追加の水っス」
くたびれた、しかし明るい声に聞き覚えがあった。楊志が顔を上げると、街道の向こう側から来たらしい男が水樽を屋台の側に下ろしたところだった。
ひょろりと痩せた若い男だ。小汚いなりと日よけ笠は日雇い人夫か農民のそれだが、肉体労働者にしては貧弱な体躯だ。すばしこく動く目が楊志を見つけた途端にぎくりとした。同時に楊志が立ち上がる。
「白勝!」
「うひゃ、楊志さんっ」
浮き足だった白勝の胸ぐらをむずと捕らえ、楊志は薄く笑みを浮かべた。
「あは、は、久しぶりっス」
「久しぶりか。そうだな」
「……そいつ何かやったの?」
暇そうな顔をしていた果物売りの青年が物見高く覗き込んでくる。白勝から目を離さず楊志は尋ねた。
「お前こいつとどういう関係だ」
「白と?」青年は面白そうな顔をしている。「そいつ俺の知り合いの店で食い逃げしかけてね、金がねぇっていうから俺達が身請けしてやったのよ。なあ白? お前凶状持ちだったのか?」
「凶状持ち? ま、まさかっ」
「だろうな」
「鼠」
楊志が鼻を鳴らして言い捨てた。へ? と果物売りが問いかける。
「デマ流しやがった情報屋。あの時は世話になったな? 《白日鼠》」
白勝は泣き出しそうな顔になった。
「デマじゃないですよぅ、あの後に状況が変わったんです。楊志さんに知らせようとしたけど、もうあんた出発した後で」
「おかげで見事に襲撃されて警備の私は馘だ。お前、情報を賊に売ったな?」
「そんなぁ、信じてください。おれ、そんな大それたことしませんよ」
周囲に人垣が生じ始めた。人々は興味津々に成り行きを見守っている。細身で年若ながらいかにも腕の立ちそうな楊志と、哀れっぽく懇願している背の高い若者。あばた面の人夫が愉快そうに笑いながら屋台に声を掛けた。
「おい、その新しい水くれや」
はぁい、と少女が兄から手早く椀を受け取ってその人夫に渡す。一気に飲み干し、人夫は美味そうに息を吐いた。
「まだ冷たいな」
「お、じゃ俺も」
「こっちにも」
「はいはい順番!」
「おいお前ら、そろそろ出発だってのに」
「いいじゃんかダンナ、ちょっとくらい。俺ら喉カラカラなんだ」
「さっき酒飲んだせいだろうが」
商人は口の中でぶつぶつ呟きながらも、楊志と白勝のごたごたから目が離せないらしい。
× × ×
「まあまあ、何があったか知らねぇけどよ」
果物売りの青年が笑いながら楊志と白勝を引き分けた。
「それで白の野郎をどうする気さ、兄さん。とりあえず今こいつうちが雇ってるんだけどよ?」
「だから?」
「こいつが誰に何を言ったにしろ、あんたが警護しきれなかったのはホントのことだろ? 楊志さんとやら。過ぎたことでごたごた言うのは野暮だぜ?」
優男は笑みを浮かべたまま言った。
あの阿呆、と見物の人夫らの誰かが呟いた。火に油を注ぐような科白だ。
「見ろよ、青痣の野郎カンカンだぜ……」
隣の男が煩げにシッとその男を黙らせる。
白勝は救いを求めるように酒売りを見やった。だが無口な大男はじろりと見返しただけだ。白勝は肩を落とし、今度は見物人らを見回すが、逆に野次られる始末。
「格好悪ぃぞ腰抜け!」
誰かの投げた食いかけの棗が白勝の額に当たり、ぽとりと落ちた。
「……庇い立てをするなら、お前も鼠の仲間と見なすぞ」
楊志の言葉に果物売りは眉を上げた。見かけによらず短気らしい。
「しつけぇ野郎だな。昔のことをいつまでもねちねち帳面に書きとめている類だなお前? こいつが鼠なら俺は水虎の大将だ、勝手に一括りにすんな」
「何やってんの二哥、仲裁に入った二哥が喧嘩してどうすんのよ」
「喧嘩だったら入るかい。こいつのやってんのは弱い者苛めってやつだろ。自分が仕事失敗しといてその責任を人になすりつけやがって、俺ぁこういうの見てるとむしゃくしゃするんだ」
「もう、めちゃくちゃじゃない!」
楊志が朴刀に手を掛け、果物売りが屋台にあった包丁をひったくろうとした、その時。
「……あ、このっ!」
青年の足元から犬か何かのように飛び出したのは、先程の薄汚い孩子だった。手には水椀を持っている。不意を突かれた一同の脇をすり抜け、孩子はフンと鼻を鳴らした。
「馬鹿みて。密告の方がよっぽど汚ねぇと思うけど」
きょとんとした優男から、殺伐とした雰囲気が不意に消えた。
「そりゃそうか」
見物人の方が気抜けしたほどあっさりと納得して、彼は包丁を屋台の端に突き立てた。
「じゃあ仕方あるめぇ、おい白。この兄ちゃんとこに年季奉公してきな」
「そっそんなぁ……」
楊志の表情は定かではなかったが、朴刀から手を離したところを見れば、毒気を抜かれたらしい。はらはらと見守っていた酒売りの娘が安堵の息を洩らした。
人垣の外でいかにも美味そうに水を飲み干し、孩子は憎たらしく笑ってみせた。
「確かに新しくて美味いよ。その青痣兄ちゃんに振る舞ってやんな、ちょっとは頭冷やせって!」
水椀を放り出すと、人垣の外でそろそろ立ち去ろうとしていた少年道士の額に当たった。やけにいい音がする。孩子は声を上げて笑い、少年道士が怒った声を上げる前に素早く逃げ出した。
「このくそガキ、水泥棒!」罵って青年は兄を振り返った。「長哥、何やってんだよ」
大男は鈍重そうに肩をすくめてみせた。
「ったく仕方ねぇな……楊志さん、あんたもまあ飲みなよ、こう暑いとしなくていい喧嘩もしたくなるからな」
「吹っかけたのは二哥」
「まあまあ。汲みたてだし。おいそこのあんた、椀返してくれ」
人夫や商人がどっと笑う。赤くなった額をさすっていた少年道士が憮然とした。端麗だから余計に間抜けに見える。先程まで腹を立てていた楊志すら思わず唇の端を緩めた。
「酒? 水?」
「水。いや、そっちの樽の」
今の孩子が開けたばかりの樽ではなく、人夫達が飲んだ、そろそろ空になりかけた方の樽を楊志は指した。
「そろそろぬるくなってるぜ?」
「いい」
「用心深いねぇ、あんた」
青年が苦笑した。旅人に薬を盛って荷物を奪う盗賊は珍しくない。人夫達がぴんぴんしているのを楊志は見て取ったのだろう。
少年道士から水椀を取り返してきた少女が、はい、と差し出す水に楊志は口をつけた。濁ってもいない、確かに美味い水だ。
「逃げるなよ。後で片をつけてやる」
好転の兆しを見て安堵しかけていた白勝を小突き、楊志は唇を歪めて笑った。
第二章
大丈夫大丈夫、と楊志を覗き込んでいた小七が兄達に向かって手を振ってみせた。
「ぐっすり。よく効くわぁこの薬」
「そりゃ、学究がくれたやつだもんな」
「鼻の下伸ばして言ってないで早く運んでよ二哥。劉唐、あんた屋台片づけるの手伝って。長哥一人にやらせとく気?」
見れば阮小二は一人黙々と屋台を片づけにかかっている。
人夫の中にいた劉唐は慌てて頭巾を外した。ぎょっとするほど赤い頭髪と喧嘩傷だらけの顔がむきだしになる。傍らにいた人夫が思わず身を退いた。似たような格好をしていたので、隣にいたのが同僚でないことに気付かなかったのだ。
「な、何だよあんた達……」
阮小七はくるりと彼らを振り返った。念入りに化粧した顔でにっこりと微笑んでみせる。年相応の愛らしさだ。
「ごめんねぇ、店じまいなの」
「……あんたら山賊か」
「山賊に向かってその言いぐさはないでしょ」
彼女は楊志の朴刀を注意深く取り上げた。思わず竦み上がる商人を一瞥し、肩をすくめる。
「あたしら堅気の人にメーワクかける気はないから安心してよ。貧乏商人なんて割あわないし」
「はは、そりゃ……まあ」
「しこたま儲けてる悪徳商人なら別だけどねぇ。あ、それって堅気って言わないわね」
彼女は朴刀の刃こぼれ具合を調べながら独り言のようにそう言った。
「でもあたしらのこと密告るつもりなら、見逃すわけにはいかないよ?」
「し、しないっ! 関わり合いになりたくない! 儂らは何も見てないし誰にも会わなかった」
「そう、いい人だねおじさん」
彼女はにっこり笑い、商人の日よけ帽を取って禿頭を撫でた。丁寧にまた被せてやり、今度は真顔でその怯えた顔を覗き込む。
「あたしらのうち誰か一人でも後ろに手が回ったら、あんたら全員にお礼するからね。家族にも」
「おい小七」
初めて小二が口を開いた。
「脅すな」
「あは、何もしてないよあたし」
身軽に立ち上がり、朴刀をまるでおもちゃのように担いで兄の方へと去っていく娘を、商人や人夫達は息を殺して見守っていた。
彼らが我に返った時は兄妹も屋台もきれいに消えていた。眠らされた楊志、白勝、あの少年道士の姿もなかった。
「……ぐるだったのか、あいつら」
商人は立ち上がった。冷えた汗が心地悪い。
「こんなところに長居は無用だ。急ぐぞ、お前達」
人夫達は一様に深々と頷いた。皆同じ意見だった。
「駄目ですよ喧嘩なんて吹っかけちゃ」
「へ、てめぇ俺が負けるとハナから踏んでやがったな?」
「いえいえいえでも」
「何だそのでもってのは」
「包丁一本でどうにかなるお人じゃないんですよぅ」
「まじぃなこの棗。こんなん客に売りつけるなんてひでぇ野郎だ」
「ほんっとに強いんですよあの人。北京の練兵場であの人の試合を見ましたが、大名府随一の武勇で知られる《急先鋒》索超と、ほらあの正牌軍の、あれと引き分けでしたから。でも堂々と出歩ける身体じゃないでしょ? お尋ね者だから。それで奴らに目をつけられたんですよ、でなきゃ幾ら何でも一人で大事な荷物を護送するわけないでしょ」
「セーハイグンって何」
「隊長さんですよ、大名府軍の」
「はん、そりゃすげぇや」
「話せって仰るから話してるんですよぅ阮小五さん、飽きたならそう言ってください、やめますから」
「飽きた」
悲しげに白勝が吐息している。
衝立の向こうから筒抜けに聞こえる会話を聞きつつ、呉用は牀に横たわる楊志の顔を一瞥した。
呉用、通称学究。年の頃二十歳前後の、柔らかく温雅な雰囲気の女だ。身拵えは質素で黒絹のような髪にも簪一つを挿しただけだが、これほどの美貌の主は東京にも滅多におるまい。玉を彫ったような細面の顔に美しい眉、いくら変装しても目立ちすぎるということで黄泥岡での仕事から外され、留守を言いつかっていたのだ。
「ちょっと可哀相ね」
むっつりと陰気な青痣の鏢客。楊志に関する評はいつも同じだった。
人や財産を警護して目的地に送り届ける仕事を生業としている者を鏢客と呼ぶ。その多くは流れ者の武芸者、前科者もいれば罪を犯して逃げてきた者もいる。北京大名府に流れ着いた彼らのうち、最も腕が立つと評判の男がこの楊志であった。白勝が阮小五を危ぶんだのも無理はない。
だが、これほど若いとは呉用も想像していなかった。まだ少年ではないか。
「このままあの人達にこき使われっ放しだともっと可哀相だよ?」
「それはそうだわ。晁蓋が目をつけたのなら間違いはないし」
「それのろけ?」
「うふ。公孫勝、荷物の中にはなかったのね? どういう仕掛?」
なかったよ、と答えたのはあの少年道士だ。腰掛けにちょこんと座り込み、爪先で拍子を取っている様は容貌よりも幼く見える。
「酷いよね」
「もっと解りやすい喋り方しなさいって毎回言ってると思うけど」
「うん?」公孫勝は楊志から視線を上げた。「こんな女の子の身体に封じてるんだよ。確かに落とす心配はないけど、術を解いた後のことを考えてないよね」
呉用は少しの間沈黙した。
「……女の子?」
「女のひとって言うべき? 綺麗な髪なんだから伸ばせばいいのに」
改めて呉用は楊志を見つめた。
目深に被っていた日よけ帽を取った楊志の顔は、きりと引き締まった端正な少年のそれのように見える。言われてみれば女に見えないこともなかったが、柳腰……と呼ぶのは似つかわしくない。筋肉質の四肢は硬く鍛え上げられたしなやかさだ、襦裙や粉黛ではなく刀剣が相応しい。
「何ィ、女?」
衝立の横から耳ざとく小五と白勝が覗き込んできた。小五が哀れな情報屋の頭を肘で小突く。
「白、肝心なことは先に言え!」
「しっ知りませんよぅ、嘘でしょ公孫先生」
「嘘じゃないよ」
「へぇ女? マジ? にこりともしなかったぜ? うそでぇ」
「女だったら誰でもあなたの魅力に参るわけじゃないでしょう、小五」
「あ、ひでぇ」
小五はさして傷ついた風でもなく、眠る女をしげしげと眺めた。
「おっそろしく色気のない女だな、作りは悪くないのに……うーん、何がいけねぇんだ」
「何突っ立ってんの二哥、邪魔邪魔!」
盆を捧げた小七が大声で兄を怒鳴り飛ばした。茶と菓子を盆ごと卓に置き、楊志を見つめている一同の異様さに気付いて眉を顰める。
「なに?」
「しっかしコーソン、何でお前が一番先に気付くよ、脱がせてもねぇのに。このむっつり助平」
「はぁ?」小七は声を上げた。「楊志って女の子だったの……あんた触ったの?」
「ううん?」
公孫勝は不思議そうに彼女達を見上げた。彼の卓越した能力については日頃から感嘆させられていたので(というより呆れていたので)、一同は深く追及しないことにした。要するに天然ボケなのだ、公孫勝は。
「……晁蓋のダンナは知ってて目ぇつけたのか?」
「そんな筈はないわ。今回のは劉唐が持ち込んだ話だもの」
じろじろと無遠慮に眺めている小五の視線を優しく追い払い、呉用は口元に指先を当てて考え込んだ。
「埋め込んでいるって、どこに?」
「どこってわけじゃないんだけど」
公孫勝は指で宙に方形を描いた。緑色の光が指の軌跡通りに浮かび上がる。くるりと指を回すとそれは楊志の上に移り、彼女の丈幅通りに広がった。
まるで敷布をふわりと被せるように、光の線が楊志へと降りた。
否、そのまま彼女を通過する。
光とは逆に、どこからともなく現れて彼女の上に浮かび上がったものがあった。
ぼんやりと青い鬼火のような光に包まれた球のような何か……露の一滴に映った景色のように見える。目を凝らせば、それが整然と積まれた金銀珍宝であることが判る。まるで壺の中の景色を覗き込むように、その不思議な光景はちらちらと揺れる光の中で回っている。
「……何でえ」
「壺中天と似たようなものかな」
「コチューテンって何だよ」
小五はその光の球に触れようとしたが、彼の手は宙を素通りしてしまった。忽ち像が失せ、部屋に薄暗さが戻った。
「……梁中書が道士を雇っているなんて初耳ね」
呉用がちろりと公孫勝を睨むが、道士はにこりと笑い返した。
「うん。オレも知らなかった」
「わざわざ道術で彼女の中に隠す必要があるかしら? 大体壺中天の術なんてあなたよくやっているじゃない、公孫勝。存在性質を変えるかどうかして縮めるんでしょう?」
「あのー学究、俺達に解るように言ってくれませんかね。それ何」
勢いを削がれて呉用は小五を見やった。
「あなたこの前寝ている間に壺の中に閉じこめられたでしょう」
「うんうん」彼は楽しげに頷く。「まさに桃源郷ってやつだったな。湖の畔がこう満開でさ、さんざん泳いだ後の酒は美味いし女達も別嬪揃い。お前にしちゃ気が利いてたぞコーソン」
「実際はあなた、味噌壺の中で寝ていたのよね」
「それ思い出すとちょっと……」
「掃除の邪魔だから二哥どっかに移してって頼んだのよ、あたし」
小七の手招きで一同はぞろぞろと場所を移し、卓の回りに陣取った。
「つまり距離や時間を伸縮させて、壺の中に一つの世界を作っていたのよ。ね?」
公孫勝は難しそうな顔で首を傾げた。
「オレ何言われてるかよく解んない」
「つまりね、彼女の中に封じ込むなんてことが出来るなら、どうして道術で財宝を直接東京まで運ばないの?」
「あれが目当てなの、オレ達?」
「あんた今まで何を聞いてたのよ!」
立ち上がった小七に両耳を引っ張られ、公孫勝は悲鳴にも笑いにも聞こえる奇妙な声を上げた。
「あはは、くすぐったいよ」
「ああもう! あんた痛覚ないんだっけ、むっかつく!」
「まあまあナナ。燕に向かっててめぇの翼は何だって訊いても始まんねって」
「この子は特殊だから……」
「こいつの頭は燕レベル? 道士って頭が軽いから飛べるの? 学究も二哥もしっかり妥協してんじゃないわよこいつのアホさに!」
呉用はおっとりと頬に手を当て、困ったように微笑んでいる。
「あっあっあのぅ小七さん、あまり賑やかだとあの人目を覚ましてしまいませんか?」
一同は思わずぴたりと身動きを止めた。楊志の様子を窺った公孫勝が首を振る。
「寝てる」
小七はゆっくりと深呼吸した。口を開こうとした瞬間、別の低い声が一同を打った。
「うるせぇなてめぇらは……一里先からでも楊志の居場所がバレるぞ」
「晁蓋」
「ナナ、お前キレてんじゃねーよ」
白勝は思わず飛び上がった。そのまま部屋の隅に飛び退き、直立不動で立っている。椅子が足りなかったのだ。小七が兄の小脇をつついて促し、皆は席を一つずつ移った。
空いた上座に着いたのは、黄泥岡で公孫勝と騒ぎを起こしていた、あの孩子だった。
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