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戦略美術部 0:アンダーグラウンドにようこそ
大抵の学校には七不思議や怪談がある。うちの学校でも勿論、ちょっと昔は墓場だったとか沼地なので校舎が傾きつつあるとか図書室の天井に血がしみ出すとか校長の奥さんがすごい美人だとか、まことしやかに噂されている。しかし、新入生がそれらよりも先に耳にすることが確実に一つだけある。
先輩から後輩への忠告だけじゃない、教師すら真顔で言うのだ。お前達、せっかくの将来を棒に振りたくなければ美術部には近づくな、と。
神田川学園美術部はボイラー室の前にある。
ぴかぴかの一年生が最初のホームルームを終えて昇降口へと降りていく時、少しでも注意力のある者は更に地下へと続くその階段に気づくだろう。そこの蛍光灯はいつも弱々しく灯っているが、階段があまりに急すぎて一番下までは見通せない。ボイラー室の中から聞こえる可動音を聞いて、大抵の者は興味を失うだろう。しかし更に注意深い者は、その地響きめいた音の中に微かな笑い声やその他不思議な──時には何か聞き覚えのある物音を聞くだろう。
ここで先輩や教師のありがたい忠告を思い出した者は昇降口を出て明るい外気の中に出ていくといい。残る僅かな者、忠告など無視した愚か者や好奇心が旺盛すぎる者だけがおそるおそる階段を下っていく。そして彼らは思い知ることになる。
『美術部への階段を下りていった者は二度と戻って来られない』
僕にとってはただの事実だ。
階段を下りる時には注意が必要だ。暗い上にまっすぐな急勾配の下はコンクリ。手すりを無視する気にはなれないと思うが、万が一足を滑らせれば複数の骨折と脳挫傷は免れないし、運悪く僕らが部室に来ない日であればおそらく誰にも発見されないまま生涯を終えることになる。まあ、僕らが誰一人として来ない日にそれ以外の者が通りかかるとは思いがたいが。
何しろ、さっき始業式を終えたばかりだというのに、もう部室には明かりが灯っているくらいだ。
ドアを開ける時も注意が必要だ。何しろここは狭い──六畳分もないだろうスペースに備品やがたがたの机が運び込まれ、ハムスターの巣穴のように居心地良く作られている。湿っぽさや壁と人体との距離も同じ程度。ちなみにこの敷地が昔沼地だったというのは本当だ。
奥には小さな小部屋がある。(僕らはただ《奥》と呼んでいる)。小部屋というより厳窟王が掘った横穴めいたスペースだ。この厳窟王はよほど飽きっぽかったらしく、畳半畳分くり抜いただけで諦めてしまった。天井がほぼ四五度に傾いているのはその真上が例の恐怖の階段だからだ。ここは新聞とマットが敷かれ、奥には雑誌やごたごたした道具類が積み重ねられ、ベテランの路上生活者に誉められそうな生活空間になっている。湯沸かしポットや茶道具も完備しているので、授業をサボる時など最適の場所だ。ここに座った者は必然的に茶坊主、つまり皆のお茶くみ担当となる。
言うまでもないが、ここには我が部の最も重要な備品が揃っているので、抜き打ち検査の時にここにいた者は速やかに危険物を敵の目に触れない場所に隠すこと。さすがにコタツは隠せなかったので没収されてしまい、授業をサボってコタツで寝ていた箕面先輩は三日間の停学処分を食らった。
──ああ、箕面先輩を知らないんだっけ。ではこんなくどくどしい説明はやめて、さっさと現在の時点に戻ろうか。
ドアを開けると正面の壁に写真が貼られていた。アメリカの禁酒令時代に脱税で捕まったコルシカ男のようだ。よく見ると、それは写真ではなくルーズリーフに描かれた絵だった。点描だけで気長に描いたやつだ。こんなことが出来るだけの腕と忍耐力を兼ね備えた者は、美大志望の麻植先輩の他には越生くらいしかいない。麻植先輩が暇つぶしにアル・カポネの絵を描くだけの理由もない。
「労作だね」
「あ、ネコミおはよう。コーヒーいる?」
奥のポットの前にしゃがみ込んでいた男がのんびりと言った。
「砂糖要らない」
「にゃあ邪魔。うりゃっ!」
声と共にアル・カポネの鼻に何かが突き立った。ダートだ。よく見ればルーズリーフは段ボールの切れ端らしきものに貼られていた。
「何すんだよ天満、もったいないな」
「天誅!」
「は?」
「はいコーヒー。飲むなら座ってね、そこ二人立ってると邪魔だから」
コーヒーの湯気には逆らえず、僕らはおとなしくがたがたの椅子を引き出して腰掛けた。
新部長・越生 徹(は猛獣使いの素質がある。何があってもはははん♪と鼻歌を歌っていられるそのマイペースさに、猛獣もやる気をなくすのだ。絵は巧いのにあまり描かず、大抵は奥のマットの上に寝転がってマンガや哲学書を読んでいる。
その向かいに座ってコーヒーを検分している長身の男は副部長の天満正直(。思うに名前の方は完全な命名ミスであり、姓の方も天魔(の方が相応しい。ナントカというロックミュージシャンから甘さを抜いたような顔の、とにかく積極的で精力的なこの男が何故美術部なんかに(迷惑にも)入部したのか──この学校の美術部を知らなければそう思うことだろう。
「天満は生徒会あたり結構似合ったかもしれないよな」
冷めるまでが賞味期限のコーヒーを啜りながら呟くと、天満は鼻を鳴らした。
「何故俺が教師の下僕になぞならんといかんのだ!」
「お前が変えればいいじゃん」
「やだ」
「ところであのカポネ何」
「馬鹿者、あれはウンダバダバのロンゴロイドだ」
そう言われてみるとカポネにしては少し寸詰まりかもしれない。
イタリア男イコール美男だとすれば、うちの校長新治学而(がPTAの奥様がたに人気なのも頷ける。惜しむらくは(笑うべくは)新治校長は彼が自覚しているよりも三十センチほど背が低いことだろう。ちなみにロンゴロイドというのは論語の学而篇に由来しており、天満はよくボンゴボンゴとかホンニャラウンニャとかいう意味不明の擬音語(?)をつける。
階段の上の方から騒がしい音が降りてきた。上品なおとなが眉をひそめる類の、ぎゃははという笑い声と共にドアを勢いよく開けて入ってきたのは、やはり羽咋尊彦(だった。髪も黒いしピアスも一つもない(塞がった跡はある)しネクタイも一応ついているが、この男は齢十七を前にして既に、残業帰りに一杯引っかけたサラリーマン風の雰囲気を醸し出している。
「ちゅーす。相変わらず澱んでんなぁ男ばっかで。暗・い・っての。お前ら背中煤けてるぜぇ? ぎゃははは」
「貴様もその一人になったぞたった今」
「うわっ! オレやだ! 助けて先輩」
ガタイのいい羽咋の後ろから現れたのは、彼より一回りも二回りも小さい箕面明日美(先輩だった。小柄でグラマーで母性本能の塊めいた雰囲気の可愛い元部長。彼女はにこにこと僕らに手を振った。いかに羽咋といえども一人で笑いながら降りてくるわけはないか。
「オッス、久しぶり〜。肉まん買ってきた、あんまんも」
「どうも〜」
越生が嬉しそうにあんまんを手に取った。このラードの入ったアンコがいいよね、と一人で呟いている。
「ピザまん!」
「だってちょうど売り切れて入れたばっかりだったんだもん」
「ピザ!」
天満恒例のだだこねが始まる。僕らは彼を無視していそいそとコンビニ袋を受け取った。
「先輩何飲みます?」
「緑茶。ティーバッグ買っといた」
「ピザピザピザ」
「もう、解ったわよ。今から買ってくる」
ちなみに校門からコンビニまで三分、この部室からだと十五分かかる。僕は天満を蹴っ飛ばしながら立ち上がろうとしたが、先輩はいいのいいのと掌をひらひらさせて出かけようとした。
「肉まんでいい」
むっつりとした口調で天満が言う。あっそ、と先輩は漸く座った。知らない第三者が見れば先輩イジメのようだが、この二人はこれですごく仲がいいのだ。
「お、ゆで卵見っけ。誰かいる?」
羽咋が制服のポケットからちょっと潰れた殻つき卵を次々と取り出した。最後にミカンまで出てくる。
「何でそんなとこに入れてんの」
「いやぁ今朝電車ん中で食おうと思ってたっけ時間なくてよ」
鞄の中からはくしゃくしゃに折り畳んだスポーツ新聞を取り出し、卵を剥きながらエロ小説を読んでいる。箕面先輩が隣からカットを覗き込んだ。下着一枚の女のトルソーだ。
「C」
「先輩いくつ?」
「E」
「乳牛」と天満が憎まれ口を叩き、痛っと唸った。とことん馬鹿だよお前。
「大変だね、肩凝ンでしょ」
「そうなのよーもう、でかいとなかなか可愛いブラ売ってないしさ。卵一個ちょうだい」
先輩と羽咋はひとしきり胸の話で盛り上がっている。聴いてていいのか悪いのか、それでもしっかり耳をそばだてていると荏子田(&江古田(が揃ってやってきた。
「こんちは〜。ほらいるじゃない」
「……始業式なのに。何で皆いるの」
江古田、お前の反応は唯一無二で正常だ。
「ん〜、お昼食べに」
「肉まんとあんまんあるよ、先輩の」
「ラッキー、ごちそうさま。江古田君どっちがいい」
「いや、おれはどっちでも……」
「じゃあ両方半分コしよ」
「やあやあ皆の衆お揃いで」
「あ、おじいちゃんこんちゃ。江古田君こっち座んなよ、戸口塞いでいるから」
直方 凛(は髭を剃っていないのか、一際ジジむさくなったような気がする。ちなみに部内では羽咋がオッサン、直方が爺さんで通っている。……ムサ苦しい。
「今年は女の子いっぱい入れたいね」
同じことを考えていたのか、越生がどこからか菓子パンを取り出しながらしみじみと言った。
「言っとくけど最初は結構いたのよ」
「自己紹介の時天満がアニソンメドレー100をやり始めたらいつの間にかいなくなってたんだよね」
「ふ、所詮その程度ではここでは生き残れる筈もなかったのだ」
「あと菅生のあれ。ねえ、今年は契約書にサインさせるまでこいつとあいつどっかに隠しておこうよ」
「外人部隊に売るんじゃないんだから……」
「こいつというのは俺のことかにゃあ?」
「天満君いつから名古屋の人になったの?」
「違う!」
「まともに絵が描ける人いれないと廃部になっちゃうよ? 今でさえ先輩達と越生しか描けないし」
というか三年生はそろそろ部活どころじゃなくなる筈だ、普通は。
「そうねぇ……」
「よし、決めた! 今年は油絵をやるぞ」
すっくと天満が立ち上がった。
「……道具何もないよ」
「イーゼルならあるわよ? 廊下に」
「あれ廃材かと思ってた」
「直せば使えるんじゃないかな。でも油とか絵の具とかは買わないと」
「よし徴収! にゃあ集めろ、今日買うぞ」
「待て待て待て、いきなりやるったって教える人も何も……」
「気合で何とかなる」
ふんっ、と天満は無駄な力こぶを作ってみせた。だから日本は戦争に負けたんだ。
「水彩の方がなんぼか安い。天満、まずそっちからにしない?」
「ニャーちゃんのタッチはそっち向きかもね」
「じゃあ水彩の道具がとりあえず二セット、油彩が四セットもあればいいだろう。帰りに石原堂寄るぞ」
天満はワケのわからないことを始めるのもあっという間だが、今日は方向としては間違いじゃない。まあ『初めての油絵』なんて本を一緒に買えばいいことだろうし、こういう積極的なところは僕や越生にないので助かる。問題は、この推進力が長続きしないことだが。
「あ〜天満君、アニメックスも買い足そう。文化祭に向けて売れるもの作っておかないとねー」
「よし、要るもん書いとけ」
「紙はワトソンがいいなあ、黄色っぽいの好き」
「そっかあ、文化祭のことももう考えないとね」
若人らしく活発で清々しい空気が漂い始め、まだそれが狭い部室に充満しきらない頃、階段の上から怪しげな気配が近づいてきた。皆は喋ったりメモを書き出したりミカンの皮をちぎったりで忙しく、その物音が聞こえたのはドアの傍にいた僕だけだろう。机の縁を軽く叩く。警戒信号だ。お喋りが一斉に止み、卓上のスポーツ新聞とケータイとマンガが一瞬で消え、目を閉じれば誰もいないと錯覚するかもしれないほど見事に僕らは息を殺して様子を窺った。
明らかに足音を消した誰かがコンクリートの床に降り立ち、部室の前まで歩いてきて、ふとドアが開いた。
「ふはははは!」
現れたのは銀縁の眼鏡をかけた長身の男だ。なりは僕らと同じだが片手に持っているのは鞄から取り出したとおぼしき小型のガスガン、エアガンの数倍の威力を持つやつだ。僕はこいつがこれで六枚重ねの段ボールを打ち抜くのを見たことがある。彼はいつものようにニヤニヤと笑いながら銃口を僕のこめかみに押しつけた。
「何だ、菅生か」
箕面先輩は丸い肩をすくめ、直方はわざとらしいあくびをし、羽咋は「でよー、昨日の深夜ナントカの番組見た?」とバカ声を上げ、越生はちょうど見つけた消しゴムから芸術作品を造り出そうと試みている。天満一人が眉をひそめた。
「うるさい菅生」
「つまんないね君達。普通こう突きつけられたらもっと楽しい悲鳴とか上げるもんだよ」
菅生一耶(は実に楽しそうだ。こいつはネオ○チのどこそこ支部の宣伝部長を勤めているとかアメ横のナントカ商店で銃痕のある軍服を仕入れているとか言われており、まんざらただの噂でもなさそうに思える。(ネ○ナチはシャレにならんからやめろ)。入部したばかりの頃ふと気の迷いで、砂漠での戦闘時のコンバットナイフの使い方について教わって以来、僕はこいつに気に入られたらしい。ルックスはかなりいいのにそれが集客力になかなか繋がらないのは天満と同じだ。
「先輩、新入生勧誘の時はこいつだけは隠しといて下さい」
「そうねぇ、カズ君はねぇ」
「なになに、猫実(はナイフカタログが見たい?」
「いや確かに綺麗だったけどね」
菅生はいそいそと鞄から雑誌を取りだしている。
奥から江古田と荏子田が何やらひそひそと喋っている声が微かに聞こえた。いいよなあカップルは……。だがあまりいちゃつくとキレた菅生がエアガンを撃ち込むし、そうでなくても天満がちょっかいを出すに決まっている。ほどほどにしろよ二人とも。
「おい」
天満がふと思い出したように箕面先輩を小突いた。
「何よ」
「ピザまん」
「……買ってくるわよ」
「猫実、これが今回の俺のオススメだ!」
「ふう、風がそよいでおる。平和じゃのう……」
今年はまともな奴が入ってくるといいな。
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